その言葉に、夏目汐里は一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐに思考が冷静に戻る。
――彼が血を集めたのは、私を死なせたくなかったから。
でも、私と遥のどちらかが死ななければならないなら、迷わず選ばれるのは私。
そう――もう、幻想なんて抱かない。
***
入院していた最後の数日間、汐里は病室で静かに過ごしていた。
ナースたちは日々病室を回りながら、たびたび上階のVIPフロアの噂を口にする。
「ねぇ、聞いた? 清原グループの社長、病院の上のフロアをまるごと借り切ったんだって!しかもさ、海外にいたあの有名な教授たちまで呼び戻して、恋人のケアにあたらせてるらしいよ……!」
「この前なんて、清原社長本人が自分でお茶運んでたって! しかも夜通し付き添ってたとか! プレゼントも、ジュエリーも、花も、毎日どっさり! もはや“溺愛”じゃ足りないよね。恋人じゃなくて、ほんとのお姫様扱いって感じ!」
そんな会話を聞きながら、汐里はそっと胸に手を当てた。
……そこには、もう何の痛みもなかった。
少しだけ、鼓動が鈍く感じる程度。
――心の傷も、そろそろ癒えてきたのかもしれない。
***
退院の日、本当は寧々が迎えに来る予定だったけれど、急な用事で来られなくなった。
「大丈夫、一人で平気だよ」
そう彼女に伝えて、汐里は一人で病院を後にし、会社へと戻った。
今日は、最後の出勤日。
彼女は淡々と退職手続きを終え、箱に私物を詰めて帰ろうとした――そのとき。
エレベーター前で、青山遥と鉢合わせした。
手にしていたコーヒーを、彼女はわざとぶつけてきた。
「ちょっと、どこ見て歩いてるのよ!? せっかくのスカートが台無しじゃない……!……また、あなた? 本当、毎回毎回……わざとやってるんじゃないの?」
自作自演の芝居のあと、遥はボディーガードに連絡し、
「この子、清原家の顔に泥を塗ったのよ。玄関先で土下座させなさい」と命じた。
汐里は断固として拒んだが、青山遥はさらに苛立ちを募らせ、手に残っていたコーヒーを汐里の顔めがけて浴びせかけた。
「なによ、その目。……文句でもあるわけ?でも覚えておきなさい。介人の心にいるのは、私だけ。
私が何をしようとも平気。……あなたみたいな秘書なんて、処分するのなんて朝飯前よ?」
満面の勝ち誇った笑みを浮かべ、ヒールを鳴らして去っていく青山遥。
残された汐里は、スタッフに両腕を掴まれたまま無理やりロビーへ連れて行かれ――
その場に膝をつかされた。
彼女は必死に抵抗しようとしたが、力では敵うはずもない。
せめて言葉で訴えようとする。
「……もう私は退職済みです。清原介人の秘書でも何でもありません。なのに、どうして罰を受けなきゃいけないんですか?」
だが、返ってきたのは冷淡な声だった。
「社長のご命令です。『青山様の言うことはすべて自分の意志と同じ』と。
どんな指示であっても従うように、とのことでした。……夏目さん、不満があるなら社長ご本人に言ってください」
その一言で、汐里の反論は封じられた。
どれだけ言葉を尽くしても、この人たちは聞く耳を持たない。
汐里は、もう抗うのをやめた。
ビルの出入り口――人通りの多いその場所で、彼女は膝をついたまま、じっと耐えた。
周囲を通りかかる同僚や通行人たちは、驚き、戸惑い、そして興味本位でこそこそと話し合う。
中には、スマホで写真を撮る者もいた。
真冬の冷たい風が吹きすさぶ中、彼女は七時間、地面に膝をついていた。
膝は破れ、肌は血が滲み、顔は寒さで紫色に変わっていた。
全身が震え、歯の根も合わない。
それでも――意地だけで立ち上がらなかった。
そして、夕方。
意識が朦朧としはじめた頃、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
「汐里っ!」
ふらふらと顔を上げると、駆け寄ってくる清原寧々の姿が目に入った。
「なにしてるの!? 退院したばっかりなのに、なんで……こんなところで……誰が、誰がこんなこと……!」
寧々は慌てて彼女に駆け寄り、膝をついてその体を支えた。
喉が乾ききり、声も出ない状態で、汐里はかすれる声を絞り出した。
「…青山、遥……」