監禁室の鉄扉が鈍い音を立てて閉じた。長井淳は湿り気を帯びた壁にもたれかかる。三畳にも満たない狭苦しい空間には、カビと消毒液の混じった匂いが充満している。唯一の光源は扉上部にある手のひら大の鉄格子窓から差し込むわずかな光だ。壁面には結露した水滴が、はがれたペンキの上を伝わり、ゆっくりと床へ落ちて小さな水溜りを形成していた。
「おい、ブロンズレベルの雑魚め、監禁室は気分いいかよ?」
しわがれた声が格子窓から響いてきた。続けて、歪んだ顔が鉄格子に押しつけられた。ヴィクトルの子分の一人、顔に傷痕のある傭兵ジェイソンだ。彼は口を歪ませ、不揃いな黄ばんだ歯をむき出しにした。吐息に混じった酒臭い匂いが鉄格子を通して監禁室に漂ってくる。
長井淳は目を閉じたまま、膝の上で指が微かにリズムを刻んでいた。里の父に教わった呼吸法――感情を鎮めるためのものだ。戦闘服にはまだ戦いの痕が残り、血痕と酸で焼けた跡がくっきりと付いている。右肩の傷が鈍く疼き、痛みを訴えていた。
「井田に刺し殺されそうだったんだってな?」新たに嘲りの声が加わった。ヴィクトル配下のもう一人の傭兵、あだ名「痩せ猿」のカールだ。「残念だったなァ、本当に刺さってればよかったのに。そうすりゃあ、お前の腐った臭いを嗅がずに済んだってのに」
空き酒瓶が「ガラリ」と音を立てて小窓から投げ込まれ、長井淳の足元で粉々に砕けた。ガラスの破片がズボンの裾に跳ねかかったが、彼はまぶたすら動かさなかった。
「何くそったれな深ぶってやがる」ジェイソンが鉄格子に唾を吐きかけながら嗤った。「女王を仕留めたからって偉いと思ってんのか?いいか、あれはヴィクトル親分がお前に情けをかけただけだぜ」
長井淳の指の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと瞼を上げると、灰色の瞳が薄暗がりの中でことさらに冷たく光る。窓の外が一瞬静まり返り、ジェイソンは思わず半歩後じさった。
「何見やがる!」ジェイソンは逆上し、再び空き瓶を投げ込んだ。「お前はこんな場所がお似合いだ! ブロンズレベルのクズが!」
足音は次第に遠のいていったが、嘲りの声だけは廊下にこだましていた。「楽しみにしてろよ。監禁が明けたら、ヴィクトル親分がたっぷりもてなしてくれるぜ!」「親もいないんだってな、道理で礼儀知らずなわけだ…」
長井淳は再び目を閉じ、今度は自らの呼吸を数えながら、外界の雑音を遮断した。意識はあのザーグの巣穴へと戻る――女王が倒れた瞬間、虫の群れが予想に反して混乱しなかった。この不可解な現象が、脳裏に刺さった棘のように疼いていた。
なぜ今度の女王にはダビデの星の刻印がなかったのか?なぜザーグは女王の死に影響を受けなかったのか?これらの異常の間には、必ずや何らかのつながりがある――里の父がかつて教えてくれたザーグに関する知識を記憶の底から掻き集めながら、藤原はその法則性を見出そうとしていた。
睡気がじわりと押し寄せ、長井淳の頭がゆっくりと胸元へ垂れていった。続く戦闘と負傷が、ついに彼の肉体を限界へと追い込んでいた。
夢の中、長井淳は円形の地下室に立っていた。湿った空気には薬草と腐敗臭が混じり合い、壁一面に広がる発光苔が微かなグリーンレーザーとなって、岩肌に刻まれた奇怪な符号を浮かび上がらせている。部屋の中央には直径2メートルほどの石造りの小池があり、泡立つ緑色の液体が薄暗がりの中で不気味な蛍光を放っていた。
