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第2話

 長井淳がアパートの鉄扉を押し開けると、蝶番から慣れっこなきしみ音が響いた。この扉は、彼が10歳の時に里の父が施設から連れ帰ってきた時からずっと同じで、開ける度に老いた猫の春の鳴き声のような軋み音を立てていた。『今度の報酬でドアを交換だ』が里の父の口癖だった。だが、三年前のあの日、彼が突然と消えるまで、錆びたヒンジは一度も潤されることがなかった。


 彼は習慣的に扉枠の上のくぼみに手を伸ばしたが、指先に触れたのは薄い埃だけだった。

以前はここに必ずスペアキーが置いてあった。里の父は十中八九、鍵を持ち忘れて外出していたからだ。長井淳が靴を脱ごうと腰をかがめた時、靴箱の二段目に里の父の踵が擦り切れた革靴が置かれたままになっているのに気づいた。靴の表面には分厚い埃が積もっていた。


 シャワー室の給湯器は、三回強く叩かないと動かない。長井淳は錆びた水道管を肩でガツンと押し、三度目の衝撃の後、ようやく熱湯がしとしとと流れ出した。湯加減はいつも不安定で、豚の毛が抜けるほど熱かったり、地下二階の浸水のように冷たかったりする。今日はまだ運がいい方だった。


 「お湯は40度を超えないように。傷口が炎症を起こすぞ。」里の父の声が、今も耳元でうるさく囁いているようだった。長井淳は蛇口を左に半回転させ、湯気の量がすぐに半分になった。腹の傷口に熱いお湯が当たると、奥歯を噛みしめた。蜘蛛の王の牙で裂かれた傷跡は15センチもあり、水に浸かったせいで再び血が滲み始めていた。血の混じった液体が排水口で淡い赤の渦を形成する様は、蜘蛛の巣窟で消化されかけた獲物の残骸を思い起こさせた


 鏡に付いた湯気が水滴となり、滑り落ちた。その筋向いに、彼の腹の傷が映っている。傷の縁はもはや金色に輝くこともなく、普通のピンク色の新たな肉へと変わっていた。治癒速度は先月より17分遅い――長井淳は習慣的にその数字を記憶した。里の父が言っていた、こうした細部を記録することが重要だと。


 リビングの折りたたみテーブルには昨日の新聞が広げられていた。『地下城・デイリー』の一面には「鉄狼騎士団、雷光獣の討伐に成功」の見出しが躍り、ピカピカの鎧をまとった五人組の騎士が怪物の死骸の上に立つ写真が載っている。長井淳は血のついた手袋で新聞を払いのけ、その下に隠れていたコーヒーカップの輪っか型の焦げ跡を露出させた。この痕は5年前からある。里の父が地図の研究に没頭していた夜更かしの夜の名残だ。新しいテーブルに買い替えるとはいつも口にしながら、里の父は失踪する日まで結局替えなかった。


 冷蔵庫が喘息患者のようなうなりを上げた。このアンティークは里の父が廃棄区から拾ってきた代物で、冷やすたびに息切れしそうな音を立てる。長井淳は歪んだ扉を開け、三段目の棚に置かれた青い薬剤に手を伸ばした。ラベルの「A-12」という文字は里の父の乱暴な筆跡だ。一番右端のアンプルを取ると、ガラス壁の結露が指の隙間から手首へと伝った。地下城二層の地下水のように冷たかった。


 針が静脈に刺さる瞬間、長井淳は冷蔵庫の扉に磁石で留められた写真を見た——十二歳の自分が半分崩れたケーキの前に立ち、里の父の手が肩に載っている。あの日、彼らは半月分の配給クーポンをはたいてようやく卵を手に入れた。里の父は不器用にクリームを塗りたくったが、「お誕生日おめでとう」の文字だけは妙に丁寧に書いていた。


 鋭い痛みが、何の前触れもなく襲った。


 まるで焼けた鉄の棒を背骨に突き立てられ、髓を這い上がるように抉られる痛みだった。長井淳が膝から崩れ落ちた時、里の父がいつも座っていた椅子を倒した。黄色く褪せた床の上で体を丸めると、腕の血管が不気味な青紫色に浮かび上がり、皮膚の下で無数の虫が蠢いているように見えた。遺伝子鎮静剤が効き始めるまで少なくとも五分。だが今度の発作は先週の何倍も激烈だった。


