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第41話

長井淳の拳が風を切り裂き、ヴィクトルの喉元を直撃しようとした。指節が喉仏まであと一寸というところで、相手が慌てて上げた腕に阻まれる。「ドン!」鈍い肉弾音が金属の廊下に反響した。ヴィクトルはその一撃で三步も後退し、戦闘ブーツが水たまりに溜まった鉄板を削り、耳障りな音を立てた。


 「阻め!」ヴィクトルの口角から血の筋がにじむ。腰のホルスターからノコギリ短刀が滑り出た。だが長井淳の第二撃はすでに届いていた――鋭い膝蹴りがみぞおちを直撃しようとする。ヴィクトルがかろうじて体を捻ったため、膝は脇腹に激突。「パキン!」鮮やかな骨の折れる音が、傭兵隊長のうめき声と共に響き渡った。


 長井淳はヴィクトルの襟首をつかみ、壁めがけて叩きつけた。「雷雨グループはザーグと取引しているんだろう?」金属壁板が衝撃でへこむ。「行方不明になったホームレスたちは…お前たちの実験材料にされたのか!」


 「俺は…金で動いてるだけだ」ヴィクトルは突然袖からスプリングナイフを弾き出し、冷たい閃光が長井淳の頬をかすめた。長井淳が頭をかわすも、刀先が耳たぶに血の跡を残す。その隙に、ヴィクトルは壁を蹴って反動をつけ、拘束を振り切りながら後方へ転がり込んだ。


 7人の傭兵が同時に動いた。最左翼の痩身長躯の男――フォレストパワー者のライアン――が地面に両手を叩きつける。コンクリートの裂目から数十本の棘付き蔓が突然迸り出し、緑色の大蛇のように長井淳の両脚へ絡みつこうとする。ほぼ同時に、右翼の水術傭兵マークが両掌を合わせた。大気中の水蒸気が瞬時に数百本の氷針へと凝固し、豪雨の如く襲いかかる。


 長井淳は素早く側転して最初の蔓の攻撃を回避すると、地面に落ちていた折れた鋼管をひったくって回転させながらガード。「チンチン!」と氷の針が金属にぶつかる音が連続し、それでも数本が肩に刺さり、傷口から即座に冷気が広がった。歯を食いしばって氷の針を引き抜くと、逆手に取って印を結んでいるマーク目がけて投げつけ、相手の術を中断させた。


 「隙を作るな!」ヴィクトルが肋骨を押さえながら叫んだ。二人の体術傭兵が左右から挟み撃ち、一人はヌンチャクで足元を払い、もう一人はナックルで顔面を狙う。長井淳は身をかがめてナックルをかわすと、右腕でヌンチャクの一撃を受け止め、その隙に相手の手首を掴んで背負い投げを決めた。放り投げられた傭兵は詠唱中のライアンにぶつかり、二人はもつれ合って転がり込んだ。


 長井淳は突然、背中に冷たい感覚を覚えた。水術傭兵マークが気づかれぬうちに背後に回り込み、手のひらを彼の背中に当てていた。「フリーズ!」。鋭い寒気が戦闘服を貫通し、長井淳は背中の筋肉が硬直していくのを感じた。彼は咄嗟に頭を後ろに振り、後頭部をマークの鼻梁に強く叩きつけた。軟骨が砕ける音と共に、凍結効果は中断された。


 「クソが!」ヴィクトルが突然煙の中から飛び出し、ノコギリ短刀で腹部を直撃しようとする。長井淳は素早く体を捻って回避したが、刃は脇腹をかすめ、温かい血が即座に衣服に滲み広がった。彼は足を振り上げ、ヴィクトルの手首を蹴り上げる。短刀はくるくると回転しながら天井に突き刺さった。


 「魔成長の檻(ませいちょうのおり)」と、再び立ち上がったライアンが咆哮し、十本の指を地面に突き刺した。廊下全体の床が盛り上がり、碗の口ほどの太さの蔦が土を破って飛び出し、隙間もない牢獄を形成した。長井淳は連続バク転で回避するが、一本の棘付きの蔦が不意をつく角度から襲い来り、毒蛇のように彼の右手首に絡みついた。


 「捕まえた!」マークは鼻血を拭い、手で印を結んだ。「アブソリュートゼロ!」蔦を伝って流れ込む極寒の冷気が、一瞬にして長井淳の右腕を氷の彫像へと変えた。さらに多くの蔦が隙をついて左足と腰に絡みつき、鋭い棘が筋肉に食い込み、パラライズポイズンを注入していく。