里の父は池の中に横たわり、顔だけが水面に露わになっていた。皮膚は不自然なほど青白くて、唇は異様な青紫色を呈している。後頸部にはくっきりとダビデの星の刻印が浮かび上がり、長井淳がザーグの女王に見たものと寸分違わぬ模様だった。里の父は激しくもがいていたが、奇妙な形状をした管状の物体が縁から伸びてきて、その手足を拘束し、胸郭へと突き刺さっていた。
もがけばもがくほど、縛めは深く食い込んでいく――
長井淳は近づこうとしたが、足が鉛のように重たく感じられた。必死でもがき、ようやく池の縁までたどり着くと、里の父に触れようと手を伸ばす。池の液体は水というより粘稠な何かで、表面には不自然な波紋が時折浮かんでは消えていた。
指先が水面に触れようとした瞬間、緑色の液体が突然沸騰しだした。里の父がぱっと目を見開く――白眼がなく、漆黒だけの瞳だった。長井淳の胸に激痛が走り、まるで血管を灼熱の溶岩が駆け巡るような感覚に襲われる。下を向くと、自分の皮膚の下から不気味な赤い光が漏れ、血管が回路のように金色に輝きながら、胸部から四肢へと広がっていくのが見えた。
「ぐあっ!?」
現実に引き戻された長井淳が飛び起きて全身は汗でびっしょりだ。監禁室内の温度が急上昇し、壁面の結露が蒸発する「じゅうっ」という音が響いた。長井淳は苦悶のあまり体を丸めると、体内で何かが燃えさかるような感覚に襲われた。神経の末端一つ一つが悲鳴を上げているようだった。
【警告!異常エネルギー波動を検知!】
機械的な女性音声が隅の監視装置から響き、耳をつんざく警報音が鳴り響いた。監禁室天井の赤色灯が狂ったように点滅し、室内全体を血の色に染め上げる。温度計の水銀柱が目に見える速度で上昇し、瞬く間に50度の目盛を突破していった。
長井淳は歯を食いしばり、爪が掌に深く食い込んだ。体内を暴れ回る熱の奔流を感じる――檻に閉じ込められた獣のようだ。監視モニターの数値はなおも急上昇し、エネルギー過負荷で画面にノイズが走り始めた。その瞬間、長井淳のステータスパネルが自動展開する――
【氏名:長井淳
身分:平民
職位:無し
才能:戦闘
エネルギーランク:ブロンズレベル】
ほんの一瞬、気が緩んだ隙に、エネルギー値が垂直に急上昇。エネルギー等級も「ブロンズレベル」から一気にミスリル、オリハルコンを飛び越え……ついにスタークラストレベルへと到達した。
【ミスリルレベル……オリハルコンレベル】
【スタークラストレベルに接近!緊急措置を即時実行せよ!】
突然、基地全体が激しく震動した。長井淳は壁に叩きつけられ、警報音がぱたりと止むと、遠くで悲鳴と銃声が響き始めた。換気ダクトから「ドンドン」と衝撃音が響いてくる――何者かが内部を疾走しているかのようだ。
「助けてくれ!奴らが地下から――」
「撃て!早く撃て!」
「ぐああっ!衛生兵!衛生兵はどこだ!?」
長井淳は這うようにして立ち上がり、小窓から外を覗いた。廊下の照明が明滅する中、基地の金属床が紙のように引き裂かれるのが見える。裂け目から鋭い鉤爪を備えた無数の手が現れ、続いて骨棘に覆われた頭部が這い出してきた。
それは変異種ネズミだった。装甲車並みの体躯に、暗闇でクリムゾンアイは輝いていた。硬質の角質層に覆われた体毛、鞭のようにしなる尾が振られ、逃げ惑う傭兵一人を地面に叩きつけた。傭兵が起き上がる間もなく、ネズミは鋭い牙でその身体をくわえ上げ――壁面に血が飛沫した。
長井淳の瞳孔が収縮した。これは単なる襲撃ではない――組織的な侵攻だ。女王の死に影響されなかったザーグ、里の父の夢に現れたダビデの星の刻印……全てがひとつの恐るべき真実を指し示していた。
しかし今この瞬間、最も重要なのは──
基地が突破されたという事実だった。