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第5話

たった一言。

それだけの言葉が――夏目汐里の胸を鋭く貫き、心の奥深くを、ずたずたに引き裂いた。


穴だらけで、もう何度も壊れていたはずの心が、今また裂けるように痛んだ。

息ができないほどに、苦しかった。

頭の中では警報のような耳鳴りが鳴り響き、視界の中は、ただ白くて、空っぽだった。


気がつけば、華やかだったホールにはもう誰も残っていなかった。

明るすぎる照明だけが残り、汐里の身体中に刻まれた傷を、容赦なく照らし出していた。


彼女は痛みに震えながら、なんとか身体を起こす。

近くに落ちていたスタッフの上着を拾い、身体に巻きつけると、ふらふらとよろめきながら会場を後にした。


外は――土砂降りだった。

けれど汐里は、まるで何も感じていないように、ただ静かに雨の中へと歩き出した。


冷たい雨が、顔に打ちつけるように降りかかる。

その雫が頬を伝い落ちる感触は――涙のようだった。


けれど、もう彼女の目から、涙は一滴たりともこぼれなかった。


どこへ向かうのか、自分でも分からない。

ただ、夜の街を当てもなく、歩き続けた。


しばらくして、一台の車が静かに彼女の横に停まる。


窓が開き、そこから現れたのは――

清原介人だった。


「乗れ」


その冷たい声が、雨音に混じって聞こえた。


けれど汐里は、まるで聞こえなかったかのように、濡れた足を引きずりながら、前へ進み続けた。


介人は眉をひそめ、少し語気を強める。

「乗れ」


その言葉に、汐里はようやく足を止める。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

――その顔は、血の気がなく、まるで死人のように白かった。


「……お気遣いなく、社長。私は“ただの秘書”ですから」


そのひどく静かな言葉に、清原介人の胸がチクリと痛んだ。

何かがずれてしまったことを悟りながらも、彼は何も言えず、車を降りた。

降りしきる雨の中、迷いなく汐里へと駆け寄り、その手を強く掴む。


「……今夜のことは、俺が悪かった。もっと早く止めるべきだった。……でも、俺は――遥を、もう二度と失いたくないんだ。

君が受けた苦しみは、必ず償う。だから今回のことは――どうか水に流してくれ」


……けれど。

汐里は、もうこれ以上、折れるつもりはなかった。


最後の力を振り絞って彼の手を振りほどくと、一歩、二歩、後ろに下がる。


その声はもう、深く濁った湖のように、感情のないものだった。

「……v社長、ご冗談を。私みたいな凡人が、遥様のような方と張り合えるわけないじゃありませんか。

……私が馬鹿でした。立場もわきまえず、身の程知らずにも、夢なんて見てしまって……。

でももう大丈夫です。これからは“ただの秘書”として、ちゃんと線を引いて生きていきます。あなたの人生にも、遥様の人生にも、二度と関わりません。

……それで、満足ですか? もう私を、放してもらえますか?」


その静かな拒絶が、かえって介人の怒りに火をつけた。

顔を引きつらせ、感情を抑えきれないまま声を荒らげる。

「……違う! そんなつもりじゃなかった! 俺は、お前を軽んじたことなんて一度だってない! あのとき言ったのは……遥を――」

けれど、その先の言葉が何だったのか――

もう、汐里には届いていなかった。

音が遠のき、世界がにじんでいく。

視界がぐらりと揺れ、地面が波打つように感じられる。

頭が異様に重く、まぶたが勝手に閉じていく。


全身の力が抜けていき、

身体がふらりと傾いた――

次の瞬間、意識は闇の中へと落ちていった。


***


どれくらいの時間が経ったのだろう。

目を開けると、そこは白い天井。


――病院だった。


濡れた服は着替えさせられ、全身の傷はきれいに手当てされていた。

ベッドの横には薬と、ぬるい白湯の入ったコップ。


点滴の調整をしていた看護師が、彼女のまぶたの動きに気づき、ふわりと笑みを浮かべた。

「お目覚めですね。……昨日は、あなたの彼氏さんがずっと付き添っておられましたよ。ついさっき、お帰りになったところです」


優しい声が、病室に静かに響く。

けれど――汐里の胸には、何も温かさを残さなかった。


喉の奥が乾ききっていて、声を出すだけで苦しかったが、

彼女はかすれた声をどうにか押し出す。


「……彼は、彼氏じゃありません。最初から、ずっと……」


それは、自分自身に言い聞かせるような呟きだった。


そう。

彼女と清原介人は、出会ったときからずっと――ただの“事故”だったのだ。

「秘書」以外の何者でもなく、一度たりとも、それ以上の関係として認められたことはなかった。


かつては、自分に嘘をついて、夢を見ようとしていた。

でももう、そんな幻想は――音を立てて崩れ去った。


だから、目を覚まさなければいけない。


そして――

ここから永遠に、この場所を離れよう。

二度と、戻らないために。


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