 長井淳は首に絡みつこうとする蔓を左拳で叩き割ったが、明らかに動きが鈍っていた。ルーラーとの戦いで体力を消耗しすぎており、今や一呼吸ごとが古びた鞴(ふいご)を引くかのように重い。その視界に、ヴィクトルが落ちていた注射器を拾い、小さな瓶から透明な液体を吸い上げる姿が映った。


 「通常の五倍量の鎮静剤だ」ヴィクトルが注射器を軽く振りながら、「お前のような化け物専用に調合したものさ」


 二人の体術傭兵が隙を突いて襲いかかる。一人は喉締め、もう一人は足を抱え込んだ。長井淳は肘打ちで背後の男のこめかみを砕き、同時に膝蹴りで正面の襲撃者を蹴り飛ばす。だが、さらに多くの蔓が絡みついてくる。水術傭兵が冷気を放出し続け、氷の層が足首から上へと這い上がっていく。


 「終わりだ」ヴィクトルが不意に横っ飛びから急接近し、冷たい針先が首筋へと突き出る。長井淳が咄嗟に首を捻じり、針は頸動脈をかすめて外れた――だがヴィクトルは刺す動作を叩きつける動きに変え、注射器を強引に肩へ押し当てた。親指でプランジャーを押し込み、ポーションを筋肉へ全て送り込む。


 「ぐっ……!」鋭い痛みの後、血管を伝うように冷たい麻痺感が急速に広がっていく。長井淳は怒号と共に右腕の氷層を振り払い、ヴィクトルの頬骨へ拳を叩き込んだ。傭兵の頭目はボロ布人形のように吹き飛んだ。だが薬の効き目は早すぎた。視界が滲み始め、膝が意思に反して地面へと折れていく。


 「クソ……こいつは……!」ヴィクトルが折れた歯を吐き出し、よろめきながら立ち上がる。「バインド強化しろ!追加で二本投与だ!」


 長井淳はさらに幾本もの針が肉体を貫くのを感じ、意識が潮が引くように遠のいていく。最後に視界に捉えたのは、ライアンが蔓で編んだ担架と、腫れ上がった顔に浮かべたヴィクトルの勝ち誇った笑みだった……


 意識が戻った時、まぶしい白光が瞼を貫いていた。長井淳はすぐには目を開けず、まずは金属製の拘束帯が手首に食い込む痛みと、左腕の静脈に生じた異常な脹れを感じ取った。耳元では、断片的な会話が聞こえてくる。


 「…報酬はすでに振り込んだ」電子音質感のある男声が響く。「ヴィクトルさん、あなたの傭兵団はプロフェッショナルだった」


 「野井課長、過分なお言葉です」鼻を詰まらせたヴィクトルの声――明らかに鼻骨を損傷している。「契約通り、残り30%の最終払いについてですが…」


「もちろんです。財務室までご同行を」


足音が遠ざかり、気密ドアが閉まるシューッという音がした。約十五秒後――長井淳は何か気体が放出される「シュー」という音を聞き、続いて五、六体の肉体が次々と倒れる鈍い音を感知した。


 「記憶消去プログラムを起動する」野井の声が突然機械的な冷たさに変わる。「標準量の3倍投与。基本的な生理機能のみ保持せよ」

 「課長、処分しますか?」


 「まず7号实验室へ移送だ。覚えておけ、死人だけが秘密を漏らさない――だが社長はポーションの生体テストを必要としている」


 引きずる音がほぼ2分間続いた。長井淳は誰かが近づいてくるのを感じ、ゴム手袋の触感が自分の右瞼をめくった。強力な懐中電灯の光が瞳孔を直撃する。彼は眼球を微動だにさせず、最も微細な震えさえも完璧に制御していた。


 「バイタルは安定していますが、脳波に異常活動が見られます」女性の声が報告する。「追加で鎮静剤を投与しましょうか?」


 「必要ない」野井の声が至近距離から聞こえ、かすかに消毒液の匂いを伴っていた。「神経スキャンの準備だ。前頭前皮質の活動を重点監視せよ」


 冷たいバイオセンサー貼付片がこめかみに貼りつけられる。長井淳はかすかに開けた瞼の隙間から状況を観察した――純白の円形実験室、自分は大字型に傾斜した金属台に固定され、向かいには巨大な片面ミラーが立ちはだかっている。左腕の袖は捲られ、肘の内側には三つの新しい針痕が残り、周囲の皮膚は不気味な青紫に変色していた。


 「課長!」女性技師が突然叫んだ。「シータ波とベータ波が同時活性化! これは昏睡状態ではありえない反応です──」


 野井がガラリと振り返り、モニター画面を見た。その瞬間――長井淳が目を開いた。

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