目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第46話

冷たい風が地面の紙くずを巻き上げ、長井淳とユヴェタンの間で渦を描いていた。周囲の兵士たちの息遣いが荒くなり、指が不安そうに引き金の上を行き来するが、誰一人として動こうとはしない。


 「つまり、『ユヴェタン』は偽名だったわけだ」長井淳の声には一切の感情の襞が見えず、凍りついた湖面のように平然としていた。


 武内城――いや、ユヴェタンと呼ぶべきか――は静かに頷き、銀白の髪が微かに揺れた。「長い間隠し通してすまなかった」普段の冷徹な傭兵団長らしからぬ、驚くほど柔らかな声で彼は続けた。「ただ、普通の人間として友人を得たかっただけだ」


 長井淳はその彫りの深い顔をじっと見つめた。皇子の顔立ちは常人よりも立体的で、眉間に生まれつきの高貴さをたたえていた。しかし、その眼差しは地下城で初めて出会った時と変わらず澄みきっていた。


 「お前が誰かなんてどうでもいい」長井淳はそう言い切ると、鋭い眼光をさらに研ぎ澄ませた。「ただ一つ聞きたい──雷雨グループの計画に、皇室は関与しているのか?」


 その質問はまるで沸騰した湯に投げ込まれた氷のようだった。周囲の将校たちは即座に騒然となった。将軍は顔色を変え、急いで前に出ると、「殿下、こような危険人物の言葉を安易に信用されてはなりません!」と叫んだ。


 ユヴェタンが片手を上げると、将軍は即座に口を噤んだ。彼は長井淳の瞳を真っ直ぐに見つめ、「皇室の名誉にかけて誓う。雷雨グループの所業については一切知らない。もし事前に知っていたなら――」その声には珍しく怒気が籠もっていた。「自らの手であのビルを解体していただろう」


 長井淳はその蒼氷の瞳を長く見つめた。ユヴェタンの安定した心音、乱れひとつない呼吸のリズム――すべてが感じ取れた。この男は真実を語っている。


 「お前は信じる」長井淳は静かに宣言した。「だがな、お前の父親も、議会も、この腐りきった体制も――一切信じない」


 将軍がついに堪忍袋の緒を切らした。「殿下!この男はたった今、重要参考人を衆人環視の中で殺害しました!体内にザーグの遺伝子を有し、エネルギーランクはゴッドフォージレベルに迫っています!もし逃がせば…」


 「黙れ」ユヴェタンの声が突然氷点下まで冷え込む。周囲の気温もそれに呼応するかのように急降下し、将軍の唇には瞬時に薄い霜が浮かび上がった。将軍は恐怖のあまり、慌てて後ずさりした。


 ユヴェタンは長井淳に向き直ると、再び声を柔らかくした。「私について来てくれ。この件は自ら調査し、君にきちんとした説明をする」


 長井淳は静かに首を振り、ユヴェタンの肩越しに、暗雲立ち込める遠くの空を見つめた。「君には無理だ」彼はかすかに呟いた。「たとえ皇子であっても、様々な勢力の駆け引きに縛られる。雷雨グループの背後に張り巡らされた利益の網は、君の想像以上に巨大なんだ」


 「一度だけ、チャンスを与えてくれ」ユヴェタンが一歩前へ踏み出し、珍しくも懇願するような表情を浮かべた。「皇室の特権を使って、独立調査委員会を設置できる…」

 「それで?」長井淳は彼を遮った。「委員会のメンバーは誰が任命する?調査経費はどこから出る?最終報告書は誰の承認を受ける?」彼は苦笑いを浮かべた。「このゲームのルールはよくわかっている」


 ユヴェタンは黙り込んだ。誰よりも体制の頑固さを理解していた。この数年、傭兵として身を潜めてきたのは、そうした煩雑な手続きや利害の駆け引きを避けるためだった。


 「真実はこの手で確かめる必要がある」長井淳は背を向け、立ち去ろうとした。


 「止めろ!」将軍が突然叫んだ。「彼をザーグに走らせるな!」


 数百の銃が一斉に構えられ、スコープの赤い光点が長井淳の背中に無数に集まった。機兵部隊のビーム砲がエナジーチャージを始め、耳をつんざくような唸り声を響かせた。


 ユヴェタンが猛然と振り向くと、銀髪が空中に弧を描いた。「誰がやれるものか!」彼の声は極地の吹雪の如く、瞬く間に広場全体を飲み込んだ。地面は彼を中心に急速に凍結し、氷の層は兵士たちの足元まで迫ってから、ぴたりと止まった。


 「殿下!」将軍は冷や汗をかきながら訴えた。「彼を逃がせば…たとえ殿下でも責任を——」


 「責任はこの私が取る」ユヴェタンの声は冷徹そのものだった。「今すぐ道を空けろ」


 兵士たちは顔を見合わせたが、ついにユヴェタンの鋭い視線に押されるようにして、ゆっくりと武器を下ろした。バリアシールドで築かれた壁は中央から分かれ、狭い通路ができた。


 長井淳は振り返らず、かすかにうなずくだけだった。そして歩き出した。彼のブーツが凍った路面を踏むたび、硬質な砕ける音が響き渡った。


 「待て」ユヴェタンが突然呼び止めると、懐からアイスクリスタルで作られた徽章を取り出し、彼に投げ渡した。「これを取れ。『ブリザード傭兵団』の扉は…いつでもお前のために開いている」


 長井淳は徽章を受け止め、その冷たい感触に、地下街の酒場で飲んだあの冷やしたビールを思い出した。徽章をポケットにしまい、彼は再び歩き出した。


 兵士たちは不本意そうに道を空けた。若い兵士の中には、密かに敬意を込めた視線を送る者さえいた。長井淳は背中にユヴェタンの視線を感じながら、最後まで振り返ることはなかった。


 遠く、地下城への入口は暗闇の大口のように開いており、あらゆる光を飲み込もうと待ち構えていた。長井淳の姿は次第に小さくなり、ついに地下へと続く階段の向こうに消えていった。


 将軍は力なく軍帽を脱いだ。「殿下、国王陛下と議会にはどうお答えすれば…」


 「私が直接説明する」ユヴェタンは長井淳が消えた方角を見つめたまま、いつもの冷たい声を取り戻していた。

「今すぐ手勢を集めろ。『雷雨グループ』の全研究所座標を要求する」


 「ですが…」


 「即刻だ」


 将軍は唾を飲み込み、慌てて命令を伝えに行った。ユヴェタンはその場から動かず、無意識に腰の帯びたクリスタルダガーを指で撫でていた。雪が降り始め、あっという間に長井淳の残した足跡を覆い隠した。


 地下城の入り口で、長井淳は灰色に濁った空を最後に見上げると、後ろを振り返ることなく暗闇へと足を踏み入れた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?