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第4話

夏目汐里は、少し離れた場所で黙って立ち尽くしていた。

会話に口を挟むこともなく、ただ静かに――目を伏せたまま。


そこへ、青山遥が勝ち誇ったように歩み寄ってくる。

彼女の目は、まるでゴミでも見るような軽蔑に満ちていた。


「ふふっ、パーティーの準備はまあまあね。でも、ちょっと困ったことがあって――ホールにカーペットが敷かれてなかったの。おかげでドレスが汚れちゃったわ。だからあなた――代わりに、これ持っててくださらない?」


汐里は顔を上げず、冷静に言葉を返す。

「すぐにカーペットを手配いたします。少々お時間をいただけますか」


しかし、その「断り」のような返答に、遥の表情が一変した。


ちょうどその時、清原介人がホールへ入ってきた。

遥の不機嫌な顔にすぐ気づき、急いで彼女のもとに駆け寄る。


「……どうした?」

「介人ぉ……私ね、ドレスが汚れるのがイヤだから、あなたの秘書に裾を持ってもらおうと思ったの。でも、断られちゃったの。まだ私のこと、根に持ってるのかな……?」


涙を滲ませたような遥の顔を見て、清原介人はすぐに彼女を優しく抱き寄せた。

そしてそのまま、鋭い視線で汐里を睨む。


「……裾を持つくらい、秘書の当然の仕事だろう。今日が初日というわけでもない。そんなこともできないのか?」


その場にいた来賓たちも、次々と口を開く。

「秘書のくせに、青山様のお願いを断るなんて……」

「本当に失礼な子ね。お嬢様のドレスの裾を持たせてもらえるなんて、むしろ光栄なことじゃないの?」


嘲笑と蔑みが飛び交う中、汐里の目がわずかに揺れた。

けれど、何も言わず、ただ静かに身を屈め、遥のドレスの裾に手を添える。


真珠が贅沢に縫い込まれたその裾は、想像以上に重く、繊細な装飾が指先を痛めつけた。

それでも汐里は歯を食いしばり、表情を変えない。

遥はそんな彼女を引き連れて、介人の腕を取ったまま、会場をゆっくりと練り歩く。

明らかに、汐里を疲れさせるために。

何度も方向を変え、わざと遠回りしながら――


やがて、今度はグラスを山のように積んだトレイを持たせ、満足げに指をくいっと動かした。


「ねえ、今日あんまりお酒飲みたくなくて。でも、皆さん来てくださってるし、無礼なことはしたくないじゃない? だから、あなたが代わりに飲んでくれる?」


汐里は一瞬言葉に詰まり、それでも勇気を振り絞って口を開いた。

「……わたし、アルコールアレルギーで……」


遥はあからさまに眉をひそめ、すぐに介人を振り返る。

「介人、聞いた? またよ。今度は体質のせいにして、私のお願いを断ろうとしてるの」


わざとらしい泣き声混じりの訴えが、周囲の視線をさらに汐里に集めた。


遥の甘えた声に、清原介人は小さく眉を寄せた。

彼女の体質を知っているはずなのに、彼はためらいもなく言い放った。


「……お前、いつも薬を持ち歩いてただろ。飲んでから酒を口にすれば、問題ないはずだ」


拒む余地を一切許さないその口調に、

汐里の心は、静かに、深く沈んでいった。


唇から血の気が引いていくのを感じながら、彼女は黙ってバッグに手を伸ばす。

指先の震えを隠しながら錠剤を取り出し、水もなしに喉へ押し込んだ。


そして――そのまま、ワイングラスを一杯、また一杯と口に運ぶ。

胃の底がひっくり返るような吐き気。

アルコールが喉を焼き、頭がぐらぐらと揺れていく。


視界はじわじわとにじみ、足元の感覚さえ曖昧になっていく。

そんなとき――

青山遥の甲高い悲鳴がホールに響き渡った。


「キャーッ! 介人、介人がくれたネックレスが消えたの! さっき私の近くにいたのは……この秘書だけよ!? 絶対、彼女が盗んだんだわ!」


突然の中傷に、アルコールで霞んでいた汐里の意識が一瞬だけ覚醒する。

心拍が跳ね上がり、足元の不安定な感覚が消えた。


「……社長、私ではありません」


汐里の声は震えていたが、目だけは真っすぐだった。

介人は、涙を浮かべる遥と、顔色の悪い汐里とを交互に見つめ、わずかに眉を寄せた。


「……さっきは人も多かった。落としただけかもしれない。まずは――」

「違う! あれは私にとって特別なネックレスなのよ!? それなのに……まだこの女を庇うつもり? もういい、私のことなんてどうでもいいのね!」


遥はわざとらしく肩を震わせ、踵を返して去ろうとする。


その瞬間、介人の目が鋭く光った。

「――彼女の身体を調べろ」


低く冷たいその一言で、空気が凍りついた。

すぐに数人のボディーガードが汐里のもとに駆け寄り、彼女を乱暴に床へ押し倒す。


「やめて……! 放して……!」


汐里は必死に抵抗するが、大人の男たちの腕力に敵うはずもなかった。

シャツのボタンがはじけ飛び、スカートの生地が裂ける音が響く。

露出した肌には赤い爪痕が刻まれ、じわりと血が滲む。


その場にいた誰も、止めなかった。

笑う者すらいた。


「違う……私じゃない……お願い、信じて……!」


泣き叫ぶ汐里の声は、ただ空虚にホールに響くだけだった。

そして――彼らの手が、さらに彼女の下着へとかかろうとした、その時。


「見つかりました!」

階段の方から、スタッフが息を切らして駆け上がってきた。


「ネックレス、階段のところに落ちてました! おそらく……あの混雑の時に……!」


ホール中の視線が、その一言に集中する。

誰もが、息を呑んでその場を見つめていた。


清原介人の険しい表情が、ほんのわずかに緩む。

「……下がれ」


その命令に、ボディーガードたちはようやく汐里の身体から手を放した。


ぐったりと床に横たわる彼女に目もくれず、介人は拾われたネックレスを受け取り、

それをまるで何事もなかったかのように、遥の首元へ丁寧に掛けた。


「……見つかってよかった。もう、怒るな」


その言葉に、遥は花が咲いたような笑顔を浮かべる。


そして――

地面に転がる汐里をちらりと見下ろしながら、

まるで気まぐれな猫のように、介人の腕にしなだれかかった。


「ふふっ……本当によかった。無かったら、私……泣いちゃうところだったわ」


一呼吸おいて、わざとらしく言葉を続ける。

「でもさ……あの秘書さん、ちょっと可哀想だったかも。私、謝ったほうがよかったかな?」


その言葉に、会場の空気が再び動いた。

一斉に向けられる視線。

破れた衣服、あらわになった肌に残る痣と爪痕――

汐里は震える腕で自分の身体をかき抱き、

ただ、じっと耐えていた。


そのとき。

彼女の頭上から、冷たく突き放すような声が落ちてきた。

「……謝らなくていい。彼女はただの秘書だ。少し傷ついたくらいで、何も問題はない」


その瞬間。

汐里の中で、何かが――確かに、音もなく砕けた。


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