夏目汐里は、少し離れた場所で黙って立ち尽くしていた。
会話に口を挟むこともなく、ただ静かに――目を伏せたまま。
そこへ、青山遥が勝ち誇ったように歩み寄ってくる。
彼女の目は、まるでゴミでも見るような軽蔑に満ちていた。
「ふふっ、パーティーの準備はまあまあね。でも、ちょっと困ったことがあって――ホールにカーペットが敷かれてなかったの。おかげでドレスが汚れちゃったわ。だからあなた――代わりに、これ持っててくださらない?」
汐里は顔を上げず、冷静に言葉を返す。
「すぐにカーペットを手配いたします。少々お時間をいただけますか」
しかし、その「断り」のような返答に、遥の表情が一変した。
ちょうどその時、清原介人がホールへ入ってきた。
遥の不機嫌な顔にすぐ気づき、急いで彼女のもとに駆け寄る。
「……どうした?」
「介人ぉ……私ね、ドレスが汚れるのがイヤだから、あなたの秘書に裾を持ってもらおうと思ったの。でも、断られちゃったの。まだ私のこと、根に持ってるのかな……?」
涙を滲ませたような遥の顔を見て、清原介人はすぐに彼女を優しく抱き寄せた。
そしてそのまま、鋭い視線で汐里を睨む。
「……裾を持つくらい、秘書の当然の仕事だろう。今日が初日というわけでもない。そんなこともできないのか?」
その場にいた来賓たちも、次々と口を開く。
「秘書のくせに、青山様のお願いを断るなんて……」
「本当に失礼な子ね。お嬢様のドレスの裾を持たせてもらえるなんて、むしろ光栄なことじゃないの?」
嘲笑と蔑みが飛び交う中、汐里の目がわずかに揺れた。
けれど、何も言わず、ただ静かに身を屈め、遥のドレスの裾に手を添える。
真珠が贅沢に縫い込まれたその裾は、想像以上に重く、繊細な装飾が指先を痛めつけた。
それでも汐里は歯を食いしばり、表情を変えない。
遥はそんな彼女を引き連れて、介人の腕を取ったまま、会場をゆっくりと練り歩く。
明らかに、汐里を疲れさせるために。
何度も方向を変え、わざと遠回りしながら――
やがて、今度はグラスを山のように積んだトレイを持たせ、満足げに指をくいっと動かした。
「ねえ、今日あんまりお酒飲みたくなくて。でも、皆さん来てくださってるし、無礼なことはしたくないじゃない? だから、あなたが代わりに飲んでくれる?」
汐里は一瞬言葉に詰まり、それでも勇気を振り絞って口を開いた。
「……わたし、アルコールアレルギーで……」
遥はあからさまに眉をひそめ、すぐに介人を振り返る。
「介人、聞いた? またよ。今度は体質のせいにして、私のお願いを断ろうとしてるの」
わざとらしい泣き声混じりの訴えが、周囲の視線をさらに汐里に集めた。
遥の甘えた声に、清原介人は小さく眉を寄せた。
彼女の体質を知っているはずなのに、彼はためらいもなく言い放った。
「……お前、いつも薬を持ち歩いてただろ。飲んでから酒を口にすれば、問題ないはずだ」
拒む余地を一切許さないその口調に、
汐里の心は、静かに、深く沈んでいった。
唇から血の気が引いていくのを感じながら、彼女は黙ってバッグに手を伸ばす。
指先の震えを隠しながら錠剤を取り出し、水もなしに喉へ押し込んだ。
そして――そのまま、ワイングラスを一杯、また一杯と口に運ぶ。
胃の底がひっくり返るような吐き気。
アルコールが喉を焼き、頭がぐらぐらと揺れていく。
視界はじわじわとにじみ、足元の感覚さえ曖昧になっていく。
そんなとき――
青山遥の甲高い悲鳴がホールに響き渡った。
「キャーッ! 介人、介人がくれたネックレスが消えたの! さっき私の近くにいたのは……この秘書だけよ!? 絶対、彼女が盗んだんだわ!」
突然の中傷に、アルコールで霞んでいた汐里の意識が一瞬だけ覚醒する。
心拍が跳ね上がり、足元の不安定な感覚が消えた。
「……社長、私ではありません」
汐里の声は震えていたが、目だけは真っすぐだった。
介人は、涙を浮かべる遥と、顔色の悪い汐里とを交互に見つめ、わずかに眉を寄せた。
「……さっきは人も多かった。落としただけかもしれない。まずは――」
「違う! あれは私にとって特別なネックレスなのよ!? それなのに……まだこの女を庇うつもり? もういい、私のことなんてどうでもいいのね!」
遥はわざとらしく肩を震わせ、踵を返して去ろうとする。
その瞬間、介人の目が鋭く光った。
「――彼女の身体を調べろ」
低く冷たいその一言で、空気が凍りついた。
すぐに数人のボディーガードが汐里のもとに駆け寄り、彼女を乱暴に床へ押し倒す。
「やめて……! 放して……!」
汐里は必死に抵抗するが、大人の男たちの腕力に敵うはずもなかった。
シャツのボタンがはじけ飛び、スカートの生地が裂ける音が響く。
露出した肌には赤い爪痕が刻まれ、じわりと血が滲む。
その場にいた誰も、止めなかった。
笑う者すらいた。
「違う……私じゃない……お願い、信じて……!」
泣き叫ぶ汐里の声は、ただ空虚にホールに響くだけだった。
そして――彼らの手が、さらに彼女の下着へとかかろうとした、その時。
「見つかりました!」
階段の方から、スタッフが息を切らして駆け上がってきた。
「ネックレス、階段のところに落ちてました! おそらく……あの混雑の時に……!」
ホール中の視線が、その一言に集中する。
誰もが、息を呑んでその場を見つめていた。
清原介人の険しい表情が、ほんのわずかに緩む。
「……下がれ」
その命令に、ボディーガードたちはようやく汐里の身体から手を放した。
ぐったりと床に横たわる彼女に目もくれず、介人は拾われたネックレスを受け取り、
それをまるで何事もなかったかのように、遥の首元へ丁寧に掛けた。
「……見つかってよかった。もう、怒るな」
その言葉に、遥は花が咲いたような笑顔を浮かべる。
そして――
地面に転がる汐里をちらりと見下ろしながら、
まるで気まぐれな猫のように、介人の腕にしなだれかかった。
「ふふっ……本当によかった。無かったら、私……泣いちゃうところだったわ」
一呼吸おいて、わざとらしく言葉を続ける。
「でもさ……あの秘書さん、ちょっと可哀想だったかも。私、謝ったほうがよかったかな?」
その言葉に、会場の空気が再び動いた。
一斉に向けられる視線。
破れた衣服、あらわになった肌に残る痣と爪痕――
汐里は震える腕で自分の身体をかき抱き、
ただ、じっと耐えていた。
そのとき。
彼女の頭上から、冷たく突き放すような声が落ちてきた。
「……謝らなくていい。彼女はただの秘書だ。少し傷ついたくらいで、何も問題はない」
その瞬間。
汐里の中で、何かが――確かに、音もなく砕けた。