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第7話

もう我慢できなくなり、霧島栖は無言で立ち上がり、裏庭のプールへと向けた。


夜風は少し肌寒く、彼女がプールサイドに腰を下ろしたそのとき、白鳥瑶がそっと現れた。


「霧島さん」


膨らんだお腹を優しく撫でながら、白鳥瑶は甘い笑みを浮かべて言った。


「久瀬様がね、赤ちゃんが生まれたら都心の別荘を買ってくれるんですって」


「そうそう、あの夜、久瀬様が薬で理性を失って私を抱いた理由、知ってますか?」


彼女は霧島栖の耳元にそっと顔を寄せた。


「実はね、私、その夜あなたがいつも着ている白いワンピースと同じデザインの服を着ていたの。だから彼は間違えたんだ。ふふ……つまり、あなたのおかげで今私がここにいる」


霧島栖が静かに振り返り、言葉を発しようとしたその瞬間……


ドボン――!


白鳥瑶が突然バランスを崩し、プールにに落ちた。水しぶきが大きく跳ね上がる。


「助けて……! 赤ちゃんが……!」


彼女は水中で激しくもがき、悲鳴のような叫び声を上げた。気づいた人々が駆けつけたとき、目にしたのはこの光景だった――


白鳥瑶が溺れかけ、そして霧島栖はそのすぐ傍に立ち、無表情のまま水面を見下ろしていた。


久瀬家は一気に混乱に包まれた。久瀬隼人がプールに飛び込み白鳥瑶を救い上げる頃には、御祖母の平手打ちが霧島栖の頬を打ち据えていた。


「馬鹿者!謝れ!」


顔を横に弾かれ、唇の端から血が滲む。霧島栖はゆっくりと顔を戻し、ふっと微笑んだ。


「はい、謝ります」


その言葉の直後、彼女は助け上げられたばかりの白鳥瑶の腕を掴み、もう一度、水の中へ突き落とした!


「キャ―!」


御祖母が金切り声を上げる。


霧島栖は手首から宝石の腕輪を外した。

それは久瀬家の家宝、彼女が嫁いできたときに御祖母が自らつけてくれたものだった。


「パリンッ!」


腕輪は床に叩きつけられ、音を立てて粉々に砕けた。

月明かりに照らされた宝石は、まるで氷のような冷たさを放っていた。


背を向けて歩き出すと、背後から久瀬隼人の驚愕した叫び声が聞こえた。


けれど彼女は、もう振り返らない。


霧島栖が家に戻って間もなく、大きな音を立てて玄関の扉が開いた。


久瀬隼人がずぶ濡れのまま、風と雨を纏って飛び込んできた。スーツの上着は半分以上濡れていて、髪先からは水が滴っている。どう見ても、急いでここまで来たのが一目でわかった。


彼は荒く息をつきながら、怒りとも動揺ともつかない複雑な感情を宿した目でこちらを見つめてくる。


「もし私に謝れって言うなら、離婚しましょう」


霧島栖は冷ややかに言い放った。


「……離婚」


その二文字が口からこぼれた瞬間、久瀬隼人の顔から血の気が引いた。


「そんなこと言うな!」


彼は完全に取り乱し、駆け寄ってきて、霧島栖をきつく抱きしめた。


「お前は分かってるだろう、離婚なんて言われたら……俺は、もう生きていけない」


彼の目は赤く滲んでいた。その姿が、むしろ滑稽に見えてしまう。


「じゃあ、私の命は?」


霧島栖は静かに問いかける。


「久瀬隼人、あなたは考えたことある?」


彼の身体がぴたりと固まる。


「お前が白鳥瑶とあの子の存在を気にしているのは分かってる。だけど、お祖母様は死ぬ覚悟で説得してきたし、白鳥瑶は俺の命の恩人だ。そんな相手に、流産しろなんて……俺にはできない」


彼の声は掠れていた。


「栖ちゃん、お願いだ。俺の気持ち、理解してくれないか?」


「つまり、お祖母様のことを理解し、白鳥瑶のこともちゃんと理解し、でも……私のことは?」


霧島栖は乾いた笑みを浮かべる。


久瀬隼人は口を開きかけたが、何も言わずそのまま彼女を強く抱きしめた。


「もういい、ね?この件はもう終わりにしよう」


彼は子供をあやすように背中をぽんぽんと優しく叩きながら囁いた。


「今日の事は俺がちゃんと説明する。お祖母様にも……子供が生まれれば、きっとすべて元に戻るから」


霧島栖は彼の腕の中、慣れ親しんだヒノキの香りを感じながら、ただ疲弊していた。


その腕は今も温かく、心音も変わらず穏やかだった。けれど、自分の心は、もう冷たくなっていた。


戻れない。


永遠に、戻れない。


久瀬隼人。

私は新しい人生を歩き始める。

そこに、もうあなたはいない。

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