脇道は極めて狭く、さらに恐ろしいことに――走り抜ける途中、二人は前方から「サラサラ」というかすかな物音を聞きつけた。
無数のザーグがいっせいに動く音だ。
もはや前後から包囲されていた。
長井淳が無意識に腰のスペアナイフに手をかけた瞬間――横から突然現れた手が、二人を狭い岩壁の裂け目へと引きずり込んだ。
「こっちよ!急いで!」
長井淳とユヴェタンが驚く中、彼らを引き込んだのは一人の女性だった。瞬間、ユヴェタンが声を上げる。「雷雨バイオテクノロジーの上杉麻美課長!?」
上杉麻美は長井淳とユヴェタンを岩壁の裂け目へと引きずり込んだ。彼女の指は生者のものとは思えぬほど冷たく、爪の間には干からびた血痕がこびりついていた。長井淳は本能的に手を引っ込めようとしたが、背後から迫る怪虫の吠え声がますます近づいてくる。
岩壁の裂け目は身を横たえるようにしてしか通れない狭さで、三人の戦闘服がごつごつとした岩肌に擦れ、ササッと音を立てた。長井淳の傷口はまだ血を滴らせていたが、彼は歯を食いしばって声を漏らさない。上杉麻美の背中は、タクティカルライトのビームに照らされ、異常なほどに痩せ細って見えた。白い実験着は所々破れ、汚れにまみれていた。
「どうやって脱出した?」ユヴェタンが低い声で問いかけた。「他の連中は全員……生体インキュベーターにされたんだぞ」
上杉麻美の足が一瞬止まった。「私…私は彼らの隙をついて逃げたの。」彼女の声は、まるで長い間水を飲んでいないかのように、ひどく乾いていた。「小道を知ってる。あなたたちを外に連れ出せるわ。」
長井淳は目を細めた。この女には不審な点が多すぎる——なぜ彼女だけが難を逃れたのか?なザーグの巣穴の構造に詳しいのか?だが今は深く考える時間などない、背後にある岩の裂け目からは、鋭い爪がこする音が聞こえてきていた。
割れ目の先は下り傾斜したトンネルへと続いており、湿った空気には腐敗臭が漂っていた。上杉麻美は地面の粘液だまりを手慣れた様子で避けながら進む——まるでこの道を何度も通ったことがあるかのように。
長井淳が突然口を開いた。「あの化け虫……何者だ?」
上杉麻美の背中が明らかにこわばった。「実…実験室の産物よ。ザーグの女王と人間の遺伝子を混ぜ合わせたもの」彼女の話すスピードが突然速くなった。「あれらは知能が高く、甲殻はほとんどの武器を通さないわ…」
「雷雨がこんなものを研究していたのか?」ユヴェタンの声には怒気が込もっていた。「お前ら、正気か!?」
「私の担当プロジェクトじゃないわ!」上杉麻美が猛然と振り向くと、タクティカルライトのビームが彼女の顔を照らし、血走った瞳が浮かび上がった。「私はただ…サンプル採取のために派遣されただけなの…」
長井淳は彼女の瞳を凝視した――そこには異常な収縮リズムがあった、まるで何らかの薬物を服用したかのように。さらに問い詰めようとしたその時、トンネルの奥からササクサッという不気味な音が響いてきた。
「ワーカーだ!」上杉麻美が絶叫した。「急いで!」
三人は足を速めたが、前方からの物音はますます近づいてくる。長井淳は折れた刀を握りしめ、戦闘態勢に入った。しかし、影から這い出てきたのはただの数匹の普通のワーカー──外にいた個体よりずっと小型で、甲殻もくすんで光沢がなかった。
ユヴェタンが安堵の息をつくと、両手で印を結びエアロブレードを放とうとした。その瞬間、長井淳はこれらのワーカーの動きが異常に鈍いことに気づいた――複眼には病んだような黄色が浮かんでいた。
「待て」長井准がユヴェタンを制止した。「こいつら、様子がおかしい」
案の定、ワーカーたちはただ無目的に這い回っているだけで、目前の獲物にまったく反応を示さなかった。一匹は長井のブーツにぶつかると、何事もなかったようにその場を迂回していった。
「ここのザーグはみんなこんな状態よ」上杉麻美が急かすように言った。「早く行きましょう」
