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セフレ以上に昇格できなかった秘書が辞めた日、社長の人生が地獄に落ちた
セフレ以上に昇格できなかった秘書が辞めた日、社長の人生が地獄に落ちた
レモネード
恋愛オフィスラブ
2025年06月04日
公開日
4.4万字
完結済
社長・清原介人との関係は、たしかに最初から歪んでいた。 肩書は秘書。けれど実態は、仕事のパートナーでも、愛される恋人でもない。 誰にも言えない関係――社内では“完璧な秘書”、プライベートでは“セフレ”という、都合のいい存在。 それでも私は、彼の傍にいたかった。 四年間、何も求めず、何も望まず、ただ支え続けた。 でも、限界だった。 「退職届を提出しました。……今まで、お世話になりました」 一通の辞表で、私はようやく地獄から抜け出した。 ──それから数日後。 「待ってくれ。お前がいなくなって、気づいたんだ……俺には君が必要なんだ」 そう泣きついてきたのは、あの冷酷だった社長。 でも、私はもう戻らない。愛も情も、すべて置いてきたから。 これは、“セフレ秘書”が社長に突きつけた最後通告。 ――後悔しても遅いって、ちゃんと分からせてあげる。

第1話

「夏目さん、退職手続き、清原社長から承認は下りました。ただ社長……退職者があなたって気づいてないみたいで…、確認入れましょうか?」


電話の向こうから届いた人事担当の声に、夏目汐里は静かに視線を落とした。

「……いえ。そのままで構いません」


「でも……社長の一番のお気に入りはあなたですよ? 四年間、ずっと支えてきたのに…。離れたらきっと困るはずです。少し…考え直しませんか?」


心から心配してくれているのは伝わってきたけれど、汐里はほんの少し笑って首を横に振った。


「……この世に“いないと困る人”なんていませんよ。私も…両親の体調があまりよくなくて……地元に戻って、お見合いすることになりました。 退職が通ったなら、あとは引き継ぎだけです。

