長井淳が再びギルドのホールに足を踏み入れた瞬間、ざわめいていた人声が不自然に途切れた。一斉に視線が集まる中、噂話が疫病のように広がっていく──
「あの少年だって?」
「一人で変異蜘蛛の群れを殲滅しただと?」
「クモ王まで捕獲とか……ゴールドランクの傭兵でも無理じゃねえか?」
長井淳は周囲の視線を無視し、電子掲示板にまっすぐ歩み寄った。指紋認証で懸賞金ミッションの完了手続きを進めようとしたその時――「ガシャン!」、金属製のナックルを嵌めた巨大な手が、突然スクリーンを押さえつけた。
「『手が滑った』のか?」頭上の方から、砂を詰めたようなしゃがれ声が降ってきた。
長井淳が顔を上げると、縦断する傷痕が刻まれた男の顔が視界に迫った。身長は少なくとも2つ分は上で、むき出しの左腕には赤鬼の刺青が躍っている。男は電子アームバンドを軽く叩き、勝ち誇ったように自身のパネルをスクリーンに映し出した。
【氏名:島田 弘毅
身分:一等傭兵
所属:赤鬼傭兵団 団長
異能:エネルギー波動
エネルギーランク:ミスリル級】
この世界では、エネルギーランクは全部で九段階に分かれてい:ブラックアイアン級、ブロンズ、シルバー、ゴールド、ミスリル級、オリハルコン、スタークラスト。そしてさらにその上には——神鍛(ゴッドフォージ)と不滅(イモータル)が存在すると言われている。ただし、これらはあくまで伝説上のランクで、現実で確認された者はいまだにいない。
ミスリル級の傭兵――それは、紛れもない真の強者だ。
傷痕男の背後には、完全武装した五人組の傭兵が控えていた――最低でも全員がゴールド級の実力者ぞろいだ。
「赤鬼傭兵団が接収した。」男が嗤うと、金の犬歯が不気味に光った。「ブラックアイアン級の雑魚は鬼ごっこでもしてろ」。
ギルドのホールに、ちらほらと笑い声が零れる。長井淳の周りには、じわりと人だかりができていた。多くの視線が、彼の何も装着されていない左腕を指さしている――最も基礎的な電子アームバンドさえもないことを嘲笑うように。
「規約では個人でのミッション受諾が認められています」長井淳は静かに言い放った。
男――明らかに島田と呼ばれる人物――は大袈裟に耳をほじりながら、「聞いたかこいつ? ガキが『虫の巣の核心』に単騎突撃するってよ!」と叫んだ。仲間たちに振り向き、「誰かこのガキの死体拾いでもするか? 俺の予想じゃ、3分も持たねえぞ」と両手を広げて見せた。
ドッと哄笑が沸き起こった。ノーズリングの女傭兵が前へ出ると、ゴールド級のアームバンドが光を放つ。「ガキさん、虫の巣のコア放射線量がどのくらいか知ってる?」爆発のジェスチャーを交えながら、「前回シルバー級のバカが防護服のヒビから被曝して、今も医療ポッドで内臓吐き続けてんのよ」。
長井淳は沈黙を守った。彼は島田の右手が常に腰のスピリチュアルガンに触れていることに気づいていた――雷蛇Ⅲ型、闇市場で80万もする代物だ。里の父が言っていたことを思い出す:「この銃の反動で素人の手首は粉々になる」。
「どけ」島田の笑みが突然消え、片方の目に凶光が走った。「邪魔するな」
男は電子懸賞板へ歩み出ると、わざと長井淳に肩をぶつけようとした。しかし接触寸前、長井淳は半歩だけ身をかわし、右手は腰の軍刀に触れていた。
「シャキーン!」
刃が鞘を離れる音は、まるで氷が砕けるようだった。島田は突然硬直し、首元には30センチの黒色軍刀が横たわっている。刀身は蝉の羽のように薄く、照明を受けてほぼ透明に見える。今まさにその刃が彼の喉仏に静かに押し当てられ、一条の血が刀鋒をゆっくりと伝い落ちた。
ホール全体が一瞬にして水を打ったように静まり返った。長井淳には、背後で誰かのゴクリと唾を飲み込む音さえ聞こえた
「もう一度言ってみろ。」長井淳の声は、静謐そのものだった。
