たった一言。
それだけの言葉が――夏目汐里の胸を鋭く貫き、心の奥深くを、ずたずたに引き裂いた。
穴だらけで、もう何度も壊れていたはずの心が、今また裂けるように痛んだ。
息ができないほどに、苦しかった。
頭の中では警報のような耳鳴りが鳴り響き、視界の中は、ただ白くて、空っぽだった。
気がつけば、華やかだったホールにはもう誰も残っていなかった。
明るすぎる照明だけが残り、汐里の身体中に刻まれた傷を、容赦なく照らし出していた。
彼女は痛みに震えながら、なんとか身体を起こす。
近くに落ちていたスタッフの上着を拾い、身体に巻きつけると、ふらふらとよろめきながら会場を後にした。
外は――土砂降りだった。
けれど汐里は、まるで何も感じていないように、ただ静かに雨の中へと歩き出した。
冷たい雨が、顔に打ちつけるように降りかかる。
その雫が頬を伝い落ちる感触は――涙のようだった。
けれど、もう彼女の目から、涙は一滴たりともこぼれなかった。
どこへ向かうのか、自分でも分からない。
ただ、夜の街を当てもなく、歩き続けた。
しばらくして、一台の車が静かに彼女の横に停まる。
窓が開き、そこから現れたのは――
清原介人だった。
「乗れ」
その冷たい声が、雨音に混じって聞こえた。
けれど汐里は、まるで聞こえなかったかのように、濡れた足を引きずりながら、前へ進み続けた。
介人は眉をひそめ、少し語気を強める。
「乗れ」
その言葉に、汐里はようやく足を止める。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
――その顔は、血の気がなく、まるで死人のように白かった。
「……お気遣いなく、社長。私は“ただの秘書”ですから」
そのひどく静かな言葉に、清原介人の胸がチクリと痛んだ。
何かがずれてしまったことを悟りながらも、彼は何も言えず、車を降りた。
降りしきる雨の中、迷いなく汐里へと駆け寄り、その手を強く掴む。
「……今夜のことは、俺が悪かった。もっと早く止めるべきだった。……でも、俺は――遥を、もう二度と失いたくないんだ。
君が受けた苦しみは、必ず償う。だから今回のことは――どうか水に流してくれ」
……けれど。
汐里は、もうこれ以上、折れるつもりはなかった。
最後の力を振り絞って彼の手を振りほどくと、一歩、二歩、後ろに下がる。
その声はもう、深く濁った湖のように、感情のないものだった。
「……v社長、ご冗談を。私みたいな凡人が、遥様のような方と張り合えるわけないじゃありませんか。
……私が馬鹿でした。立場もわきまえず、身の程知らずにも、夢なんて見てしまって……。
でももう大丈夫です。これからは“ただの秘書”として、ちゃんと線を引いて生きていきます。あなたの人生にも、遥様の人生にも、二度と関わりません。
……それで、満足ですか? もう私を、放してもらえますか?」
その静かな拒絶が、かえって介人の怒りに火をつけた。
顔を引きつらせ、感情を抑えきれないまま声を荒らげる。
「……違う! そんなつもりじゃなかった! 俺は、お前を軽んじたことなんて一度だってない! あのとき言ったのは……遥を――」
けれど、その先の言葉が何だったのか――
もう、汐里には届いていなかった。
音が遠のき、世界がにじんでいく。
視界がぐらりと揺れ、地面が波打つように感じられる。
頭が異様に重く、まぶたが勝手に閉じていく。
全身の力が抜けていき、
身体がふらりと傾いた――
次の瞬間、意識は闇の中へと落ちていった。
***
どれくらいの時間が経ったのだろう。
目を開けると、そこは白い天井。
――病院だった。
濡れた服は着替えさせられ、全身の傷はきれいに手当てされていた。
ベッドの横には薬と、ぬるい白湯の入ったコップ。
点滴の調整をしていた看護師が、彼女のまぶたの動きに気づき、ふわりと笑みを浮かべた。
「お目覚めですね。……昨日は、あなたの彼氏さんがずっと付き添っておられましたよ。ついさっき、お帰りになったところです」
優しい声が、病室に静かに響く。
けれど――汐里の胸には、何も温かさを残さなかった。
喉の奥が乾ききっていて、声を出すだけで苦しかったが、
彼女はかすれた声をどうにか押し出す。
「……彼は、彼氏じゃありません。最初から、ずっと……」
それは、自分自身に言い聞かせるような呟きだった。
そう。
彼女と清原介人は、出会ったときからずっと――ただの“事故”だったのだ。
「秘書」以外の何者でもなく、一度たりとも、それ以上の関係として認められたことはなかった。
かつては、自分に嘘をついて、夢を見ようとしていた。
でももう、そんな幻想は――音を立てて崩れ去った。
だから、目を覚まさなければいけない。
そして――
ここから永遠に、この場所を離れよう。
二度と、戻らないために。