一年後――
清原寧々のもとに、夏目汐里から一通のメッセージが届いた。
『寧々ちゃん、私、結婚するの!ブライズメイドになってくれる?』
思わず小さく悲鳴を上げて、寧々はその場でスマホをぎゅっと抱きしめた。
仕事も手につかず、彼女はすぐにチケットを手配し、旅支度を始める。
そして当然、その話は兄の清原介人の耳にも届いた。
書類を捲る手がふと止まり、彼は目を伏せたまま、何気ないふうを装ってつぶやく。
「……もう、結婚するんだな」
この一年、彼は妹の口から時折、夏目汐里の近況を聞いていた。
新しい恋人ができて、とても大切にされていると――
だが、まさかもう結婚とは。
心の中に渦巻く感情が、言葉にはならなかった。
視界がにじみ、手元の文字がぼやけていく。
そのとき、寧々のスマホからスピーカー越しに、柔らかな声が聞こえた。
「うん、そろそろかなって思って。やっと出会えた人だから、待ちたくなかったの」
それは、紛れもなく――夏目汐里の声だった。
穏やかで、幸せそうな笑いを含んだ、満ち足りた声。
寧々は電話口で笑いながら荷造りを続けていた。
「そっかー、でもさ、結婚したらしばらく向こうに住むの?
ほんと、薄情者なんだから! たまには私にも会いに来てよね~!」
冗談めかしながらも、嬉しそうにスーツケースを閉じる。
「じゃあ、行ってくるね、お兄ちゃん!」
寧々が軽く手を振りながら出ていく後ろ姿を、介人は何も言わずに見送った。
そして、妹の姿が完全に見えなくなり、スマホからももう彼女の声が届かなくなった頃――
ようやく手からペンを落とし、額に手をあてた。
涙が静かに頬をつたう。
こんなにも苦しいなんて、知らなかった。
愛した人が、他の誰かと結婚するという現実。
それは、彼の胸をえぐるような痛みをもたらした。
抑えても抑えてもこみ上げる嗚咽。
彼は静かに肩を震わせ、机の前で声を殺して泣いた。
――そして、また一年が経った。
今度は、妹・清原寧々の結婚式。
約束どおり、夏目汐里は日本に帰国し、寧々のブライズメイドを務めてくれた。
久しぶりに見る彼女の姿に、清原介人の心は大きく波立つ。
妹の手を男へと渡すその瞬間ですら、彼の視線は彼女から離せなかった。
淡い色のドレスに身を包んだ汐里は、控えめながらも美しく、あの頃よりもずっと柔らかな輝きを放っていた。
式が終わり、寧々と共に各テーブルを回っていたとき――
ついに彼女のもとへ。
「汐里、ひさしぶり!」
笑顔で声をかける寧々。
介人も、努めて穏やかに頷いた。
「……久しぶりだね、汐里」
差し出されたグラスが、汐里のと軽く触れ合う。
その小さな音が、彼の胸に深く響いた。
「……君は変わったね。元気そうで……幸せそうで……」
そう言いたかった。
けれど、それを飲み込んだ瞬間――
隣から、ひとりの男が歩み寄ってきた。
汐里の腰を自然に抱き寄せ、そのまま彼女の杯を取って代わりに口を開く。
「すみません、汐里は今妊娠中なので、代わりに僕が」
その言葉に、汐里の頬がほんのり赤くなる。
驚いたのは寧々の方だ。
「えっ!? 妊娠してたの!? なんで言ってくれなかったの~!」
照れたように笑いながら、汐里は申し訳なさそうに答える。
「まだ一ヶ月だから……もう少し落ち着いてから言おうと思ってて」
「もう~、そんなのダメでしょ!
よし、私が名付け親になるからね!」
寧々ははしゃぎながら、そっと汐里のお腹に手を添えた。
その様子を、優しく見つめる夫。
汐里は少し困ったような、それでも幸せそうな笑みを浮かべていた。
三人の中に、清原介人の居場所はなかった。
――これが、“最良の終わり”なのかもしれない。
まるで他人のように、遠くから見守るだけ。
彼女の柔らかな微笑み。
愛する人の隣で見せる、しあわせそうな姿。
そのすべてが、彼の心を締めつけた。
そっとグラスを持ち上げ、彼は低く囁く。
「……おめでとう。ようやく、本当の幸せを見つけたんだね」
そう言って酒を飲み干したその瞬間、
口の中を駆け抜けたのは、鋭いほどの苦さと熱さだった。
彼は静かにその場を離れ、振り返らなかった。
――風が吹いた。
ふと顔を上げた汐里が、その方向を見ると、
さっきまでいたはずの彼の姿はもうなかった。
一瞬だけ、胸に何かが過ったが、
すぐに首を振って、隣にいる“今、最も大切な人”へと目を向けた。