目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話

その名を聞いた瞬間、清原寧々の胸に怒りが込み上げた。


彼女はふらつく夏目汐里を支えながら、そのまま兄の清原介人のオフィスへと怒鳴り込んだ。


「……青山遥、いい加減にしろっ!!」


扉を勢いよく開けて入ってくるなり、寧々は怒りに満ちた声を上げた。

「汐里はあんたに何もしてない! なのに、どうしてあんな罰を受けさせるわけ?

あんたは私の兄の彼女かもしれないけど、汐里は彼の秘書よ! あんたが指示できる立場じゃないってこと、分かってる!?」


部屋の奥にいた介人は、汐里の顔色を見て眉をひそめた。

だが、何かを言いかけた瞬間――青山遥がさっと駆け寄り、その胸に身を預けた。


「介人……私、なにもしてないのよ。夏目さんと私の間には、何の因縁もないし……なのに、どうしてか分からないけど、あの人は私をこんなふうに責めて……

わたし……何か、気に障ることでも言ったかしら……」


しおらしく涙声で訴える遥。

その姿に、寧々は怒りを抑えきれなかった。


「いい加減にしなさいよッ!」


彼女は青山遥の目の前まで詰め寄ると、思い切り頬を張った。

「汐里は嘘なんてつかない!」


遥は人生で初めて、誰かに頬を打たれた。

衝撃に顔を押さえ、そのまましゃくり上げて泣き出した。


「介人……ひどい……。あんなふうに私を貶めるなんて……あなたの妹まで一緒になって私をいじめるなんて……

もういいわ、分かった。私たち、別れましょう」


その一言に、介人の表情がぐらりと揺れる。


そして――

「寧々、いい加減にしろッ!!」

怒鳴りながら立ち上がると、彼は自分の妹の頬を打った。


「遥は家族になる人なんだぞ!」


信じられない、と言いたげに顔を押さえたまま、寧々は呆然と兄を見つめた。

介人の視線は次に、夏目汐里へと向けられる。


その目は、冷たかった。

「……遥に何の恨みがある?勝手な思い込みで人を責めるような真似、もう二度とするな。次あったら――お前を秘書として置いておくことはできない」


静かに、しかし突き放すような口調で告げられた言葉に、汐里の心が深く凍りつく。

そして寧々は、顔を押さえたまま、まるで目の前の兄が別人に見えるような目で、立ち尽くしていた――。

汐里は、彼女を巻き込んでしまったことを深く後悔した。


彼女の手を取り、その場から無理やり連れ出した。

それでも清原寧々の心には、まだ怒りが燻っていた。

「やっぱ納得いかない。もう一度言ってやる……!」


そう食ってかかろうとする彼女を、汐里は必死でなだめる。

そして、ついに打ち明けたのだった。


「……もう退職届は出したの。ここを……離れるつもりなの」


その言葉に、寧々は一瞬絶句し、信じられないように首を振った。

「……うそ、な…なんで……」


喉が詰まるような声で、そうつぶやいた彼女の瞳には、すでに涙がにじんでいた。


「寧々ちゃん……出会いには、別れがつきものです」


優しく背をさすられながら、寧々は声をあげて泣き出した。

「やだ……やだよ、汐里……行かないで……」


――その日が、東京で過ごす彼女たちの最後の夜になった。


ふたりは静かに食事を取り、思い出話に花を咲かせた。

夜が更けても帰ろうとしない寧々は、汐里の狭いアパートで一緒に夜を明かした。


「帰ってからも、毎日連絡するね。もし、いい人と出会ったら、一番に寧々ちゃんに知らせますから」


そんな言葉を交わしながら、ふたりは過去のこと、今のこと、そして未来の夢まで――

夜が明けるまで、語り続けた。


そして迎えた出発の日。

寧々は空港まで見送りに来た。


名残惜しさが募る中、清原介人からのメッセージが彼女のスマホに届く。

――『寧々、今どこ?

昨夜の一件をまだ許せない寧々は、電話をかけて怒鳴りつけようとした。

だが、その手を汐里がそっと押さえた。


「もう、いいの。寧々ちゃん……

過ぎたことは、全部過去にしよう。これからは、もう私のことで遥さんと争わないでください。あなたの兄は、本当に彼女を愛しています。

きっとこれから、彼女はあなたのお義姉さんになる…。どうか、仲良くしてあげて」


その言葉に、また寧々の瞳が真っ赤になる。

「……やっぱり、行かないでよ……汐里……」


搭乗アナウンスが流れた。別れのときが来た。


ふたりは最後のハグを交わし、手を振って別れた。

汐里は振り返ることなく、ゲートの向こうへと歩いていった。


そして――

搭乗口の前で、清原介人に最後のメッセージを送った。


『八年の片想い、四年の過ち。すべて、ここで終わりにします。

社長――私はもう、あなたの秘書ではありません。

そして、あなたのことも、もう好きではありません。

私たちは、それぞれの人生を歩いていきましょう。

もう二度と、交わらないように』


送信ボタンを押した後、彼女は返信を待たず、すべての連絡先をブロックし、もう一度も振り返らずに――飛行機へと乗り込んだ。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?