長井淳の両手が棺の縁を必死に掴み、爪は力の限りに白く変色していた。緑液体の中、里の父・長井洋介の胸部には拳大の貫通傷が開いており、その縁は不気味な紫黒色に濁っている。太い虫の触角が《ルーラー》から伸び、まるで点滴のチューブのように里の父の傷口へと繋がっていた。
「父さん…」長井淳の声が喉で詰まった。
長井洋介がゆっくりと目を開ける――かつて厳しさの中に慈愛をたたえていたその目は、今やザーグ特有の複眼構造に変貌していた。しかし、長井淳の顔を認めた瞬間、その瞳に、淳が知り尽くしたあの眼差しが浮かび上がった。
「淳か……こんなに大きくなって……」長井洋介の声は、かすれきっていたが、そこには抑えきれない安堵がにじんでいた。震える手を苦労して上げると、長井淳の頬をかすかに撫でた。
その懐かしい仕草に、長井淳は一瞬で子供時代へと引き戻された――訓練で傷つくたび、里の父は決まってこうして頬を撫で、「役立たずのガキ」と罵りながら、こっそりと薬を塗ってくれたものだった。
「誰が...父さんをこんな姿にした?」長井淳の声は怒りで震えていた。
すると突然、ルーラーが口を開いた。その声は直接、長井淳の脳裏に響き渡る――「彼は...前代の女王を殺したのだ...」
長井淳が振り向くと、ルーラーがゆっくりと前脚の一本を上げ、洞窟の奥を指し示した。「三ヶ月前…単身で潜入し…あのサーベルで…」
記憶が突然フラッシュバックする――里の父が最期に渡してくれた、桜紋が刻まれたあのサーベル。刀身に刻まれた不可解な溝。そして「これで自分を守れ」という里の父の言葉が…。
「そんなはずが…」長井淳が呟く。「父さんはただの退役傭兵だ…」
長井洋介は複眼から濁った液体を流しながら、苦笑まじりに言った。「退役したのは…あのミッションの…せいで…」
ルーラーが言葉を続けた。「女王を殺した後…仲間に…背後から襲われた…」
「仲間だと?」ユヴェタンが警戒しながら一歩前に出る。「皇国騎士団の者か?」
長井洋介が苦悶の表情で目を閉じた。「西川が死んでから…ずっと調査を続けていた…」
長井淳が息を殺した。西川――里の父がこれまで一度も口にしたことのない名前だった。
「彼女は…俺の最高の相棒だった」長井洋介の声が突然優しさを帯びた。「…そしてお前の…実の母親だ」
洞窟内が水を打ったように静まり返った。長井淳は一陣のめまいを感じ、里の父の言葉がハンマーのように胸を直撃する。
「あのミッションで…我々は待ち伏せに遭った」長井洋介は言葉の合間に苦しげに息を継ぎながら続けた。「西川はモンスターインセクトに…虫の卵を注入された…だがその時…彼女は既に妊娠三ヶ月だった…」
長井淳の胃が締めつけられるように痛んだ。人体から腹を破って出てくるあの怪物たちを思い出し、探査隊員たちの膨れ上がった腹を思い出した…
「規定では…汚染された胎児は…」長井洋介の複眼にかすかな怒りが走った。「処分が義務付けられていた…だが西川は…お前を産み落とすと…言い張ったのだ…」
涙のように濁った一滴が長井洋介の目尻を伝った。「彼女は…お前を産むまで…頑張って…そして…」
長井淳の視界が滲んだ。自分の身の上がこんな形だとは――ザーグに汚染された子供、本来なら生まれるべきではなかった怪物だなんて。
「お前を連れて…逃げたんだ…」長井洋介は苦しげに手を上げ、再び長井淳の頬を撫でた。「『淳』と名付けた…鳥のように…自由に生きてほしくて…」
記憶の断片が長井淳の脳裏を激しく駆け巡った。里の父が刀法を教えながら言った「命を守るため」という言葉、雷雨グループとの接触を禁じた理由、深夜1人でため息をついていた後ろ姿――すべてに意味があったのだ。
「この数年…ずっと調べ続けていた…」長井洋介の息遣いが荒くなった。「あの時の待ち伏せは…誰かが…意図的に情報を流したものだ…」
長井淳の脳裏に、上杉麻美の死ぬ前の言葉がよみがえった。「雷雨グループか…?」
長井洋介がかすかに頷く。「あいつらはザーグと…取引をしていた…生きた人間で…実験を…」
ルーラーが突然、低くうなるような声を発した。「人間どもが…協定を…破ったのだ…」
「三ヶ月前…ついに証拠を掴んだ…」長井洋介が続けた。「だがバレてしまい…仕方なく単独で動いた…」
ルーラーがゆっくりと前脚を上げ、長井洋介の胸の傷を指し示した。「彼は女王を殺し…ハッチングプールを破壊しようとした時…仲間だと思った者に…背後から刺された…」
長井淳の拳が軋むように握り締められた。「誰だ…?」
「皇国騎士団…第三分隊だ…」長井洋介の複眼に深い苦痛が浮かんだ。「奴らはとっくに…買収されていた…」
ユヴェタンが鋭く息を飲んだ。「あり得ない…皇国騎士団がそんなことをするはずが…」
「ここまで逃げるのが…精一杯だった…」長井洋介は苦しげに息を弾ませた。「ルーラーが…虫の触角で…一時的に命をつないでくれたが…」
長井淳は里の父の苦痛に満ちた姿を見て、胸が締めつけられるように痛んだ。かつて威風堂々としていた男が今は緑液体に漬かった壊れた人形のようだ。しかしその目に浮かぶ心配そうな眼差しは、昔、不器用ながらも必死に料理を作ってくれた父親そのままだった。
「父さん…」長井淳がかすかに声を震わせた。「一緒に帰ろう…」
しかし長井洋介はゆっくりと首を振った。「この傷は…もう…手遅れだ…」
ルーラーが突然口を開いた。「…彼を救いたいのか?」
洞窟内の空気が一瞬で張り詰めた。ユヴェタンは信号弾に手をかけ、警戒しながらルーラーを睨む。棺の中の長井洋介は必死に首を振り、虫の触角が激しく揺れた。
長井淳はルーラーのぼやけた人面を直視した。「…方法があるのか?」