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第23話


一年後――

清原寧々のもとに、夏目汐里から一通のメッセージが届いた。

『寧々ちゃん、私、結婚するの!ブライズメイドになってくれる?』


思わず小さく悲鳴を上げて、寧々はその場でスマホをぎゅっと抱きしめた。

仕事も手につかず、彼女はすぐにチケットを手配し、旅支度を始める。


そして当然、その話は兄の清原介人の耳にも届いた。

書類を捲る手がふと止まり、彼は目を伏せたまま、何気ないふうを装ってつぶやく。


「……もう、結婚するんだな」


この一年、彼は妹の口から時折、夏目汐里の近況を聞いていた。


新しい恋人ができて、とても大切にされていると――

だが、まさかもう結婚とは。


心の中に渦巻く感情が、言葉にはならなかった。

視界がにじみ、手元の文字がぼやけていく。


そのとき、寧々のスマホからスピーカー越しに、柔らかな声が聞こえた。

「うん、そろそろかなって思って。やっと出会えた人だから、待ちたくなかったの」


それは、紛れもなく――夏目汐里の声だった。


穏やかで、幸せそうな笑いを含んだ、満ち足りた声。

寧々は電話口で笑いながら荷造りを続けていた。


「そっかー、でもさ、結婚したらしばらく向こうに住むの? 

ほんと、薄情者なんだから! たまには私にも会いに来てよね~!」


冗談めかしながらも、嬉しそうにスーツケースを閉じる。

「じゃあ、行ってくるね、お兄ちゃん!」


寧々が軽く手を振りながら出ていく後ろ姿を、介人は何も言わずに見送った。

そして、妹の姿が完全に見えなくなり、スマホからももう彼女の声が届かなくなった頃――

ようやく手からペンを落とし、額に手をあてた。


涙が静かに頬をつたう。


こんなにも苦しいなんて、知らなかった。

愛した人が、他の誰かと結婚するという現実。

それは、彼の胸をえぐるような痛みをもたらした。

抑えても抑えてもこみ上げる嗚咽。


彼は静かに肩を震わせ、机の前で声を殺して泣いた。


――そして、また一年が経った。


今度は、妹・清原寧々の結婚式。

約束どおり、夏目汐里は日本に帰国し、寧々のブライズメイドを務めてくれた。


久しぶりに見る彼女の姿に、清原介人の心は大きく波立つ。

妹の手を男へと渡すその瞬間ですら、彼の視線は彼女から離せなかった。


淡い色のドレスに身を包んだ汐里は、控えめながらも美しく、あの頃よりもずっと柔らかな輝きを放っていた。


式が終わり、寧々と共に各テーブルを回っていたとき――

ついに彼女のもとへ。


「汐里、ひさしぶり!」


笑顔で声をかける寧々。

介人も、努めて穏やかに頷いた。


「……久しぶりだね、汐里」


差し出されたグラスが、汐里のと軽く触れ合う。

その小さな音が、彼の胸に深く響いた。


「……君は変わったね。元気そうで……幸せそうで……」


そう言いたかった。

けれど、それを飲み込んだ瞬間――

隣から、ひとりの男が歩み寄ってきた。


汐里の腰を自然に抱き寄せ、そのまま彼女の杯を取って代わりに口を開く。


「すみません、汐里は今妊娠中なので、代わりに僕が」

その言葉に、汐里の頬がほんのり赤くなる。

驚いたのは寧々の方だ。


「えっ!? 妊娠してたの!? なんで言ってくれなかったの~!」


照れたように笑いながら、汐里は申し訳なさそうに答える。


「まだ一ヶ月だから……もう少し落ち着いてから言おうと思ってて」

「もう~、そんなのダメでしょ! 

よし、私が名付け親になるからね!」


寧々ははしゃぎながら、そっと汐里のお腹に手を添えた。

その様子を、優しく見つめる夫。

汐里は少し困ったような、それでも幸せそうな笑みを浮かべていた。

三人の中に、清原介人の居場所はなかった。


――これが、“最良の終わり”なのかもしれない。

まるで他人のように、遠くから見守るだけ。


彼女の柔らかな微笑み。

愛する人の隣で見せる、しあわせそうな姿。


そのすべてが、彼の心を締めつけた。

そっとグラスを持ち上げ、彼は低く囁く。


「……おめでとう。ようやく、本当の幸せを見つけたんだね」


そう言って酒を飲み干したその瞬間、

口の中を駆け抜けたのは、鋭いほどの苦さと熱さだった。


彼は静かにその場を離れ、振り返らなかった。

――風が吹いた。


ふと顔を上げた汐里が、その方向を見ると、

さっきまでいたはずの彼の姿はもうなかった。


一瞬だけ、胸に何かが過ったが、

すぐに首を振って、隣にいる“今、最も大切な人”へと目を向けた。


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