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第39話

「ある」ルーラーが答えた。「だが、あらゆる条件には代償が伴う…わかっているだろう」


 「どんな条件だ?」


 ルーラーは笑っているかのようだった。実際には「笑顔」を作れないが、その口器が笑い声のような振動を発した。


 その時、長井淳は咳き込む音を聞いた。急いで振り向くと、棺の中の長井洋介が苦しそうに咳をしている。


 「父さん…」長井淳の声が再び喉で詰まった。


 長井洋介がゆっくりと目を開いた。かつて厳しさの中に慈愛を宿していたその目は、今やザーグ特有の複眼構造へと変貌していた。しかし長井淳の顔を認めた瞬間、その瞳に、長年見慣れたあの眼差しが瞬時に浮かび上がった。


 「淳か……こんなに、大きくなったのか…」長井洋介の声はかすれきっていたが、それでも滲み出る安堵を抑えきれない。震える手を必死に上げると、長井淳の頬をかすかに撫でた。


 そのあまりにも懐かしい仕草に、長井淳は一瞬で幼い日に引き戻された――訓練で傷だらけになるたび、里の父は決まってこうして頬を撫でながら「役立たずのガキ」と叱りつけ、それからこっそりと薬を塗ってくれたあの日々を。


 「ルーラー……!」長井淳がその巨躯へと鋭く振り向く。瞳の中のゴールドの光が爆発的に増幅しながら――「条件を言え!」


 ルーラーがゆったりと巨体を動かす。そのぼやけた人面が歪みながら、こう告げた。「賢い…子だ…」


 ユヴェタンは彼を止められず、ただ必死に叫ぶ。「待て! あいつは約束など守らん!」


 長井淳は耳を貸さず、ルーラーを凝視した。「教えろ、条件を」


 どうすれば――父をここから連れ出せる?


 ルーラーが満足げなうなり声を上げた。「19年前…お前の父親は我が娘を殺した…今度は…彼が新たな女王にならねばならん…」


 「…何?」長井淳の瞳孔が一瞬で収縮した。


 「あの時…彼はここに潜入した…」ルーラーの声が長井淳の脳裏に響き渡る。「西川という女のために…復讐を果たしに…」


 棺の中の長井洋介が激しくもがき始めた。「淳…奴の言うことを聞くな…」


 「あのサーベルで…女王の心臓を貫いた…」ルーラーが続けた。八本の巨脚が地面を叩き、不気味なリズムを刻みながら。「だがその後…仲間に裏切られたのだ…」


 長井淳は里の父が最期の時に渡したサーベルを思い出した。刀身に刻まれた不自然な溝――今思えば、あれは明らかに何らかの薬剤を保持する構造だった。


 「私が彼を救った…」ルーラーが一本の前脚を上げ、長井洋介の胸の傷を指し示した。「条件は…彼が新たな女王になることだ…」


 長井淳は悟った。


 「父が女王を殺した償いとして、父が新たな女王になる…だと?」長井淳の拳が軋む音を立てた。「ならば…今、父を連れ帰るということは…俺がその代わりになるということか?」


 「淳!」ユヴェタンが鋭く喝破した。「正気か? 女王になれば人間性を失うぞ!」


 ルーラーが前脚を振ると、ユヴェタンは見えない力に阻まれたように進めなくなる。長井淳には彼の声が届かない。


 ルーラーの複眼にかすかな狡さが光った。「…彼のために犠牲になれると?」


 「俺はやる」長井淳は一瞬の躊躇もなく答えた。


 すると長井洋介が裂けるような叫びを上げた。「やめろ!」緑液体から必死にもがき上半身を乗り出し、後頸部にはっきりとしたダビデの星の刻印を露わにした。「淳…よく見ろ…これは何だ…」


 長井淳は雷に打たれたように立ちすくんだ。この刻印には見覚えがあった――里の父のノートに、ザーグの女王の背中に、雷雨グループの紋章に…


 「ルーラーは…精神支配が得意だ…」長井洋介の声は徐々に弱まっていく。「支配された者には…必ずこの刻印が…俺はもう…逃げられん…」


 彼の顔から血の気が引いた。「皇室文書には…ルーラーに支配された生物は生ける屍となると記されている…」


 「淳…」長井洋介が突然息子の手を握った。その握力は尋常ではないほど強く――「覚えておけ…ノートの最後のページ…お前に書いた言葉を…」


 長井淳の涙が溢れ落ちた。あの何度もめくったページに書かれていたたった一言を思い出していた――「どんなことがあっても、生き延びろ」


 「父さん…」声を詰まらせながら、長井淳は訴えた。「俺…父さんを失いたくない…」


 長井洋介の複眼に、最期の優しさが浮かんだ。「馬鹿な子よ…お前はもう…俺よりもずっと強くなった…」


 ルーラーが突然、耳を劈くような鋭い鳴き声を上げた。「時は…来た…」


 緑液体が突如沸騰し始めた。長井洋介の身体が激しく痙攣し、四肢が不自然な角度で捻じれ、伸びていく。皮膚の表面には甲殻の模様が浮かび上がってきた――


 「やめろ!」長井淳が里の父の手を掴もうとしたが、見えない力ではじき飛ばされた。


 長井洋介の顔が歪み変形し、複眼が完全に人間の目を飲み込んだ。下顎が裂け、ザーグ特有の口器が現れる。最後の人間性が瞳から消える直前、全身の力を振り絞って叫んだ。


 「生きろ…!」


 非人間的な金切り声と共に、長井洋介の変異は完了した。身体は元の三倍に膨れ上がり、背中からは四対の透明な虫の羽根が突き出た。もはや完全なるザーグの女王の姿へと変貌を遂げている


長井淳が地面に跪き、魂が引き裂かれるような叫びをあげた。「父さん――!」


 新たに生まれた女王は冷たく彼を見下ろすと、振り返ってルーラーに向かって礼を取った。ルーラーは満足げに奇怪な音節を発し、やがて長井淳へと向き直る。


 「さあ…約束を…果たす時だ…」


 ユヴェタンが長井淳の前に立ちはだかった。「断じてさせん!」手のひらにサイクロンを形成しながら、「淳、ここから切り抜けるぞ!」


 しかし長井淳は微動だにしなかった。女王へと変貌した里の父を睨みつけ、瞳のゴールドの光が徐々に赤く染まっていく。コントロールパネルの数値が狂ったように跳ね上がった:


 【エネルギーランク:スタークラストレベル…突破中…】

 【警告!エモーショナルな変化異常!】


 「ルーラー…」長井淳の声は不気味なほど低く沈んだ。「父に…何をした…」


 ルーラーは涼しい顔で前脚を揺らした。「新たな…生を授けたまでだ…」


 長井淳がゆっくりと立ち上がる。肌の下で光っていたゴールドが暗赤色へと変貌した――「お前には…血で血を償わせる…」


 洞窟が突然激しく揺れ始めた。長井淳のエネルギー波が小規模な地震を引き起こし、天井から岩石が崩れ落ちてくる。ユヴェタンは戦友を驚愕の目で見つめた――長井淳の髪はエネルギー漏出で逆立ち、眼の赤い光は地獄の炎のようだった。


 「淳…お前の状態は…」ユヴェタンが懸念を込めて叫んだ。


 しかし長井淳の耳にはもう届かない。ルーラーを食い入るように睨みつけ、一語一語を噛みしめるように言い放つ。


 「後悔させてやる…父をこんな姿にしたことを…」

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