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第43話

坂本隆のウィスキーグラスが空中で静止した。琥珀色の液体がグラスの内壁に、ゆっくりと流れ落ちる痕跡を残していく。彼の顔には、商人特有の如才ない笑みが依然として浮かんでいた。まるで、入り口あたりに転がっている黒焦げの死体など、自分とは何の関係もないものであるかのように。


 「条件を話し合いましょう」坂本隆はグラスを置くと、両手を組んでデスクに載せた。「あなたのような……特殊な個体には、より良い待遇を与えるべきです」


 長井淳が一歩前へ踏み出すと、オフィスの床がきしむような軋みをあげた。その視線は、坂本隆の微かに震える右手へと鋭く釘付けになる――その手は、机の下にある何らかのボタンへと密かに移動していた。


 「市場価格の三倍の年俸」坂本隆の言葉が速くなる。「独立した研究室、必要な資源はすべて――」


 「俺が求めているのは、そんなものじゃない」長井淳が低く危険な声で遮った。「真実を話せ。雷雨グループとザーグの取引、消えた人間たち……そしてお前たちが俺に施した実験のことを」


 坂本隆の口元がぴくっと痙攣した。デスクの下で手探りする指の動きが、いっそう慌ただしくなる。「それらは全て必要な犠牲だ。人類は進化が必要なのだ……新たな環境に適応するために。ザーグがなぜ突然地球に現れたか、君は考えたことがあるのか?」


 長井淳の瞳がさらに鋭く研ぎ澄まされる。「どういう意味だ?」


 「奴らは招き入れたのだ」坂本隆が突然笑いだした――その笑みに長井淳は背筋に悪寒を覚える。「蟻を蜜で誘うように、簡単なことだった。ただ今回は……蜜として使ったのは地球の座標信号だ」


 長井淳の拳が猛烈にデスクを叩きつけた。百万円の価値がある紅木のデスクは一瞬でひび割れ、蜘蛛の巣のように無数の亀裂が広がっていった。「お前ら、正気か!これでどれだけの人間が死ぬと思ってるんだ!」


 坂本隆はぐっと身を反らせ、転がるようにスイベルチェアがガラス窓にぶつかり、「ドン」と鈍い音を立てた。「これは俺の判断じゃない!俺はただの実行役だ!もっと上の連中が全てを仕切ってるんだ!」


 長井淳の手が空中で止まった。オフィスは不気味な静寂に包まれ、ただ坂本隆の荒い息遣いだけが響いている。

 「続けろ」長井淳の声は氷のように冷たい。「黒幕は誰だ?」


 坂本隆の左手が椅子のアームレスト内側に滑り込み、密かに隠されたスイッチを押した。彼の表情が突然歪み、恐怖と不気味な興奮が混ざり合ったような形相になった。「教えると思うか?お前は自分が何と戦ってるのかもわかってない…我々はただ生き延びたいだけだ…」


 床が突然眩いブルーレイを放った。隠されていた数十の発射器からレーザーが噴き出し、長井淳の周囲に立方体の檻を描き出した。各レーザー線は指ほどの太さがあり、危険な高熱を発している。


 「最新開発のプラズマ拘束フィールドだ」坂本隆が床から這い上がり、乱れたネクタイを直しながら続けた。「既知のあらゆる物質を切断可能だ…お前のその怪力すらもな」


 長井淳は微動だにしなかった。レーザーの檻は徐々に縮小し、最も近い一本は既に彼の鼻先から10センチも離れていない。高温で焼け焦げる髪の毛の臭いが鼻腔を刺激した。


 「なぜ我々がお前にこだわるのか、わかるか?」坂本隆は傍らの酒棚へ歩み寄ると、新たにグラスに酒を注いだ。「人類とザーグの遺伝子融合……127回の失敗を重ねた末、ようやくお前を見つけたんだ」


