「淳! 淳!」
ユヴィタンの叫び声が、遠く離れた場所から聞こえてくるようだった。長井淳が緑色の液体に沈み込んだ瞬間、世界は突然静寂に包まれ、すべてがゆっくりと動いているかのように感じられた。粘り気のある液体が鼻腔や耳の奥に流れ込んでくる――しかし予想していた焼けつくような痛みはなく、代わりにどこか不気味な温もりを伴っていた。
『…俺は…呼吸してる?』
長井淳は驚愕した――この液体の中で、平然と息ができていることに。肺はまるでこの環境に適応したかのように、吸い込むたびに液体に満ちた何らかのエネルギーを感じ取っていた。それは見知らぬ感覚でありながら、どこか懐かしい。胎児が羊水に包まれていた頃の記憶を、ふと甦らせるようだった
視界は緑色の靄に覆われた。長井淳が浮上を試みるが、身体が異様に重い。その時、液体の中に一筋の金光が走り――次々と断片的な映像が押し寄せてきた。
星雲が渦を巻き、恒星が誕生しては消えていく。無数のザーグが宇宙を渡り歩き、終わりなき疫病のようだ。そして実験室に立つ一人の人間――その背後には、緑色の液体に浸かったザーグの女王の胚胎が浮かんでいた...
映像がますます速く切り替わっていく。長井淳は里の父が地下施設に立ち、光るダビデの星の装置を手にしている姿を見た。上杉麻美がザーグの女王の前に跪き、敬虔に頭を垂れる姿を見た。そして自分自身が廃墟の上に立ち、瞳が金色に輝きだす瞬間を見た――
「これは何だ?記憶?それとも予言?」
長井淳は頭が割れるように痛み、それらの映像が刃物のように脳裏に突き刺さるのを感じた。さらに恐ろしいことに、彼はザーグの鳴き声が理解できるようになっていることに気づいた――それは無意味な雑音ではなく、ある古代言語だったのだ。
「シュー……カ……ラシュ……」
それが彼の名だった。ザーグが彼を呼んでいた。
突如、強烈な生存本能がこみ上げる。長井淳は必死に四肢を動かし、頭上に見える光の方へ泳いだ。緑液体は次第に薄まり、何者かの力に押し上げられているような感覚を覚えた。
バシャッ!
長井淳が水面から飛び出し、激しく息を吸い込んだ。奇妙なことに、緑液体が口や鼻から流れ出ても、まったく不快感を覚えなかった。まばたきをすると、プールの縁に跪くユヴェタンの姿が視界に入った――その表情には震撼と疑念が刻まれていた。
「淳!?」
長井淳はユヴェタンが差し出した手を掴むと、軽々とプールから飛び出した。緑液体にまみれた自分の腕を見下ろすと、その液体が肉眼で確認できる速さで皮膚に吸収されていくのが分かった。さらに驚くべきことに、先ほど怪虫に抓まれた傷口が急速に治癒しており、新生した皮膚には淡いゴールドの紋様が浮かび上がっていた。
「大丈夫か?」ユヴェタンが心配そうに彼を見つめた。「異常はないのか?」
「い、いや…大丈夫だ!」長井淳は少し混乱していた。自分に何が起きたのか、水槽で見たあの幻影が何を意味するのか、まったく理解できていなかった。
待てよ、水槽…?
「このプール……どうかしている」長井淳が呟いた。水に浸かった後の彼の声は異常にしわがれており、どこか金属的な質感を帯びていた。
長井淳に異常がないことを確認すると、ユヴェタンは即座に上杉麻美に向き直った。「お前、わざとだな?」
上杉麻美は無知を装うように「何の話か分からないわ」
ユヴェタンが一歩ずつ近づいていく。「さっきお前はわざと俺を転ばせたんだろう? 俺たちを殺すつもりだったのか?」
「ま、まさか! そんなことして私に何の得があるっていうの!」上杉麻美は二歩後ずさり、両手を不自然に絡ませた。「本当にわざとじゃないわ! 床が滑ったから…」
ユヴェタンは危険なほど目を細め、彼女をじっと見つめた。上杉麻美は緊張で唇を噛みしめながらも、何事もなかったような笑みを浮かべていた。
長井淳は二人の言い争いなど気にかけていない。あの緑色の水槽が、彼の体内に眠っていた何かを目覚めさせたのだ。今や彼の感覚は異常なほど鋭敏になっていた――数十メートル先のザーグの這う音が聞こえ、上杉麻美の身体から漂うかすかなザーグのフェロモンが嗅ぎ分けられ、ユヴェタンの体内を流れる風属性のエネルギーさえ感じ取れるほどに。
「ここを離れる必要がある」長井淳が言った。彼の視線は洞窟の隅々まで走査するように巡らされ、何かを探しているようだった。
上杉麻美が反対側の通路を指差した。「あちらに…近道があるわ…」
ユヴェタンは疑い深げに彼女を見た。「変な真似をしねえ方がいい」毒に侵された左腕ではもはやエアロブレードを繰り出せないにもかかわらず、それでも長井淳の前に立ちふさがり、上杉麻美の一挙一動を警戒しながら睨みつけていた。
三人は沈黙して進んだ。最後尾を歩く長井淳の脳裏には、さっき見た断片的な光景がまだ焼き付いていた。ふと気づくと、通路の壁面の粘液が規則的なパターンを形成している――これは偶然の分泌物などではなく、何らかの情報コードだ。そしてもっと恐ろしいことに、彼は自分がその一部を理解できることに気がついた。
「待て」長井淳が突然足を止めた。「これは出口への道じゃない」
上杉麻美は振り向きもせず、むしろ歩調を速めた:「もうすぐよ…すぐそこなの…」
ユヴィタンが咄嗟に彼女を掴もうとしたが、手は空虚を掴んだだけだった。次の瞬間、天井から無数の白い蜘蛛糸が降り注ぎ、まるで生き物のように二人の手足に絡みついてきた。ユヴィタンは即座に印を結びエアロブレードを放とうとするが、蜘蛛糸が肌に触れた途端、全身に痺れが走った
「しまった…毒だ!」ユヴィタンは脚の力が抜け、膝から崩れ落ちた。長井淳はスタークラストの力で蜘蛛糸を引き千切ろうとするが、糸は異常なほど頑丈で、もがけばもがくほど体に食い込んでくる。
上杉麻美は安全な距離に立ち、ついに本性を現した――その口元には不気味な微笑みが浮かび、暗闇の中で瞳だけが不自然な緑色に光っていた。
「お前…!」ユヴィタンが怒りに震える声で叫んだ。「お前が仕組んだのか? わざとここへおびき寄せたんだな…ザーグの手先め!」
上杉麻美は答えなかった。その瞬間、洞窟の四方から数百ものザーグが湧き出してきた――ワーカー、タンクバグ、フライング・インセクトイド…それらは通路の両側に整然と並び、何かを待ち構えるように静止している。
地面が震え始めた。虫の群れが道を分けると、巨大な影がゆっくりと近づいてくる。それは長井淳が見た中で最大のザーグの女王だった――5メートルもの巨体に膨らんだ腹部、そして背甲にくっきりと刻まれたダビデの星の紋様。里の父のうなじにあったものとそっくりそのままの紋が。
上杉麻美は恭しく跪いて礼をとった。「女王陛下、ご命令通りに仕上げました」彼女の声はザーグの嘶きのように鋭く変質していた。「今回の獲物、お気に召しましたでしょうか?」