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第36話

闇。温もり。浮遊感。


 長井淳は、子供の頃に使っていたきしむ木のベッドに戻ったような感覚に包まれていた。次第に意識がはっきりしてくると、記憶の断片が走馬灯のように浮かんでは消える。


 「おい、ガキ!よく聞け!親父はな、たった一人でタンクバグを3匹もぶっ殺したんだぞ!」


 記憶の中の里の父・長井洋介は、畳の上に胡座をかき、無精ひげだらけの顔に得意満面だった。十二歳の長井淳はサーベルを磨きながら俯いており、その言葉にただ白い目を向けただけである。


 「またその話かよ」少年は唇を尖らせた。「この前は2匹って言ってたじゃん」


 「それは先月の話だ!」長井洋介は安物の清酒をぐいっと飲み、ひげを伝って酒が滴り落ちた。「先週また1匹仕留めたんだ!城東の廃工場でな!」


 長井淳は頭も上げずに言った。「へえ。じゃあなんで巡邏隊の報告書には『変異野犬1匹』って書いてあったの?」


 里の父の表情がこわばり、すぐさま逆上して机をバンと叩いた。「小僧が!親父の言うことも信じられねえのか!」 襟をぐいっと引き裂き、胸元の恐ろしい傷痕を露わにした。「見ろ!タンクバグの酸液でできた傷だ!」


 長井淳はようやく顔を上げ、その傷痕を数秒間見つめた後、再び刀を拭きながら俯いた:「前回は『料理中に油鍋をひっくり返してやけどした』と言っていたな」


 「お前――!」長井洋介は髭をぴんと逆立てながら怒り、突然戸棚から古びた金属の箱を引っ張り出した。「よし!今日こそ目に物見せてやる!」


 箱の中には錆びた勲章が一つ。かすかに「特等功」の三文字が読み取れた。


 「見たか!軍の正式な勲章だぞ!」長井洋介は得意げに勲章を振りながら、「アルファ星域での戦いで、俺一人で…」


 「カラン——」


 勲章が突然床に落ち、長井淳の足元へ転がった。少年はそれを拾い上げて裏側を見ると、「炊事班の集団三等功」と刻まれているのを見つけた。


 「父さん」長井淳はため息をつき、「これは炊事班の団体表彰のメダルだよ」


 長井洋介の老いた顔が真っ赤になり、勲章を奪い返すと箱に押し込んだ:「小僧に何がわかる!あれは…あれは役所の書き間違いだ!」


 記憶の映像がゆがみ始めた。長井淳は、里の父が深夜の庭で一人刀を振るう姿を見る。サーベルが月光のもとで鋭い弧を描く。里の父がこっそり彼の鞄に弁当を詰める姿も――おにぎりはいつも不格好に形作られていた。熱を出した時には、不器用に粥を作ろうとして鍋を底抜けさせてしまった里の父の姿も浮かぶ……


 「淳!目を覚ませ!」


 ユヴェタンの声が鋭い剣のように、記憶の霧を切り裂いた。長井淳はパッと目を見開くと、自分が半透明の繭に包まれ、見覚えのある緑液体に浸かっていることに気づいた。その液体はもはや不快感を与えるどころか、むしろ家に帰ったような安堵感さえ覚えさせるものだった。


 彼は蜘蛛の糸を引きちぎった――かつてスタークラストレベルをも縛り込んだ頑丈な糸が、今は綿あめのように脆く崩れた。長井淳は自分の腕を驚いた様子で見つめた。筋肉のラインがより鮮明になり、皮膚の下にはかすかなゴールドの光が脈打っている。


 「淳!早く上がってこい!」


 ユヴェタンの声が頭上から響いた。長井淳が顔を上げると、親友が蜘蛛の糸に縛られたまま宙吊りになっているのが見えた。顔色は真っ白だが、眼差しだけは鋭さを失っていない。長井淳はすぐさま池から飛び出した。その身軽さは、もはや人間の域を超えた敏捷さだった。


