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第12話

 長井淳は里の父のノートをタクティカルバッグの最深部に押し込むと、無意識のうちに表紙から覗くダビデの星の紋様を指先でなぞっていた。窓外のサーチライトが再び走り、蜘蛛の巣のような影を剥げた壁面に投じ、そして瞬く間に消え去った。その一瞬の光跡を、目が痛くなるまで見つめ続けた。


 引っ越しの支度はわずか20分で済んだ。洗いざらした数枚の服を畳み、金属ケース内の薬剤と共にバッグに押し込む。古い振り子時計の秒針は12時の位置で止まったまま、規則的な「カチッ」という音を響かせていた――里の父がまだいた頃の、あの朝々と同じように。長井淳は3秒間躊躇ってから、結局それもバッグに詰め込んだ。


 「せめて埃くらいは払ってからにすべきか」独り言のように呟くと、ドア枠上部の溝を指でなぞった。すでに薄い塵の層が形成されていた。


 ギルドホールの自動ドアが開いた瞬間、喧噪がどっと押し寄せてきた。今日は普段の倍以上の人だかりで、デジタルディスプレイの前には武装した傭兵たちがひしめき合っている。長井淳が雑踏を掻き分けながら進むと、メタルヒールが床を叩く音が高く響いた。ふと気づくと、ほとんどの者が胸に雷雨グループの仮認証バッジを付けている――遺伝子薬剤を独占しているあの企業が、最近臨時工を大量募集しているらしい。


 「ここの通りかかると思ったよ」


 背後から由紀の声がした。どこか安堵の混じった声だ。振り向くと、彼女のノーズリングが天井灯に照らされ銀色の光にきらめいているのが見えた。戦闘服は新型に替わり、サイバーアームバンドはパワーマックスを示す。左腕の金属化改造部分はマットな質感で鈍く光っていた。


 「ユヴェタンの誘い、断ってきた」由紀が傍らに立つと、金属の指がミッション画面を撫で、かすかな擦過音を立てた。「一晩中、考え続けてたわ」少し間を置いて、「ブリザードは確かに最高の傭兵団だけど…あの人たちはシステム化に過ぎる。私たちみたいに、好きな場所へ行けるわけじゃない」


 長井淳の視線が由紀の少し赤くなった瞼を掠めたが、その言い訳をあえて突っ込まなかった。由紀のサイバーアームバンドが一瞬点滅し、心拍数が急上昇したことを示していた。


 「これを見て」由紀は素早くミッション詳細を呼び出し、話題を転換した。「第6区西側全域が陥落した。今朝入ったばかりの映像だ」


画面にはリアルタイム映像が映し出されていた――第6区の街路を鎌刃ムカデが這い回り、建造物の表面は分厚い生物粘膜に覆われている。説明文は簡潔明瞭だった。【緊急募集:第6区西側ワーカーコロニー掃討、報酬:コア能力を保持+200万クレジット/人、危険度:SS】


 「人間の世界は全部で7区画しかない」由紀は声を落とし、金属の指が無意識にスクリーン上でコードの羅列を叩き出していた。「第1区には議会上層部と雷雨グループの株主が住み、第7区は我々のような『最下庶民』の場所」地図を呼び出せば、七つの同心円状に区画された領域が明瞭に見て取れる。「今や第6区さえ失おうとしている」


 長井淳の視線がミッション詳細を走査した。第1区から第7区まで――中心に近づくほど環境は良くなり、そこに住む人間は富か権力の持ち主ばかりだ。彼のようなブロンズレベルの傭兵に支払えるのは、第7区のスラム街の粗末な部屋ぐらいだった。


 もし第6区が陥落し始めたなら、第7区や他の区域との連絡も途絶え、陥落は時間の問題だろう。


 「受諾する」スクリーンをスワイプし、確認ボタンに指紋を押し当てた。


 「待って」由紀は彼を引き止めると、最新情報を表示した。「最新の情報を見ていないの? ザーグの活動パターンが変わってきている。まるで……計画的に人類居住区を包囲しているみたい」


