去りゆく彼の背中を見つめながら、夏目汐里の目に、我慢していた涙がぽつりと零れ落ちた。
彼女は痛みに耐えながら立ち上がり、ほうきとモップを持って、散乱したマグカップとコーヒーの清掃を始めた。
すると、何人かの優しい同僚が手伝いに来てくれた。
その視線には、同情と悔しさが滲んでいた。
「さっき、 “アイスで砂糖なし”って言ってたよね? なんであんな風に逆ギレしてんの? 汐里、何か彼女を怒らせるようなことでもした?」
「いや、たぶん違う。あの人、もともとああいう性格なんだって。気に入らないことがあると、すぐ機嫌悪くなるって、前から噂になってたよ。社長が甘やかしてるから、誰も逆らえないの」
「……ほんと、社長があんなふうに誰かを溺愛してるの、初めて見た。汐里も気をつけなよ。私たちみたいな普通の社員じゃ、あのお嬢様には到底かなわない。何があっても、あの子には社長がついてるんだから。たとえ汐里がどんなに理不尽な目に遭ってても――どうにもできないのよ……」
――皆、悪気があって言ってるわけじゃない。
分かってはいた。
けれど、胸の奥がかき乱されて、汐里は何も言えなかった。
昔、彼女が担当した契約書にトラブルがあったとき、
実は相手企業側のミスだったのに、全ての責任を彼女に押しつけてきた。
だがその時、清原介人は彼女を信じ、堂々と反論してくれた。
結果、彼女の潔白は証明された。
なのに今は――
青山遥のたった一言で、彼は何の確認もせず、汐里を責め立てた。
反論の余地すら、与えてくれなかった。
四年間、真面目に働いて、彼のために数えきれないトラブルを処理してきたのに。
それでも彼には、彼女を信じる心すら残っていなかったのだろうか。
――いや、信頼じゃない。
彼にとって、正しさなんてどうでもよかった。
遥が笑ってくれるなら、それでいいのだ。
そう思うと、胸が痛くてたまらなかった。
汐里はようやく片づけを終え、疲れ切った身体を引きずってアパートに戻った。
シャワーを浴びたばかりのところに、また介人から電話が入った。
「ホットココアとカイロ、持ってきてくれ」
彼女はすぐに用意して、彼の別荘へと向かった。
二、三日ぶりに訪れたそこは――
記憶にあるシックで落ち着いた雰囲気とは、まるで別物だった。
清原家の大御所が手ずから植えた桜の木は抜かれ、一面の紫陽花に。
室内のモノトーンの家具はすべて、彼が嫌っていたパステルピンクに替えられていた。
ショーケースには宝石、ブランドバッグ、プレゼントの山。
どれもこれも、明らかに青山遥の趣味だった。
汐里は黙ってその変わり果てた邸内を見渡し、明かりの点いた寝室の前に立ち、ノックした。
しばらくして、清原介人がドアを開けた。
彼女の顔を見た瞬間――一瞬、動きが止まった。
顔に残ったコーヒーの染みは消えていたが、その傷跡は痛々しく、見るに堪えなかった。
「……そんなにひどく怪我してたのか。病院には行ったのか?」
汐里は何も言わず、ただ首を振った。
彼は眉間を押さえ、珍しく少し優しい声で言った。
「遥は体調が悪くて、あれは八つ当たりだ。気にするな。
今月の給与とボーナスは年末に補填してやる。病院には行け。症状がひどければ数日休んでいい。許可は俺が出す、手続きは要らん」
「……いえ、私は今月末で……」
汐里は、退職の話をしようとした。
だが彼は彼女の言葉を最後まで聞かず、一枚のカードを差し出してきた。
「素直に言うことを聞け。あと、遥の帰国パーティーも準備してもらわないといけないし、しっかり休んで体を治せ」
彼女の喉元に残った言葉は、結局、飲み込むしかなかった。
汐里は小さくうなずいてカードを受け取り、そのまま別荘を後にした。
扉が閉まる寸前、遥の甘える声が中から漏れてきた。
「ねえ介人、ココアまだぁ? お腹痛いから揉んでほしい〜」
「はいはい、今行くよ。ベッドに横になって、じっとしてなさい」
その甘やかな声を聞きながら――
汐里は、そっと笑った。
その瞳には、乾いた諦めと、ほんの少しの皮肉。
彼女も、生理痛がひどいとき、何度も会社で倒れて同僚に病院へ運ばれたことがあった。
けれど、そのことを彼が知っていても、ただ有休を認めるだけで、一度たりとも見舞いに来たことはなかった。
もちろん、ココアもカイロもなかった。
あのときは、きっと彼が多忙だからだと、そう思っていた。
でも今は分かる――
違う。ただ、彼は自分に興味がなかったのだ。
別荘を出た後、汐里は近くのクリニックへ向かい、簡単な手当てを受けた。
数日間、自宅で静養したあと。
彼女のスマホに、清原家の執事から一通のメッセージが届いた。
――帰国パーティーの準備案だった。
花、和菓子の種類、スタッフの服装……
細部に至るまで、驚くほど細かい指定があった。
猶予は三日。
汐里は気力を振り絞り、準備に取りかかった。
連日寝る間も惜しんで動き回り、ようやくすべての手配を終えたその夜。
午後七時。
パーティーの幕が上がった。
一流ブランドのドレスに身を包んだ青山遥が、まばゆいライトを浴びて、会場に現れた。
一斉に歓声と賛辞が上がり、彼女は満足そうに微笑んだ。
「数年ぶりにお会いしたけど、青山様って昔と全然変わらないのね。あの気品、あの美しさ……本当にため息が出るわ。しかも、こんな大規模な帰国パーティーまで開いてもらえるなんて、清原社長の想いが今も変わらないってことよね」
「そういえば、学生時代に遥に告白した男の子がいたじゃない? あの時、介人さんがその子を転校させたって噂、覚えてる? ラブレターは全部破かれて、遥のこと悪く言ってた子たちも、骨折するまでボコボコにされたって……」
「この業界で知らない人いないわよね、遥様のこと。清原社長の初恋で、“一番大切な人”って。今日のジュエリーだって、何千万するんでしょ? あのドレスも世界に一着のオーダーメイドらしいし……社長、ほんとに遥様には何でもしてあげるのね」
――その称賛の輪の外で、汐里は静かに身を引いていた。