 「大丈夫か?」長井淳が問いかけながら、周囲を警戒するように見回した。そして、彼は凍りついた――


 洞窟の半分を埋め尽くす巨躯がそこにあった。女王よりも三倍は大きい。八本の柱のような巨脚が、山のような胴体を支えている。甲殻には無数の古傷が刻まれており、最も目を引くのは頭部――そこにはかすかに人間の顔の輪郭が浮かび、今まさしく彼を「見つめて」いる。


 「軽挙動するな!」ユヴェタンの声は渇きでかすれていた。「お前では勝てん!」


 長井淳は警戒しながら眼前の巨躯を見据えた:「こいつは何だ…『女王』だと?」


 「『ルーラー』という言葉を聞いたことがあるか?」


 これは傭兵たちの常識では決して出てこない単語だった。ザーグの王者は「女王」だと誰もが信じていた。しかし意外にも、長井淳はこの言葉に覚えがあった。長い沈黙の後、彼はようやく思い出した――遠い昔、里の父が語ってくれた話の中に、確かにこの言葉があったのだ。


 「今の傭兵どもが相手にしてるのは、所詮子供の遊びだ。ワーカーを数匹仕留めただけで英雄気取り、女王なんぞ見つけりゃ天が崩れたと騒ぎ立てる……ふん、俺たちの時代なら、ただの餌食でしかなかったぞ」


 その時、十二歳の長井淳は首を傾げた。「女王様って、ザーグの一番偉い存在じゃないんですか?」


 「とんでもねえ!」里の父は嘲笑うように彼を見下ろした。「連中がそんなこと言ってるのは…『ルーラー』を見たことがねえからだ」


 「…ルーラー?」


 「恐ろしい化け物さ。皇室の秘蔵記録にしか出て来ねえ伝説の生き物だ。全ての女王はあいつから生まれ、支配されてる。そして女王がまた他のザーグを操る。最も怖えのは攻撃力じゃねえ…マインドコントロールだ。生物の脳幹を破壊し、自分の思想を植え付ける。あいつに狙われた獲物は、最後には皆操り人形になる」


「でも、そんな詳しいことまでどうして知ってるの?皇室の秘蔵記録だけの話じゃなかったっけ?」


「そりゃあ当然、この親父さんが勇敢にもあいつとやり合ったからに決まってるだろ!」


その時、長井淳は信じていなかった。里の父のいつものホラ話だろうと思っていた。だが今――この目で『ルーラー』の存在を目の当たりにしたこの瞬間、彼は悟った。自分の里の父が、どれほど途方もない人物だったのかを。


 ユヴェタンはなおも、彼が既に知っているはずの情報を叫び続けていた:「あれは皇室秘録に伝わる伝説級の存在だ!全てのザーグの真の『王』……くそ、ただの作り話だと思ってた。こんな生物が実在するなんて……」


 「ああ、確かに存在する」長井淳は静かに呟いた。「ずっと昔から、彼らの話は聞かされていた」


 長井淳の筋肉が緊張し、本能的な戦闘体勢に移る。だが、ルーラーに攻撃する気配はない。ただゆっくりと頭を下げ、その朧げな人間の顔が突然蠢きだし、声を発した――


 「我が子よ…」


 その声はザーグの鳴き声でも、人間の言語でもなかった――直接脳裏に響く共鳴のようなものだった。長井淳は雷に打たれたように立ちすくみ、里の父の最期の言葉が記憶の中で突然鮮明によみがえった。


 「淳…覚えておけ…お前の体には…二つの血が流れている…」


 洞窟内は静寂に包まれていた。上杉麻美の遺体が片隅に横たわり、恐怖に凍りついた表情がそのまま残っている。生き残ったザーグの兵士たちは悉く地面にひれ伏し、まるで自らの王を崇拝するかのようだった。

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