 チャート上の赤い点は環状に分布し、七つの区域を正確に取り囲んでいる。長井淳は女王のコアに刻まれたダビデの星と、里の父のノートにあった同じ紋様を思い出した。これは偶然ではない。


 「ワーカーにそこまでの知能が?」近くの禿げた巨漢が首を突っ込み、ブロンレベルのアームバンドが微かに光る。「所詮は知能のない畜生だろ」

 由紀の金属化した指が「カチッ」と短剣形状に変化した。「先週の鎌刃ムカデは、もうアンブッシュを仕掛けてきたわ」


 「それは人間の遺伝子が混ざってるからだ。でなきゃ女王のフェロモンの影響さ」巨漢は憮然とした様子で言い放った。「俺が言わせてもらえばな、第7区の最下庶民は全員追い出して、前の6区に集中防衛すべきだ……」


 いつの間にか、長井淳のサーベルが巨漢の喉元に突きつけられ、刃先が一本の血の線を浮かび上がらせていた。


 「もう一言」その声は静かだったが、周囲を一瞬にして沈黙させた。


 巨漢の喉仏が一度上下に動いたが、結局声を出すことはできなかった。長井淳サーベルを鞘に収めると、ギアゾーンへ向かって歩き出した。由紀は小走りに追いかけ、ノーズリングが荒い息で微かに揺れている。


 「本気でザーグにコマンドシステムができたと思う?」由紀が小声で尋ねた。


 長井淳は棚から中和剤の箱を一つ取り出した。「女王はラスボスじゃない」


 由紀のサイバーアームバンドが突然点滅した。「それじゃあ……女王より上位の存在がいるってこと?」金属化した指が無意識にガードモードへと変形しながら、「でもギルドの記録にそんなの、一度も……」


 「準備は周到に」長井淳は彼女の言葉を遮り、ショッピングカートにアンチドートをさらに2本追加した。リュックの中の里の父のノートが熱を帯びているように感じられた――断片的な座標が、まるで何かを形作ろうとしているかのようだった。


 会計の際、カウンター越しの老人が老眼鏡を押し上げながら言った。「雷雨グループがスペシャルコアを買い叩いてるそうだ。ダビデの星の紋様が刻まれたやつをな」意味ありげに長井淳を見て、「一本500万でな」


 長井淳の手が一瞬止まった。「誰の話だ?」


 「闇市じゃみんなが噂してるぜ」老人は歯の抜けた黄色い歯茎を見せて笑い、「どうだ、持ってやがるのか?」


 由紀の金属化した腕が「カチッ」と音を立てて原形に戻った。「ついさっき女王を仕留めたばかりだけど、コア自壊したわ」


 老人はがっかりしたように舌打ちをすると、釣り銭を渡した。「最近そんな話が多い。先週は『アイアンウルフ』も発見したコアが突然粉々になったって報告してきた」声をひそめて、「高級なザーグが遠隔でエネルギーを回収してるんだって噂もある」


 長井淳は釣り銭をしまいながら、タクティカルバッグの中のノートがさらに熱を増したように感じた。里の父が失踪前に最後に向かった先は第6区――ノートに記された断片的な座標の大半も、その地域を指し示していた。


 地下城の入口には長い列ができていた。由紀のサイバーアームバンドがスキャン通過した後、警備員は長井淳を引き止めた。


 「ブロンズレベルの第六区危険地帯単独進入は禁止」警備員が掲示を指差し、「新規定だ」

 由紀が口を開こうとした瞬間、背後から聞き覚えのある声が響いた。「彼は我が輩と同道だ」


 いつの間にか列の最後尾に現れたユヴェタン。コアの指輪が薄暗い照明に青く浮かび上がっている。今日は銀色の戦闘服に着替えており、胸のスタークラストレベルのバッジがひときわ目を引く。供回りはおらず、腰に変形型の拳銷を一丁携えているだけだった。

 「クラウス様!」警備員は即座に姿勢を正し、「もちろん問題ありません!」


 ユヴェタンが長井淳の前に立ち、換気口からの気流で金髪が微かに揺れた。「奇遇だな。どうやら目的地は同じらしい」。

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