 レーザー光線が長井淳の袖に接触すると、高級生地は一瞬で炭化した。しかし、長井の肌はわずかに赤みを帯びただけで、傷一つ残らなかった。


 「お前は唯一の成功例だ」坂本隆はウィスキーを一口啜りながら、冷たく続けた。「完璧な共生体──どんな超常遺伝子とも衝突せずに適合できる…我々はお前の遺伝子配列を複製するだけで、最強の軍隊を創り出せる」


 長井淳が静かに目を閉じた。その瞬間、彼の体内からインビジブルウェーブが広がり、オフィス内のガラス製品が一斉に爆散した。壁に掛かったエネルギー計測器の針が狂ったように振れ始め、表示数値は〈スタークラスト〉から急上昇し、やがて不気味な赤い文字〈ゴッドフォージ〉で静止する。


 「…あり得ない」坂本隆の手からグラスが床に落ち、無数の破片に砕け散った。「計測器の故障だ…人間がこのエネルギー域に達するはずがない…」


 長井淳が目を見開いた瞬間、レーザーの檻は脆い蜘蛛の巣のように粉々に引き裂かれた。プラズマビームは高濃度エネルギー場の中で歪み、断裂し、やがて無数の光の粒子となって空中に消散していく。フロア全体の電力システムが過負荷に陥り、照明が明滅を繰り返す中、電子機器が次々と火花を散らして爆ぜた。


 坂本隆が逃げようと振り向いた瞬間、見えざる力にぐいと引き戻された。長井淳の拳が風を切り裂く轟音と共にその顔面を捉え、頭蓋骨が砕ける鈍い音が響き渡る。坂本の身体はボロ布の人形のように吹き飛ばされ、強化ガラスのカーテンウォールを貫通し、変形した金属窓枠にめり込んだまま、動かなくなった。


 坂本隆の歪んだ頬から鮮血が滴り落ちていた。しかし、彼の表情は妙に平静そのものだ。さらに不気味なことに、傷口には通常の人体組織など存在せず、金属光沢を放つ回路基板と合成繊維が露わになっていた。


 「驚いたか?」坂本隆――いや、B-714と名付けられた替え体の口が不自然に歪み、精密な油圧装置が覗いた。「俺はただの替え玉だ。識別番号B-714。3年前から、本物の坂本隆は表舞台に姿を見せていない」


 長井淳がその機械仕掛けの怪物に近づき、精密な部品の一つ一つを仔細に観察した。「つまり、全ては偽装だったのか?雷雨グループも、人体実験も、ただのカモフラージュか?」


 そのバイオニックヒューマノイドは耳障りな笑い声を上げた。笑いの中に混じる電子ノイズが不気味に響く。「雷雨グループは氷山の一角に過ぎない。この街だけが我々の活動拠点だと思うのか?世界27の主要都市に、我々の研究所が存在している」


 長井淳がバイオニックヒューマノイドの首を締め上げながら、低く唸るように問い詰めた。「目的は何だ?なぜザーグを引き入れた?」


 「進化か…さもなくば滅亡だ…」バイオニックヒューマノイドの声が途切れがちになりながら、「人類は…脆弱すぎる…外部からの刺激が必要なのだ…本物の坂本隆は…信じていた…破壊を経てこそ…再生があると…」


 「彼を…見つけ出せ…止めるんだ…」突然、バイオニックヒューマノイドの声質が一変した。まるで別人がその回路を通して語っているかのように。「さもなくば…人類は…永遠に失われる…」


 都市全体に、今までにない警報音が響き渡った。これは通常の空襲警報などではない――長井淳がこれまで耳にしたことのない、電子ノイズを伴う鋭い鳴動で、まるで生物の咆哮と機械音が融合したような不気味な音色だ。粉砕されたフロアガラス越しに、遠くの夜空で不気味な赤い閃光が点滅しているのが見えた。


 長井淳が窓際に歩み寄った。警報音が鳴り響く中、街の明かりが次々と消えていく。まるで幽霊巨獣に飲み込まれるように。そして遠い地平線の彼方で、何か巨大な影が蠢き始めていた…

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