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第18話

フライング・インセクトイドの羽が湿った気流を巻き起こす中、長井淳の指はその粗い剛毛に食い込んでいた。洞穴奥深くでブルースパーが闇の中きらめき、それは――七歳の時、里の父が廃工場に吊るしていた蛍光灯のようだった。


 「左へ三歩、転身、右拳を突け――」


 記憶の中の声が鮮明によみがえり、長井淳は里の父の染みついたタバコの臭いまで感じそうだった。あの頃のチュートリアルエリアは廃車置き場で、里の父は廃タイヤと鉄パイプで奇怪な障害物コースを作り上げていた。毎日放課後、幼い長井は目隠しをしたままこの"迷路"をくぐり抜け、里の父は錆びたクレーンの上からぶらぶらと足を揺らしながら指示を飛ばしていた。


 「間違い!」突然、柔らかいホースがふくらはぎを弾いた。痛みはないが、確実に記憶に刻まれる程度の衝撃だ。「ムカデの第三対の脚が最も長い。お前の今の姿勢では、それに払われていたところだ」


 幼い長井は唇を尖らせながら目隠しを引き剥がした。「ずるいよ!本物のムカデなんて見たことないんだもん!」


 里の父はクレーンから軽やかに飛び降り、油まみれの手を作業ズボンで拭うと、まるで手品のように背後から色とりどりの風車を取り出した。「今日はよくできたな、ご褒美だ」


 今思えばあの風車は実に粗末な代物だった――廃鉄板と釘で作られ、塗料もむらがあった。だが七歳の長井淳の目には、店先のどんな玩具よりも輝いて見えた。障害物の間を風車を掲げて走り回る彼に、里の父の声が追いかける。「リズムを意識しろ!ザーグの攻撃は風車の回転と同じだ。その周期を掴めば予測が可能になる!」


 フライング・インセクトイドが急降下し、ハヤトの思考を現実へ引き戻した。前方のトンネル天井から無数の鍾乳石が垂れ下がり、それはチュートリアルエリアにぶら下がっていた無数の鎖を彷彿とさせる。十二歳の誕生日、里の父はそれらの鎖を彩色していたのだ。


 「今日は新しい遊びだ」里の父は火のついていない煙草をくわえ、目を細めて笑った。「俺を捕まえたらケーキを買ってやる」


 幼い長井は興奮して鎖の群れへ駆け出した。里の父はさながら軽やかな猿のように鎖を渡り歩き、時折わざと速度を落として、あと一歩で届きそうな距離を見せつけた。二時間後、ついに里の父のズボンの裾を掴んだ瞬間、二人は廃タイヤの山へと転がり込んだ。


 「やるじゃねえか、小僧!」里の父はハヤトの頭をごしごしと揉みながら、懐から潰れた箱を取り出した。「ケーキは諦めろ。代わりにシュークリームで我慢しろ」


 今にして長井淳は理解した――あの「遊び」こそが、フライング・インセクトイドの背上でバランスを保つ術を教えていたのだと。里の父が揺らしていた鎖は、様々な飛フライング・インセクトイドのモーションパスそのもの。追いかけっこの訓練が、仮想空間把握能力を鍛え上げていた。


 トンネルが次第に広がり、湿った空気に甘く生臭い香りが混じってきた。長井淳は無意識に筋肉に力を込めた――里の父が「危険信号」と呼んでいたものだ。十三歳の時、里の父は訓練に匂いの指標を取り入れ始めていた。


 「この臭いを嗅いだら、すぐにプロテクションを探せ」里の父はチュートリアルエリアの各所に特別調製した臭液を垂らしながら説明した。「ワーカーの酸液のトップノートはまさにこの臭いだ」


 幼い長井は鼻をつまんで抗議した。「くっせえ!なんでこんなこと覚えなきゃなんねえんだよ!」


 里の父は珍しくしばし黙り込むと、手品のようにポケットからフルーツキャンディを二粒取り出した。「なぜかというな…これは命を守る遊びだ。勝った者にはキャンディがもらえる」


 あのキャンディにはいつも微かなタバコの香りが染み込んでいた。里の父が煙草と同じポケットに入れていたからだ。今でも長井淳の舌先には、あの奇妙でどこか温かみのある味が甦ってくるようだ。


 前方の洞窟が突然開け、壁面には蜂の巣状の構造が広がっていた。長井淳の乗っていたフライング・インセクトイドが不気味な震えを見せた――十五歳の時の「特別訓練」を思い出させる動きだ。


 里の父はどこからか片足の不自由なホッパーを手に入れ、鉄製の檻に閉じ込めた。「今日の遊びは観察だ」里の父はスパナで檻を叩きながら命じた。「こいつの攻撃前の兆候を見逃すな」


