その名を聞いた瞬間、清原寧々の胸に怒りが込み上げた。
彼女はふらつく夏目汐里を支えながら、そのまま兄の清原介人のオフィスへと怒鳴り込んだ。
「……青山遥、いい加減にしろっ!!」
扉を勢いよく開けて入ってくるなり、寧々は怒りに満ちた声を上げた。
「汐里はあんたに何もしてない! なのに、どうしてあんな罰を受けさせるわけ?
あんたは私の兄の彼女かもしれないけど、汐里は彼の秘書よ! あんたが指示できる立場じゃないってこと、分かってる!?」
部屋の奥にいた介人は、汐里の顔色を見て眉をひそめた。
だが、何かを言いかけた瞬間――青山遥がさっと駆け寄り、その胸に身を預けた。
「介人……私、なにもしてないのよ。夏目さんと私の間には、何の因縁もないし……なのに、どうしてか分からないけど、あの人は私をこんなふうに責めて……
わたし……何か、気に障ることでも言ったかしら……」
しおらしく涙声で訴える遥。
その姿に、寧々は怒りを抑えきれなかった。
「いい加減にしなさいよッ!」
彼女は青山遥の目の前まで詰め寄ると、思い切り頬を張った。
「汐里は嘘なんてつかない!」
遥は人生で初めて、誰かに頬を打たれた。
衝撃に顔を押さえ、そのまましゃくり上げて泣き出した。
「介人……ひどい……。あんなふうに私を貶めるなんて……あなたの妹まで一緒になって私をいじめるなんて……
もういいわ、分かった。私たち、別れましょう」
その一言に、介人の表情がぐらりと揺れる。
そして――
「寧々、いい加減にしろッ!!」
怒鳴りながら立ち上がると、彼は自分の妹の頬を打った。
「遥は家族になる人なんだぞ!」
信じられない、と言いたげに顔を押さえたまま、寧々は呆然と兄を見つめた。
介人の視線は次に、夏目汐里へと向けられる。
その目は、冷たかった。
「……遥に何の恨みがある?勝手な思い込みで人を責めるような真似、もう二度とするな。次あったら――お前を秘書として置いておくことはできない」
静かに、しかし突き放すような口調で告げられた言葉に、汐里の心が深く凍りつく。
そして寧々は、顔を押さえたまま、まるで目の前の兄が別人に見えるような目で、立ち尽くしていた――。
汐里は、彼女を巻き込んでしまったことを深く後悔した。
彼女の手を取り、その場から無理やり連れ出した。
それでも清原寧々の心には、まだ怒りが燻っていた。
「やっぱ納得いかない。もう一度言ってやる……!」
そう食ってかかろうとする彼女を、汐里は必死でなだめる。
そして、ついに打ち明けたのだった。
「……もう退職届は出したの。ここを……離れるつもりなの」
その言葉に、寧々は一瞬絶句し、信じられないように首を振った。
「……うそ、な…なんで……」
喉が詰まるような声で、そうつぶやいた彼女の瞳には、すでに涙がにじんでいた。
「寧々ちゃん……出会いには、別れがつきものです」
優しく背をさすられながら、寧々は声をあげて泣き出した。
「やだ……やだよ、汐里……行かないで……」
――その日が、東京で過ごす彼女たちの最後の夜になった。
ふたりは静かに食事を取り、思い出話に花を咲かせた。
夜が更けても帰ろうとしない寧々は、汐里の狭いアパートで一緒に夜を明かした。
「帰ってからも、毎日連絡するね。もし、いい人と出会ったら、一番に寧々ちゃんに知らせますから」
そんな言葉を交わしながら、ふたりは過去のこと、今のこと、そして未来の夢まで――
夜が明けるまで、語り続けた。
そして迎えた出発の日。
寧々は空港まで見送りに来た。
名残惜しさが募る中、清原介人からのメッセージが彼女のスマホに届く。
――『寧々、今どこ?
』
昨夜の一件をまだ許せない寧々は、電話をかけて怒鳴りつけようとした。
だが、その手を汐里がそっと押さえた。
「もう、いいの。寧々ちゃん……
過ぎたことは、全部過去にしよう。これからは、もう私のことで遥さんと争わないでください。あなたの兄は、本当に彼女を愛しています。
きっとこれから、彼女はあなたのお義姉さんになる…。どうか、仲良くしてあげて」
その言葉に、また寧々の瞳が真っ赤になる。
「……やっぱり、行かないでよ……汐里……」
搭乗アナウンスが流れた。別れのときが来た。
ふたりは最後のハグを交わし、手を振って別れた。
汐里は振り返ることなく、ゲートの向こうへと歩いていった。
そして――
搭乗口の前で、清原介人に最後のメッセージを送った。
『八年の片想い、四年の過ち。すべて、ここで終わりにします。
社長――私はもう、あなたの秘書ではありません。
そして、あなたのことも、もう好きではありません。
私たちは、それぞれの人生を歩いていきましょう。
もう二度と、交わらないように』
送信ボタンを押した後、彼女は返信を待たず、すべての連絡先をブロックし、もう一度も振り返らずに――飛行機へと乗り込んだ。