 一ヶ月後には出発しますので……どうぞ、よろしくお願いします」


電話を切ると、彼女はまた黙々と荷物の整理を続けた。


この一戸建てに住んで、もう三年になる。

物は多くも少なくもなくて、必要最低限だけ残して、あとは全部処分した。


徐々に空っぽになっていく部屋を見つめながら、ふと意識が遠のく。胸の奥に、忘れかけていた記憶が波のように押し寄せてくる。


八年前――

地方から上京した夏目汐里が早稲田大学に合格したその年、東京の名門・清原家の令嬢、清原寧々と親友になった。


家柄こそ正反対だったけれど、不思議と気が合い、講義、食事、買い物、何をするにもいつも一緒だった。


自然と、寧々の家族とも顔を合わせるようになり……そして、彼女の兄・清原介人に、恋をした。


けれど、その気持ちはずっと胸の奥にしまったまま、誰にも言わなかった。


卒業後、寧々は海外留学へ。

汐里は東京に残って履歴書を出し、彼――清原介人の秘書になった。

ただ、少しでも近くにいたくて。


けれど、ある夜――

清原介人が誰かに薬を盛られ、正気を失っていた。


汐里はすぐに救急車を呼ぼうとした。

けれど、その前に彼に壁に押しつけられ、止まらないキスにのまれていった。


そして、一夜明けた朝――

タバコの煙の向こう、窓際に座る彼の横顔が、朝の光の中に淡く浮かんでいた。


彼女が気づくと、彼はゆっくりと振り返り、たった一言を口にした。


「……俺のこと、好きなのか?」


否定しようとしたその瞬間、彼は目を伏せて静かに続けた。

「俺を見ると、いつも頬が赤くなる。俺の好き嫌いも全部覚えてて、卒業してすぐ俺の秘書になった……偶然なんて、言わせないよ」


その声が、心に突き刺さる。

顔が熱くなるのは、羞恥か、罪悪感か――


沈黙の中で、彼は一枚のカードを差し出してきた。


「昨夜のことは……なかったことにしよう。俺には想ってる人がいる。君の気持ちには応えられないし、責任も取れない。

寧々から聞いたよ。君の家は裕福じゃないって。これだけあれば、一生困らないだろ。全部、忘れてくれ」


頭が真っ白になった。

そういえば、昨夜、彼はずっと名前を呼んでいた。


――遥。青山遥。


寧々が話していた、介人の忘れられない初恋の人。


別れた後も、海外に行っても、彼はずっと待ち続けていた。


「清原家の人間は基本みんな冷たいのに、お兄ちゃんだけは違うんだよね。遥以外は妥協だって、そう言い切っててさ……」

そのときの寧々の言葉を思い出す。


あの夜、汐里は勇気を出して彼を呼び止めた。

「お金はいりません。ただ、一度だけ……付き合ってください。もし彼女が戻ってきて、あなたの気持ちが変わったら――私は、自分から消えます」


愛を宿したまっすぐな目を見て、彼は数秒、黙ってから言った。

「……好きにしろ」


それからの四年間――

昼は秘書、夜はセフレ。


オフィス、センチュリー、別荘の窓辺――

どれも、二人の痕跡でいっぱいだった。


誰にも知られず、汐里はその関係に甘んじていた。


……彼の誕生日が来るまでは。


汐里は彼のためにいくつもサプライズを用意した。

けれど、夜中になっても彼は帰らず、代わりにSNSの投稿が届いた。


「一番の誕生日プレゼント、それは――失くしたものが、戻ってきたこと」

一度も投稿したことのない清原介人が、

花火の下で青山遥にキスしている写真を載せた。


血の気が引いた。胸がぎゅっと締めつけられた。

最後の望みをかけて、彼に電話をかけた。


出たのは――青山遥だった。

「ねえ、介人? 夏目汐里って人から電話。無言でずっと黙ってるんだけど」


そのあと、スピーカー越しに彼の低い声が届いた。

「……どうでもいい人だ。気にしなくていい。……もう少し、寝てな?」


その瞬間、夏目汐里は悟った。

――私はもう、ここにいちゃいけない。


荷物をまとめ、出ていこうとしたそのとき、

玄関で鉢合わせたのは、他でもない清原介人だった。


この家に住んでいたのは、毎晩関係を持っていたから。

けれど、もうそれも終わり。


彼の視線が一瞬止まり、けれど声は冷たかった。

「……住む場所は決まったのか?」

「はい。前に住んでたアパートです。一ヶ月だけ借りました」

「一ヶ月?」


眉をひそめる彼に理由を言おうとしたけど、その前に彼が口を開いた。

「……送るよ」

「いいえ、大丈夫です。雪も強いし、夜も遅い。万が一のことがあれば、寧々ちゃんが悲しむ」


結局、車に乗ることになった。

昔は、何度もこの車の中で抱き合った。

けれど今――車の雰囲気がまるで違っていた。


ぬいぐるみ、キティちゃんのシートカバー、お菓子――


こんなの、あの清原介人じゃない。


彼はふと、視線に気づいたように言った。

「……遥が、好きなんだ」


その一言に、すべてが詰まっていた。

汐里は目を伏せ、しばらくしてから静かに答えた。


「……やっと、会えたんですね。良かったです、社長」


彼は黙ったまま、目を細めて前を見つめていた。


道半ばで、青山遥から電話。

「雪だるま作りたいの!」


車を停めた彼は、すぐに向かおうとした。けれど、躊躇した。


何をためらっているのか、汐里にはわかった。

だから、自分からドアを開けた。

「……私、タクシーで帰ります」

「……」


彼はうなずき、トランクから荷物を下ろした。

そのとき、汐里の手が滑り、段ボールが地面に落ちた。

ちらばった手紙、写真、捨てられた彼の持ち物――


「っ……!」


慌てて拾い集めながら、汐里は小さく言った。

「……ごめんなさい」


清原介人は、何も言わなかった。

ただ静かに車に戻り、そのまま走り去った。


タクシーは捕まらなかった。

箱を抱えて歩こうとしたその時――自転車がぶつかってきた。


転倒、流血、逃走。


雪にまみれながら、息も絶え絶えに立ち上がった。


四時間――血の足跡を引きずって、ようやくアパートへ。


処置を終えて、スマホを開いた。

そこには、彼からのたった一通のメッセージ。


「そんなに一途になるな。男なんて他にもいる。俺だけに縛られるな」


――汐里は、その画面を長く見つめた。


夜が明けて、

彼女は一階の駐車場で、箱を燃やした。


八年間、燃え続けた恋は――

音もなく、灰になった。


清原介人。

あなたの望んだとおりにしてあげる。


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