長井淳は突き出た岩陰に身を蹲ませ、息を止めた。前方三メートル、二匹のタンクバグがゆっくりと蠢いていた。その硬い外殻は薄暗い巣穴の中で鈍く光っている。里の父の言葉が脳裏をよぎる。「タンクバグの視力は0.1しかない。奴らは匂いと音で位置を把握する」
長井淳トはタクティカルベルトから小さな装置を取り外した──擬似音源だ。基地研究所の最新発明品で、人間の心音を再現できる。スイッチを押すと、そっと装置を通路の反対側へ転がした。
「カチッ」と小さな音がして、擬似音源は10メートル先の岩壁下で止まった。するとすぐに「ドクンドクン」と心臓の鼓動音を響かせ始めた。二匹のタンクバグは即座に音源へ向きを変え、不器用に這い寄っていく。外殻が地面を擦る音が、洞窟の中にこだました。
長井淳はそれらが遠ざかるのを待ち、素早く通路を横切った。巣の内部は予想以上に複雑で、通路は四方八方に伸びており、壁はねばねばした分泌物で覆われていた。彼は地面に光る粘液——ザーグの警戒物質で、踏むとすぐに巡回兵がやってくる——を慎重に避けながら進んだ。
奥へ進むほど、空気は淀んでいった。長井淳のナイトビジョンゴーグルには温度の上昇が表示され、湿度計の針は80%を指していた。彼はゴーグルを外し、レンズに付いた曇りを拭うと、ふとある特殊な臭いを嗅ぎ取った。
「これは…」彼は鼻をひくつかせた。甘ったるく、それでいて腐敗臭を孕んだその気配が、かすかに空中を漂っている。普通の人間なら感知できないだろうが、長井淳の嗅覚は特殊訓練を受けており、三千種類以上の匂いを識別できた。彼は悟った——これはザーグの女王が分泌するフェロモンだ。群れを統べるために用いるあの情報物質だと。
長井淳はパルスライフルを握り締め、匂いを辿って進んだ。通路は次第に広がり、ついに巨大な洞窟へと通じていた。洞窟の中央には隆起したハイグラウンドが設けられ、その周囲には白骨と金属の残骸が散らばっている——人間のものもあれば、変異獣のものもあった。
匂いが一気に濃厚になったが、視界には何もない。長井淳が目を細めると、突然ハイグラウンド右側へ銃を放った。ブルーレーザービームが空気を切り裂き、岩壁に命中する寸前──その空間が不自然に歪んだ。
「ギィィ──ッ!」鋭い鳴き声が洞窟を切り裂いた。ハイグラウンド上の空間が水面のように歪み、巨大な影が浮かび上がる──ザーグの女王だ。その姿は、上半身は人間の女性を思わせるが、腰から下は昆虫の腹部。背中からは六対の付属肢が不気味に伸び、三メートルにも及ぶ巨体がゆっくりと姿を現した。最も異様なのはその皮膚だった。周囲の環境に同化するように、刻一刻と色を変えていく。
「カメレオン遺伝子か…」長井淳は低く呟くと、同時に素早く体勢を崩し、近くの岩陰へと身を寄せた。次の瞬間──キィィィーン!!女王の放つ高周波の叫びが洞窟を揺るがす。耳の奥で神経が焼けるような鋭い痛み。長井淳は即座にトリガーを引いた。パン!パン!パン!三発のレーザービームが品字形に女王の頭部を狙い、青白い閃光が暗闇を引き裂いた。
女王は信じられないほどの速さで移動し、レーザービームは彼女の肩に焦げた痕を残すだけだった。彼女は再び叫び声を上げ、今度はその声に何らかの規則性が込められていた。長井淳は突然めまいを感じ、目の前の光景が歪み始めた。
「淳…」懐かしい声が耳元で響いた。長井淳は咄嗟に振り向くと、里の父が通路の入り口に立っているのが見えた。古びた軍服を着て、優しい笑みを浮かべながら。「こっちへ来い、淳」
長井淳の足が無意識に一歩前へ踏み出した。理性ではこれは幻覚だとわかっていたが、感情は潮のように彼を飲み込んだ。里の父が手を差し伸べる。「よくやった。もう休みがいい」
「いや…」長井淳は舌先を噛み破り、血の味でかすかに正気を取り戻した。眼前に広がった光景は、女王がわずか二歩先に立ち、針管のような口器をむき出しにしながら、こめかみへと狙いを定めている姿だった。
怒りが火山のように爆発した。長井淳の背骨から後頭部へと灼熱の衝撃が走り、皮膚の下の血管が不気味な赤い光を放ち始める。彼を中心に不可視存在のエネルギー波が炸裂し、女王は吹き飛ばされ、岩壁に激突した。幻覚は一瞬にして消え去った。
女王はよろめきながら立ち上がり、複眼に恐怖の色を浮かべた。彼女が「カタカタ」と急迫した音を立てると、洞窟の四方から密集した這い回る音が響いてきた。十数匹のワーカーが各通路から溢れ出し、あっという間に女王を中心に円陣を組んだ。
長井淳は里の父から譲り受けたサーベルを抜き放つ。最初のワーカーが襲いかかってきた瞬間、素早く体をかわし、サーベルを頭部と胸部の継ぎ目に正確に叩き込んだ。緑色の体液が噴き出し、周囲に飛び散った。
「左だ!」ハヤトは本能的にダメージロール、別のワーカーの酸液噴射をかわした。サーベルが銀色の閃光を描き、その虫の前脚を斬り落とす。巣穴には、虫の断末魔と金属の衝突音が不気味に反響していた。
長井淳の荒い息遣いが洞窟に響く。右腕には酸による焼け痕が広がっていた。女王は護衛のワーカーに守られながら、洞窟の奥へと後退している。その先には狭いトンネルの入口が見える──あそこに入り込まれたら、もう追跡は不可能だ。
3匹のワーカーが同時に襲いかかる。長井淳は地面の金属板を蹴り上げ、左側の個体を直撃させると同時に、サーベルで中央のワーカーの複眼を貫いた。しかし右側の個体の鎌爪が、すでに彼の喉元へと迫っていた──間一髪、首をかわして致命傷を回避するも、肩口に鋭い痛みが走る。爪が軍服を引き裂き、肉を抉った。
血の臭いが虫たちを興奮させ、攻撃はさらに狂暴さを増した。長井淳の視界の隅で、女王の姿がトンネル入口にまで後退しているのが捉えられた——二本の付属肢で穴を広げようとするその姿に、……間に合わない。
長井淳は全力の力を込めてサーベルを投擲した。刀身が回転しながらワーカーたちの隙間を縫い、女王の後頭部にわずかに隆起する神経節へ正確に突き刺さる。「ギィイイ──ッ!!」甲高い悲鳴と共に、女王の身体が痙攣し始めた。それを合図のように、護衛のワーカーたちは突然統制を失い──仲間同士で牙をむき出し、無差別に噛み付き合いだした。
長井淳は膝をついて地面に倒れ、肩から血が止めどなく流れていた。彼はトンネル入り口でもがく女王を見つめ、サーベルがまだ彼女の頭に突き刺さったままだった。
これがザーグの最も脆弱な部位だ。もう助からない。