 これこそ、多くの進化人間が逃れられない宿痾だった。放射線は異能の進化をもたらすと同時に、遺伝子の不安定化も引き起こす。発作が起きるたびに必要な遺伝子鎮静剤は、無良製薬会社の懐を潤していた。



 痛みが波のように次々と押し寄せてくる。長井淳の視界に白黒のノイズが走り始め、ふと気がつくと、またあの蜘蛛の巣だらけのトンネルに戻っていた。蜘蛛の王の八つの複眼が闇に緑の光を放ち、牙から滴る毒液が防毒マスクを腐食させ、シューッと音を立てて小さな穴を開けていく。あの時、短刀は三匹目の蜘蛛の頭殻に刺さったまま抜けず、やむなく素手で蜘蛛の王の突き出してきた前脚を掴んだ――

 コーヒーテーブルの下に刻まれた背の高さの線が、視界の中でゆらめいている。十五歳の時、里の父がここに線を引いて「ガキのくせに換気ダクトより伸びやがって」と言ったっけ。今ではその刻み目も埃に覆われ、里の父がいなくなってからこのアパートの時間が止まったかのようだ。長井淳の爪が床に五本の白い痕を残す。耳朶には、蜘蛛の群れがササクレ音を立てて這い回る幻聴が聞こえる。あの日、どうやって生き延びたんだっけ? そうだ――里の父に教わった方法で、中和剤を蜘蛛の王の気門に流し込んだんだ…


 薬がようやく効き始めた頃には、長井淳はまるで水に浸かったように全身がぐっしょりと濡れていた。仰向けに転がり、天井に広がる漏水の褐色の痕を見つめる。三年前の最後の豪雨の日、里の父がきしむ梯子を登って屋根を修理し、自分は下から工具を手渡していた。その翌日、里の父は消えていた――残されていたのは、あの手紙と半冊のノートだけだった。


 枕の下のノートの表紙は、もう端が捲れていた。長井淳は見なくても全ページを暗記していたが、それでも三ページ目を開き、里の父の歪んだ字で視界を埋め尽くした:

【地下城へ行く。やらねばならんことがある。もし戻れなかったら、探しに来るな。一人で生きていけ。】


 ノートの後半部分は引き裂かれており、残された紙の縁は犬歯のようにぎざぎざしていた。長井淳は紫外線ライトで照らしたことがある。次のページに押し付けられた筆跡の輪郭が座標の数字だとわかったが、具体的な位置までは判別できなかった。この三年間、地下城の主要七区域をくまなく歩き回ったが、一致する場所はついに見つからなかった。


 窓の外の夕焼けが、壁の古ぼけた振り子時計に最後のオレンジ色の光を投げかけていた。これは地下都市では珍しいアンティークで、里の父は「大沈降」前の地表時代のものだと話していた。秒針が12時を指すたびに必ず一瞬引っかかり、今も「カチ」と小さく響いた。まるで、無情なカウントダウンのように。


 バイクの爆音は、ちょうどその時、轟き始めた。


 長井淳が七台目のバイクを数え終わる頃には、拡声器の電流雑音が窓ガラスをぶるぶる震わせていた。「全区民に告ぐ!議会の命により、B-7区域の全員は直ちに中央広場に集合せよ!繰り返す、直ちに集合せよ!」


 彼は窓へと歩み寄り、ブラインドの羽根を一枚めくり上げた。階下の通りには、六台の装甲バイクが半円を描くように配置され、車体に「城防軍」と黒くスプレーされた文字が夕陽に照らされ、干からびた血痕のように見えた。騎士たちは全員、標準的なヘルメットを装着し、胸当てにはギルド公認のブロンズ級徽章が光っている——そんなランクでは、城防軍の中ではせいぜい巡回隊長止まりだ。


 「最終通告!あと五分で強制撤去開始だ!」


 向かいのアパートの老人が二人の兵士に担ぎ出されていた。片方のスリッパが脱げ落ちている。だが兵士たちは微塵も動じず、老人を引きずっていた――まるで干からびた魚を扱うように。


 階下の拡声器から、より格式ばった声が響いた:「地下城居住区管理条例第38条に基づき、B-7区域に対し四半期ごとの人口確認を実施する。身分証明書を携行の上、指定集合場所にて城防軍の登録業務に協力せよ」。

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