島田の片方の目が見開かれた。ゆっくりと両手を挙げながら、金属製のナックルが照明に冷たい光を反射させた。
「落ち着け、ガキ……」
長井淳はほんの少し刃に力を込めた。血の玉が刃伝いに転がり落ち、ギルドの古びた床に濃い赤のスポートを飛び散らせる。島田の電子アームバンドの輝きが突然強まったのが見えた――アドレナリン急上昇の反応だ。
「ランクなど子供の遊びだ。」長井淳の声は刃物のように鋭く、「真の強者とは屍の山の上に立てる者だ。」
ノーズリングの女性傭兵は武器に手をかけていたが、引き抜く勇気はなかった。周りで見物していた傭兵たちは顔を見合わせ、ブロンズ級のザコは半歩後ずさりした。
島田の喉仏が刃の下でぐっと動いた。「……面白い」
長井淳は刀を収めなかった。島田の安たばこの煙と汗の混じった臭い、そしてかすかに漂う恐怖の気配を感じ取っていた。
「ミッション」長井淳は軽く顎を動かし、張り紙の方を示した。「俺も加わる」
五秒。十秒。島田は不意に口を歪めて笑った。金歯が光る。「いいぜ」彼はゆっくりと後退し、サーベルが自分の皮膚から離れるまで待った。「だがな、死んでも文句は言うなよ」。
長井淳が刀を鞘に収めた。刃が空気を切るかすかな音に、周囲の見物人たちは思わず首をすくめた。
受付の爺さんが老眼鏡をずらしながら言った。「ブラックアイアン級がSS級ミッションを受けるなら、保証金は倍だ。40万ポイントだぞ」。
長井淳がターミナルに手をかざすと、背後で島田がノーズリングの女に低い声で聞くのが聞こえた。「あのガキの素性、調べろ」
「システムには記録が一つだけ」女傭兵はタブレットを睨みつけ、「昨日、単独で蛛王を仕留めた……待て、ギルドの評価は『実力隠匿の疑い』だと」。
長井淳は聞こえないふりをした。ターミナルには残高57,000ポイントと表示されている——ちょうど一週間分の圧縮乾糧が買える金額だ。内ポケットの手帳に触れると、里の父の乱れた字跡が布地を透して、肌を焼くように感じられた。
「装備チェック!」島田が手を叩きながら怒鳴った。「1時間後にB区エレベーター集合だ」。
傭兵たちが散り始めた時、長井淳は背の高い男が自分を二度見したことに気づいた。男の腰には禁止品の放射線手榴弾が三つ、腕輪にはゴールド級最上位の証が光っていた。
「おい、ガキ」島田が不意に呼び止めた。「その刀…」
長井淳は足を止めた。振り向きはしなかった。
「…別に」島田は片目を細めた。「その口の利き方に見合った腕前だといいがな」
ギルドの扉を出た時、夕陽がちょうど長井淳の顔を照らした。彼は目を細めながら、遠くB-7区上空で雷雨グループの飛行船が旋回しているのを見た。撤去作業はすでに始まっている。一時間後の虫の巣への潜入は危険極まりないが、たった一つの家を失うことに比べれば、死などそれほど怖くはない。
彼はサーベルの柄に触れた。里の父が失踪前夜、刀を拭いていた光景がふと脳裏をよぎった――あのいつも怠惰そうな男が珍しく真剣な面持ちで言った言葉を。「覚えておけ、刀は人より誠実だ」と。
エレベーター前には既に完全武装した傭兵が数人集まっていた。長井淳はバックパックのストラップを調整した。中には最後の1本となったA-12薬剤と、養父の手帳が収められている。200万円の懸賞金さえ手に入れれば、全てをやり直せる――
たとえ独りになっても、しっかり生きろ――それが里の父の最後の言葉だった。どんなに困難な状況でも、あの男の期待に応えなければならない。
島田が訓示をしていて、「...コアゾーンの放射線量は1分間に3回変動する。臓物を腐らせたくなけりゃ、全員モニターから目を離すな...」その声が遠くから聞こえてきた。
長井淳はエレベーターへと歩いていった。腿側のサーベルが微かに揺れ、それはまるで無言の誓いのようだった。