久瀬隼人が病院に駆けつけたとき、白鳥瑶は病室のベッドに座り、涙をいっぱいに溜めていた。
「瑶さん!」
彼はすぐに彼女を抱きしめ、低い声で優しくあやした。
「痛い……」
白鳥瑶の涙はまるで糸の切れた真珠のように、ぽろぽろと久瀬隼人のスーツに落ちていき、胸元を濡らしていった。
「久瀬様……今日はショッピングモールに行って、あなたに似合いそうなネクタイを選んでいたんです。でも……ちょっと足を滑らせて……」
彼女はすすり泣きながら、声を震わせた。
「ごめんなさい……この子がもしいなくなったら……私、あなたにも、お祖母様にも申し訳が立ちません……」
「大丈夫、大丈夫だ」
久瀬隼人は彼女のお腹にそっと手を当て、もう片方の手でその涙を拭った。指先は、いつになく優しかった。
「赤ちゃんは無事だよ。元気だ。……だから心配しなくていい」
白鳥瑶は、さらに弱々しく言った。
「……久瀬様……いえ、隼人様……私はわかってるんです……あなたのお子を授かったからこそ、こうしてあなたのそばにいられるってこと……でも……」
彼女は一瞬言葉を切り、そっと視線を上げた。
「実はずっと、あなたのことが好きでした。だからこそ……あの夜、薬に当たったあなたを見て……助けずにはいられなかったんです……」
白鳥瑶は彼の手を握り、胸元に当てた。
「だからあの日、あなたが倒れていたとき……私は妊娠していたのに、危険を恐れず助けに行ったんです……」
「隼人様、お願いです……私を受け入れてもらえませんか?」
その必死な様子に、久瀬隼人の胸はざわついた。彼は思わず彼女を突き放したが、やはり強く責めることはできなかった。
「瑶さん……子どもが生まれたら、君には十分なお金を用意する。海外で暮らせるようにする……一生、不自由させない」
彼の声は冷え切っていた。
だが、白鳥瑶は諦めず、しがみつくようにして言った。
「……そんなもの、私には必要ありません。ただ……もし私が欲しいのがあなただけだったら……?」
彼女は彼の手を自分の胸にぐっと押し当てた。
「隼人様、お願いです……私を、あなたのそばにいさせて……!」
久瀬隼人は重いため息を吐き、なぜかその瞬間、霧島栖の顔が脳裏をよぎった。
「……だめだ、だめ……」
彼はうろたえたように目を伏せ、彼女の手を振り払って、病室の扉へと向かった。
「瑶さん……君もわかっているだろう。……俺の心の中には、栖ちゃんしかいない」
だが、その背に白鳥瑶は静かに呟いた。
「でも……お祖母様は私のことも気に入ってくれてる。もし私が男の子を産んだら、あなたの妻になれる……そう仰ってたわ」
ベッドに腰かけた白鳥瑶の顔は真っ青で、息も絶え絶えに泣き続けていた。
「隼人様……私のこと、少しも好きになったことなかったんですか?」
その問いかけは、久瀬隼人の心に鋭く突き刺さった。彼はたちまち動揺し、目を逸らした。
「瑶さん……たとえお祖母様がどんな約束をしていても、俺の心には、栖ちゃんしかいない。どうか、止めてください」
そう言って病室のドアを閉め、背中をもたれさせたまま、彼は深く息を吐いた。
なぜだ。あれほど栖ちゃんしか見えていなかったはずの自分の心が、瑶の涙に、一瞬でも揺らいだのは……
「……子どもがいるからだ」
そう自分に言い聞かせながら、ハンドルを握りしめ、会社へと向かった。
仕事に没頭していれば、あの揺れる心とも、かつての自分の声とも、向き合わずにすむ。
それが彼なりの逃げ道だった。
だから彼は、見逃していた。
自分が去った直後、白鳥瑶の瞳に閃いた冷たい光と、唇に浮かんだ嘲笑の気配を。
先まで泣いていた女の顔が、別人のように豹変した。
「霧島栖……あんたは久瀬家に追い出されたくせに、まだヒロイン気取りかって……」
彼女はスマホを取り出し、番号を打った。
「もしもし、黒川社長の秘書さん? 私、白鳥瑶と申します。社長のスケジュールを教えていただけませんか?お金はお支払いしますので……ちょっと、お会いしたいだけなんです」
電話を切ると、白鳥瑶はふっと笑みを浮かべた。
「久瀬隼人……あんたが私を拒むって分かってたら、最初からこんな時間なんて無駄にしなかったのに」
腹を撫でながら、彼女の瞳は鋭く光る。
「でも、幸いに……」
白鳥瑶は口元を吊り上げた。
「幸いに、この子……久瀬家の血なんか引いてないのよ」