「……遥を先に病院へ運べ! 遥に何かあったら……彼女さえ無事なら、それでいい! 他のすべてなんて……どうでもいいんだ!!」
それは、清原介人の怒鳴り声。
焦燥と恐怖に満ちた、歪んだ愛の叫び。
その声が、夏目汐里の沈みゆく意識の中で――最後に届いた音だった。
彼の言葉が何よりも強く響いて、何よりも深く、彼女を突き放した。
世界が、ゆっくりと黒に染まっていく。
光は失われ、音も消えて、
ただ、深く、深く……静かな闇の底へ――
汐里は、音もなく落ちていった。
***
……夢を見ていた気がした。
とても長く、苦しい夢だった。
うなされるように目を覚ましたとき――
最初に見えたのは、目を赤くした清原寧々の顔だった。
「汐里……! やっと目を覚ましたのね……!私ちょうど帰国したばかりだったの。
そしたら汐里が事故に遭ったって聞いて……もう、心臓止まるかと思ったんだから!」
そう言って、寧々は彼女の手をぎゅっと握った。
その姿を見た瞬間、汐里の胸の奥に溜めていた苦しさが、一気にあふれ出した。
彼女は目に涙を浮かべ、そのまま寧々の胸に飛び込んだ。
「……ごめんね。心配かけて……」
「いいのよ…無事なら、それで……」
二人はしばらく、言葉もなく抱き合っていた。
やがて、寧々はコップに水を汲んでそっと口元に運び、「無理しないで」と優しく微笑んだ。
医者に「気を紛らわせるような会話を」と言われていたのを思い出し、寧々は少しだけ声のトーンを上げ、明るく話題を変えた。
「……でさ、この数年、日本での生活はどうだった? お兄ちゃんにいじめられてない?
あとさ、前に“彼氏できた”って言ってたよね? いつ紹介してくれるの?
私、ちゃんとチェックするから。ダメ男だったら即・却下ね。覚悟しといて!」
その言葉に、汐里の表情がわずかに固まった。
「……社長は、仕事ではとても公正です。いじめられたことは、ありません。
彼氏は……もう、別れました」
予想外の答えに、寧々は一瞬言葉を詰まらせた。
けれどすぐに、元気よく励ますように声を上げた。
「そっか……でも、いいのいいの! 次、行こ、次!私、イケメンの知り合いならいっぱいいるよ? 全員紹介してあげるから!」
そのとき、病室のドアが音を立てて開いた。
清原介人が、険しい表情のまま入ってくる。
「紹介?ダメだ、ダメ。お前の知り合いなんて、ろくなのいない」
即座に否定されて、寧々はムッとした顔を見せる。
「何それ!? ひどい! 確かに花より団子な子は多いけど、ちゃんと真面目に付き合ってるし、全員が遊び人ってわけじゃないし!
だいたいお兄ちゃんこそ、重すぎるのよ。初恋の人にずっと執着して、他が見えないなんて――そんな人、今どきあんまりいないから!
どうせ遥さんしか目に入ってないんでしょ?
てか私の親友に彼氏を紹介しようってだけなのに、なんでお兄ちゃんがそこまで口出すわけ?」
寧々の言葉に、介人の顔に明らかな怒気が走る。
「俺がダメだと言ったら、ダメだ。
恋愛っていうのは無理やりどうこうするもんじゃない。……縁がなければ、無理に繋がっても仕方ない」
――縁が、なければ。
無理に結びつけても、意味がない。
その言葉が、胸に深く沈んでいく。
汐里は静かに、薄く微笑んだ。
彼女は、ようやく理解したの。
この四年間、必死に求めていた“縁”は、最初からどこにもなかったことに。
「……寧々ちゃんは、ただ冗談言ってるだけですよ」
そう言って、彼女はそっと寧々の手を握り返し、介人をまっすぐに見つめる。
「社長。わざわざいらしたのには、何かご用件が?」
彼女の平然とした態度に、介人はわずかに肩の力を抜いた。
そして、口を開きかけて――やめた。
「……いや。寧々が心配して病院まで来たから、迎えに来ただけだ。ちょうどだったから、お前の様子も、ついでに見ておこうかと思って」
「はいはい、もうわかったってば!夜にはちゃんと帰るから、先に帰ってて!」
寧々が彼を急かすように言い、強引に追い出した。
再び二人きりになると、寧々はぽつりとつぶやいた。
「……お兄ちゃん、ほんとに言葉足らずなんだよね。ああ見えて、けっこう優しいところあるのに……。
昨日ね……お医者さんが言ってたの。
“この子の血液型が特殊で、手持ちじゃ足りません”って言われたとき――お兄ちゃん、夜通しで街中の病院と献血センターに連絡して……たった一晩で必要な分、全部集めたんだって。……それで、ようやく助かったって」