「夏目さん、退職手続き、清原社長から承認は下りました。ただ社長……退職者があなたって気づいてないみたいで…、確認入れましょうか?」
電話の向こうから届いた人事担当の声に、夏目汐里は静かに視線を落とした。
「……いえ。そのままで構いません」
「でも……社長の一番のお気に入りはあなたですよ? 四年間、ずっと支えてきたのに…。離れたらきっと困るはずです。少し…考え直しませんか?」
心から心配してくれているのは伝わってきたけれど、汐里はほんの少し笑って首を横に振った。
「……この世に“いないと困る人”なんていませんよ。私も…両親の体調があまりよくなくて……地元に戻って、お見合いすることになりました。 退職が通ったなら、あとは引き継ぎだけです。
一ヶ月後には出発しますので……どうぞ、よろしくお願いします」
電話を切ると、彼女はまた黙々と荷物の整理を続けた。
この一戸建てに住んで、もう三年になる。
物は多くも少なくもなくて、必要最低限だけ残して、あとは全部処分した。
徐々に空っぽになっていく部屋を見つめながら、ふと意識が遠のく。胸の奥に、忘れかけていた記憶が波のように押し寄せてくる。
八年前――
地方から上京した夏目汐里が早稲田大学に合格したその年、東京の名門・清原家の令嬢、清原寧々と親友になった。
家柄こそ正反対だったけれど、不思議と気が合い、講義、食事、買い物、何をするにもいつも一緒だった。
自然と、寧々の家族とも顔を合わせるようになり……そして、彼女の兄・清原介人に、恋をした。
けれど、その気持ちはずっと胸の奥にしまったまま、誰にも言わなかった。
卒業後、寧々は海外留学へ。
汐里は東京に残って履歴書を出し、彼――清原介人の秘書になった。
ただ、少しでも近くにいたくて。
けれど、ある夜――
清原介人が誰かに薬を盛られ、正気を失っていた。
汐里はすぐに救急車を呼ぼうとした。
けれど、その前に彼に壁に押しつけられ、止まらないキスにのまれていった。
そして、一夜明けた朝――
タバコの煙の向こう、窓際に座る彼の横顔が、朝の光の中に淡く浮かんでいた。
彼女が気づくと、彼はゆっくりと振り返り、たった一言を口にした。
「……俺のこと、好きなのか?」
否定しようとしたその瞬間、彼は目を伏せて静かに続けた。
「俺を見ると、いつも頬が赤くなる。俺の好き嫌いも全部覚えてて、卒業してすぐ俺の秘書になった……偶然なんて、言わせないよ」
その声が、心に突き刺さる。
顔が熱くなるのは、羞恥か、罪悪感か――
沈黙の中で、彼は一枚のカードを差し出してきた。
「昨夜のことは……なかったことにしよう。俺には想ってる人がいる。君の気持ちには応えられないし、責任も取れない。
寧々から聞いたよ。君の家は裕福じゃないって。これだけあれば、一生困らないだろ。全部、忘れてくれ」
頭が真っ白になった。
そういえば、昨夜、彼はずっと名前を呼んでいた。
――遥。青山遥。
寧々が話していた、介人の忘れられない初恋の人。
別れた後も、海外に行っても、彼はずっと待ち続けていた。
「清原家の人間は基本みんな冷たいのに、お兄ちゃんだけは違うんだよね。遥以外は妥協だって、そう言い切っててさ……」
そのときの寧々の言葉を思い出す。
あの夜、汐里は勇気を出して彼を呼び止めた。
「お金はいりません。ただ、一度だけ……付き合ってください。もし彼女が戻ってきて、あなたの気持ちが変わったら――私は、自分から消えます」
愛を宿したまっすぐな目を見て、彼は数秒、黙ってから言った。
「……好きにしろ」
それからの四年間――
昼は秘書、夜はセフレ。
オフィス、センチュリー、別荘の窓辺――
どれも、二人の痕跡でいっぱいだった。
誰にも知られず、汐里はその関係に甘んじていた。
……彼の誕生日が来るまでは。
汐里は彼のためにいくつもサプライズを用意した。
けれど、夜中になっても彼は帰らず、代わりにSNSの投稿が届いた。
「一番の誕生日プレゼント、それは――失くしたものが、戻ってきたこと」
一度も投稿したことのない清原介人が、
花火の下で青山遥にキスしている写真を載せた。
血の気が引いた。胸がぎゅっと締めつけられた。
最後の望みをかけて、彼に電話をかけた。
出たのは――青山遥だった。
「ねえ、介人? 夏目汐里って人から電話。無言でずっと黙ってるんだけど」
そのあと、スピーカー越しに彼の低い声が届いた。
「……どうでもいい人だ。気にしなくていい。……もう少し、寝てな?」
その瞬間、夏目汐里は悟った。
――私はもう、ここにいちゃいけない。
荷物をまとめ、出ていこうとしたそのとき、
玄関で鉢合わせたのは、他でもない清原介人だった。
この家に住んでいたのは、毎晩関係を持っていたから。
けれど、もうそれも終わり。
彼の視線が一瞬止まり、けれど声は冷たかった。
「……住む場所は決まったのか?」
「はい。前に住んでたアパートです。一ヶ月だけ借りました」
「一ヶ月?」
眉をひそめる彼に理由を言おうとしたけど、その前に彼が口を開いた。
「……送るよ」
「いいえ、大丈夫です。雪も強いし、夜も遅い。万が一のことがあれば、寧々ちゃんが悲しむ」
結局、車に乗ることになった。
昔は、何度もこの車の中で抱き合った。
けれど今――車の雰囲気がまるで違っていた。
ぬいぐるみ、キティちゃんのシートカバー、お菓子――
こんなの、あの清原介人じゃない。
彼はふと、視線に気づいたように言った。
「……遥が、好きなんだ」
その一言に、すべてが詰まっていた。
汐里は目を伏せ、しばらくしてから静かに答えた。
「……やっと、会えたんですね。良かったです、社長」
彼は黙ったまま、目を細めて前を見つめていた。
道半ばで、青山遥から電話。
「雪だるま作りたいの!」
車を停めた彼は、すぐに向かおうとした。けれど、躊躇した。
何をためらっているのか、汐里にはわかった。
だから、自分からドアを開けた。
「……私、タクシーで帰ります」
「……」
彼はうなずき、トランクから荷物を下ろした。
そのとき、汐里の手が滑り、段ボールが地面に落ちた。
ちらばった手紙、写真、捨てられた彼の持ち物――
「っ……!」
慌てて拾い集めながら、汐里は小さく言った。
「……ごめんなさい」
清原介人は、何も言わなかった。
ただ静かに車に戻り、そのまま走り去った。
タクシーは捕まらなかった。
箱を抱えて歩こうとしたその時――自転車がぶつかってきた。
転倒、流血、逃走。
雪にまみれながら、息も絶え絶えに立ち上がった。
四時間――血の足跡を引きずって、ようやくアパートへ。
処置を終えて、スマホを開いた。
そこには、彼からのたった一通のメッセージ。
「そんなに一途になるな。男なんて他にもいる。俺だけに縛られるな」
――汐里は、その画面を長く見つめた。
夜が明けて、
彼女は一階の駐車場で、箱を燃やした。
八年間、燃え続けた恋は――
音もなく、灰になった。
清原介人。
あなたの望んだとおりにしてあげる。