長井淳の胸中の疑念はさらに深まった。ザーグの巣の最深部は本来最も危険な場所であるはずなのに、なぜここのワーカーはこんなにも弱っているのか? それに奥へ進むほど、遭遇する抵抗はかえって少なくなっている。これは完全に理にかなわない――
「お前、ここの様子を熟知しすぎている」長井淳が突然足を止めた。「まるで我が家に帰ってきたようだな」
上杉麻美の表情が一瞬凍りついた:「私…私はザーグを長年研究してきたから…」
鋭い金切り声が会話を遮った。トンネルの天井から突然、十数匹の魔コウモリが逆さに吊り下がってきた――それぞれ猟犬ほどの大きさで、翼膜にはシャドウパープルの血管が網目のように張り巡らされていた。それらには目がなく、針のような歯がびっしりと並んだ口だけがぽっかりと空いていた。
「ヴェノムバットだ!」上杉麻美が悲鳴を上げながら後ずさった。「噛まれるな! 毒液は肉体を溶かすわ!」
コウモリの群れが急降下してきた。ユヴェタンは即座に両腕を交差させ、サーキュラーウィンドブレードを放ち、真っ先に襲いかかってきた3匹を真っ二つに切断した。地面に落下した死骸から飛び散った液体は、瞬く間に小さな穴を腐食させていった。
長井淳は小石を拾い上げ、スタークラストの力を込めて投げつけた。石は砲弾のように二匹のコウモリの胸を貫き、勢いそのまま岩壁に突き刺さった。しかし、さらに多くのコウモリが暗闇から湧き出るように現れ、エコーロケーション音波で人間の鼓膜を震わせた。
「多すぎる…!」ユヴィタンは歯を食いしばり、さらにエアロブレードを放った。しかし、コウモリの群れは尽きる気配がない。一匹が網をくぐり抜けると、突然上杉麻美に襲いかかった。長井淳は一歩前に踏み込み、折れた刀をコウモリの口内に正確に突き刺す。
「ついて来い!」長井淳は二人を護りながら戦い、後退していく。コウモリの死骸が次々と落下し、腐蝕性の体液が地面を危険な足場へと変えていた。
「ぐっ…!」ユヴィタンが苦悶の声を上げた――一匹のコウモリが彼の肩に食らいついていた。長井淳は素早く手を伸ばし、コウモリの頭部を握り潰す。だがヴェノムファングはすでに皮膚へと深く突き刺さっていた。ユヴィタンの顔色はたちまち青ざめになり、傷口の周囲から不気味な青色が広がり始めた。
「しっかりしろ!」長井淳はよろめくユヴィタンを支えた。コウモリの群れは血の臭いを嗅ぎつけたかのように、攻撃がさらに狂暴化していく。
上杉麻美が突然脇道を指差した。「あそこ!アジトがあるわ!」
長井淳はユヴィタンを半ば引きずるように抱え、彼女に続いた。分かれ道の先には半円形の洞窟が広がり、中央には直径2メートルの浅い窪みがあった。そこは緑色の粘液で満たされ、表面はぼんやりと蛍光を放っている。窪みの縁には、使い捨ての注射器や割れたシャーレが散らばっていた。
「そのプールに近づくな!」上杉麻美が警告した。「ザーグの消化液だ!」
コウモリの群れが洞窟へなだれ込んできた。ユヴィタンは必死に堪えながら最後のエアロブレードを放つが、明らかに力が衰えており、わずか2匹を撃ち落としただけだった。長井淳は彼の前に立ちはだかり、折れた刀で襲いかかるコウモリを斬り払う。だがその数は圧倒的だった。
その瞬間、上杉麻美が「偶然」とばかりにユヴィタンの足を引っ掛けた。ユヴィタンはバランスを崩し、よろめきながら緑色のプールへと倒れ込んでいった
「ユヴィタン!」長井淳は襲い来るコウモリを顧みず、仲間を強く押しのけた。その反作用力で自らは二歩後退し、ちょうど急降下してきた一匹のコウモリに胸部を直撃されてしまう。
世界がぐるりと回転した。長井淳は背中が粘稠な液体に触れるのを感じると、そのまま緑色のプールへと沈んでいった。冷たい粘液が即座に口と鼻に流れ込み、視界は不気味な緑の光に満たされた
彼の最後の意識は、プールの縁に立つ上杉麻美が不気味に口元を歪ませる姿と、ユヴィタンが魂を揺さぶるような叫び声だった。
「淳――!」