 幼い長井は丸3日檻の前に張り付いて観察を続け、ついにホッパーの右前肢が二度痙攣することを発見した。「上出来だ」里の父は珍しく笑みを浮かべ、手作りの小刀を渡した。「今度はこいつの攻撃中に、この剛毛一本を削り落としてみろ」


 二十七度の失敗を重ねた末、幼い長井はついに成功を収めた。その夜、里の父は豚の角煮をふるまい、破格の待遇としてビールを半杯許した。「この感覚を忘れるな」里の父は酔いを帯びた声で言った。「生き物には全て弱点がある。ゲームに必勝法があるようにな」


 「キィ―――ッ!」


 鋭い鳥の鳴き声が回想を断ち切った。無数の刀羽鳥が蜂の巣状の穴から一斉に飛び出し、金属質の羽根が幽界の蒼のスパーの光に冷たく輝く。それらが空を覆い尽くす網を織りなすと、巨大な影が頭上へと降り注いだ。


 長井淳は条件反射のようにフライング・インセクトイドを急旋回させた。この回避動作は、里の父が投げつけたゴムボールをかわしたあの時と寸分違わなかった。


 先頭の刀羽鳥の急降下軌道が、長井の目には異常なほど鮮明に見えた――十六歳の誕生日に行われた「最終試験」のあの時のように。里の父は廃工場の最上階に十台のピッチングマシンを設置し、一斉にゴムボールを発射してきたのだ。


 「全部避けたら遊園地に連れてってやる!」里の父がマシンの陰から大声で叫んだ。


 幼い長井はボールの雨の中を駆け抜けたが、結局背中に当たってしまった。「ずるいよ!」彼はむっつりと地面に座り込んだ。「全部避けられるわけないじゃないか!」


 里の父は大笑いしながら彼を引き起こした:「だがお前はもう傭兵の99%より強いんだぞ。」その日、彼らは遊園地には行かず、刀剣店へ向かった。里の父は彼に初めての本物のサーベルを買ってやり、柄には「最高のゲーム仲間に」と刻まれていた。


 現実の刀羽鳥はゴムボールの百倍危険だった。一片の金属の羽根が長井淳の頬をかすめ、血の痕を残した。彼は反手で一閃、鳥の首を斬り落とした。その動作はチュートリアルエリアで揺れるロープを断ち切る時と同じ、無駄のない潔さだった。


 死んだ刀羽鳥が地面に墜ち、後頭部に不気味な傷口が露わになった。長井淳の胸が冷たく沈んだ――この正確な脳幹穿孔は、里の父との最後の「ゲーム」を思い出させた。


 それは三年前の雨の夜だった。里の父がずぶ濡れになって家に飛び込んできた。「最後のゲームをしよう」彼の声は普段にない緊迫感に満ちていた。「この模様を覚えろ」


 濡れた指先が机の上にダビデの星を描き、中心に蜘蛛のようなマークを残した。「これを見たら逃げろ。わかったか? できる限り遠くへ」


 「なぜだ?」若き長井淳は理解できずに問い返した。


 里の父は彼の頭を撫でた。その手はかすかに震えていた。「なぜなら...これはお前だけには絶対に勝ってほしくないゲームだからだ」


 次の日、里の父は姿を消した。残されたのはあのノートと、部屋中に散らかった「訓練用具」だけだった。


 残りの刀羽鳥が突然攻撃陣形を組み、長井淳を包囲した。その動きは野生変異体というより、精巧にプログラムされた殺人マシンのようだ。先頭の刀羽鳥が特殊な鳴き声を発すると、生き残った仲間たちは一斉に飛び立ち、完璧な円形を描いた。


 金属の羽根がいっせいに逆立ち、ブルーレイの中に死の輝きを放った。長井淳がサーベルを握り締めると、柄に刻まれた文字が掌に食い込んだ。里の父は無数の危険に対処する術を教え込んでくれたが、このような自爆攻撃から生き延びる方法だけは、決して教えてはくれなかった。


 「どうやらこれがあの『勝ってはいけないゲーム』らしい…」長井淳は苦笑いしながら身を低くし、降り注ぐデスレインを迎え撃つ構えを取った。


 刀羽鳥の群れが急降下を開始し、金属の羽根が空気を切り裂く甲高い轟音が、すべての思考を飲み込んだ。この最後の瞬間、長井淳の脳裏に浮かんだのは恐怖ではなく、足をぶらぶらさせながらクレーン車に座る養父の姿だった。タイヤの山に一緒に転げ込んだ時の養父の大笑い、タバコの香りがほのかに残るフルーツキャンディの記憶だった。


 サーベルが闇の中に最後の弧光を描いた。

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