土日二日間の休みを挟み、月曜の朝、夏目汐里はいつも通り会社へ出勤した。
彼女は平常心を装い、手元の仕事を一つずつこなしていく。
そして、清原介人に会議が間もなく始まることを伝えるべく、執務室へ向かった。
ドアがわずかに開いていて、その隙間から――彼女は“あの人”を目にした。
青山遥が、清原介人の膝の上に座っていたのだ。
自分の口にしていたクッキーを、彼に「はい、あーん」と差し出している。
あの潔癖症の彼が……笑って受け取り、彼女の指先に軽くキスをして、やさしく囁いた。
「昨日、ここの和菓子が食べたいって言ってたろ? 今朝、三時間並んで買ってきた。……味どう?」
「うん、相変わらず甘すぎず美味しい♡
でもね、あなた今や財閥の社長でしょう? 自分で並ばなくても、秘書にでも頼めばいいのに」
清原介人は遥の足首をそっと揉みながら、目尻を緩めてこう答えた。
「……君に関することは、全部、俺の手でやりたいんだ。他の誰かに任せたくない」
その言葉に、青山遥の頬がほんのり赤く染まり、自ら彼に抱きついて唇を重ねた。
彼もまた、彼女をしっかりと抱きしめ、キスを深くしていく。
その光景に――夏目汐里の呼吸が止まった。
胸の奥が、キリキリと痛んだ。
指先にぐっと力が入り、指の節は白くなり、掌はすでに血が滲んでいた。
……でも。
もう、会議の時間が近い。
彼女は心を無理やり整え、ドアをノックした。
「社長。会議、まもなく始まります」
彼はふと動きを止めたが、立ち上がろうとしたその瞬間――
「まだ行かないで~もうちょっとだけ一緒にいて?」
甘えた声で引き止められた。
その一言で、清原介人の表情がやわらぎ、微笑を浮かべた。
「……会議、二時間、延期にして」
この会議は、東京都内の複数の大手財閥が関わる超重要プロジェクト。
会社の未来を左右するレベルの内容だった。
汐里は思わず、理性で言葉を挟んだ。
「佐藤商事、田中物産、高橋グループの各社長はすでに会議室にお揃いです……」
「……ねえ介人、この秘書さん、ちょっと空気読めなすぎじゃない?」
遥が拗ねるように文句を言うと、清原介人の顔が一気に冷たくなった。
「……俺が延期って言ったんだ。遥より大事なことなんてひとつもない」
喉の奥が詰まるような、言葉だった。
でも――夏目汐里は黙って、そっとドアを閉めた。
そして、会議室へと向かい、各社長に丁重に謝罪した。
清原家は巨大な財閥だ。
誰も社長本人には文句を言えず、その矛先は、すべて彼女に向けられた。
汐里は反論せず、ただひたすら頭を下げて謝り続けた。
二時間――ひたすら耐えた。
ようやく清原社長が現れたときには、足が痺れて立ち上がるのもやっとだった。
ようやく席を立とうとしたところで――
「あなたが夏目汐里さん?」
声をかけてきたのは、青山遥だった。
「介人がね、あなたの淹れるコーヒーが美味しいって褒めてたの。 オフィスのみんなお疲れでしょ?全員分準備して~ あっ、私の分はアイスで、砂糖なしでお願いね」
清原介人の溺愛を笠に着て、堂々と指示をしてくる彼女に、逆らうことはできなかった。
汐里は、黙って休憩室へ向かい――
400杯近くのコーヒーを、2時間かけて準備した。
そして、彼女の分も含めて丁寧に運び終えた、その瞬間だった。
青山遥が、一口飲むなり顔をしかめた。
そして、手にしていたカップを彼女の額めがけて投げつけた。
「いった……っ」
硬いマグカップが額に命中し、鋭い痛みと共に血が噴き出した。
汐里は声にならない呻きを洩らしながら、顔を歪めて床に崩れ落ちた。
だが――それで終わりではなかった。
青山遥はさらにコーヒーカップを取り上げ、彼女に向かって次々と投げつけた。
身体中にぶつかり、破片が肌を裂き、血が流れ、服はびしょ濡れになった。
それでも彼女は頭と胸を守るように、身体を丸めてひたすら耐えるしかなかった。
オフィスの中は、誰一人声を上げる者もなく、遠巻きに眺めるだけだった。
――やがて。
物音に気づいて出てきたのは、清原介人。
目に飛び込んできたのは、荒れ果てたオフィスと、血まみれで倒れる夏目汐里の姿。
彼の眉がピクリと動いた。
「……どうした」
すると遥が、目に涙を浮かべながら振り返った。
「介人……私、生理中なのに、この女が私のコーヒーに氷を入れたの……お腹がすごく痛くて……」
潤んだ目に、怯えるような表情。
それを見て、清原介人の顔つきが一気に険しくなった。
「……四年も俺の秘書してて、こんなことも分からないのか? それともわざとやった?」
言い返す間もなく、彼は即座に指示を飛ばした。
「夏目汐里は会社規定違反。今月の給料とボーナスは全額カット。社内全体に通達を出し、来週の全社会議で始末書を提出させろ」
そして――彼は自分の上着を脱ぎ、遥を抱きかかえて去っていった。