それからの日々、久瀬隼人は何かを察したのか、霧島栖に片時も離れようとしなかった。
トイレに行く時さえ、彼はドアの外で待っているほどだった。時折、白鳥瑶が目を潤ませて部屋の隅に立っているのが視界の端に入っても、彼はただ眉をひそめるだけで、見て見ぬふりをした。
「栖ちゃん」
ある朝、彼は突然金色の箔押しの招待状を差し出した。少年のような輝きがその瞳に宿っていた。
「今日は学校の創立百周年記念式典があって、同窓会もあるんだ。君は何日も家にこもっていたから、ちょうど気分転換になる。昔の友達にも会えるし、行かないか?」
招待状に光る校章を見つめながら、霧島栖の脳裏にふと十年前の記憶がよぎった。あの時も彼は、甲子園の観戦チケットを握って、教室のドアの前で彼女を待っていた。
「栖ちゃん、行く?」
……行こうか。
どうせ、これが最後になるかもしれないから。
同窓会当日、久瀬隼人は終始彼女の手を離さなかった。
昔のクラスメイトたちは「やっぱり完璧カップル」「お似合いすぎる!」とからかい、誰かが思い出したように言った。
「そういえば、久瀬くん、栖のために限定版アルバムを買おうとして、徹夜で並んでたよね?」
彼は照れ笑いしながら、霧島栖の腰に腕を回し、指先でそっと撫でるように触れた。その仕草は、言葉にしない懇願のようだった。
「タイムカプセル、覚えてる?」
級長が懐かしそうに言って、大きな箱を抱えてきた。
「十年前に書いた手紙、今ここで返却するよ」
皆が次々に前に出て、自分の手紙を受け取っていく。
霧島栖も自分の封筒を開けようとしたその時、久瀬隼人がぴたりと動きを止めた。
彼の携帯が鳴っていた。
「瑶さん」だった。
彼は一瞬霧島栖を見て迷ったが、結局、電話を手に取って廊下へと出ていった。
そして、一分後。
戻ってきた彼の顔は青ざめていた。
「栖ちゃん……彼女が転んだ。今、病院に運ばれてて……」
「行きなさい」
霧島栖は静かに言葉を遮った。
「子供が大事だから」
彼は安堵したように微笑み、彼女の額に軽くキスを落とした。
「すぐに戻るよ」
彼の後ろ姿が去っていくのを見送りながら、霧島栖はタイムカプセルから久瀬隼人の封筒を手に取った。
「二十六歳の久瀬隼人へ」
そう書かれた封筒を、彼女は少しだけ迷ってから、そっと開いた。
手紙はすでに黄ばんでいたが、文字はまだはっきりと残っていた。
十六歳の久瀬隼人は、弾むような筆跡でこう書いた。
「二十六歳の久瀬隼人へ:
君はきっともう栖ちゃんをお嫁さんに迎えている頃だろう?羨ましいな。
君が今送っている生活は、まさに俺が夢にまで見ていた未来だ。
だから、絶対に栖ちゃんを大切にしろ。
骨の髄まで、彼女を愛し続けるんだ。
でなければ、俺は絶対に君を許さない。
彼女に毎日あったかいミルクを飲ませるのを忘れるな。彼女は胃が弱いから。
アイスランドにオーロラを見に連れて行け。彼女は七年もその夢を語り続けていた。
雨の日が一番嫌いなこと、パクチーを食べるとアレルギー症状が出ることも忘れるな。
それから、それから……彼女は暗闇が怖い。
だから絶対に、彼女を一人で夜道を歩かせるな。
そして、便箋の最後に、小さく追記された言葉があった。
それは、彼女に向けられた言葉だった。
「栖ちゃん、もし十年後の俺がお前に酷いことをしたら、俺の元を離れてくれ。絶対に、俺を許すな。」
霧島栖はそっとその一行に指を滑らせた。
そして、ぽろぽろと涙が落ちた。
「……はい」
彼女は誰もいない空間に、ぽつりと呟いた。
「あなたの言う通りにする」
同窓会の後、彼女は友達と一人一人ハグを交わして別れを告げた。
会長は目を赤くしながら笑った。
「次の創立記念式典も一緒に来ような!」
——次なんて、ない。
霧島栖はまっすぐ区役所へと向かった。
ついに、離婚証明書を受け取り、夫婦関係に終止符を打つ。
役所の職員は何度も確認した。
「霧島様、お決まりでしょうか?」
「はい。お願い致します。」
離婚受理証明書をもらった瞬間、心にぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
けれど同時に、不思議なほどの解放感もあった。
彼女は自身の身分情報をすべて持ち去り、片道航空券を手に取り。飛行機に乗り込んだとき、窓の外には血のように赤い夕日が広がっていた。
その光を見つめながら、霧島栖の脳裏に浮かんだのは、十八歳のあの日、学校が終わった後の帰り道で彼に言われた言葉。
「栖ちゃんはお前は俺のもの、逃げられないよ」
……久瀬隼人、あなたは間違っていた。
今度、私は逃げる。
そして、永遠に戻ってこない。