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第一話

                          第一話  冬の嵐は過ぎ去り

 太子となってからの彼はだ。自由を忘れてしまった。

 朝から晩まで授業が行われる。ローゼの教育は厳格だった。

「歴代の教育は厳格にしても」

「それでもな」

「あれはかなり」

「厳しいな」

「全くだ」

 周りの者も驚くまでの厳しさだった。そしてだった。 

 王は多忙であり我が子を省みることが少なかった。王としての務めを果たすことに忙しかったのだ。それでそれを聞いてもこう言うだけだった。

「それでよいのだ」

「よいのですね」

「あれで」

「オットー様も同じく受けていますが」

「あの厳しい教育を」

「厳しければ厳しい程いいのだ」

 そうだというのである。これが王の言葉だった。

「余もそうだったではないか」

「それはその通りです」

「ですがあれはかなり」

「厳し過ぎるのですが」

「かなり」

 これが周りの者達の言葉だった。彼等にしてみればローゼの教育はあまりにも厳し過ぎた。それで今王に対して意見をするのだった。

 しかしだ。王はそれを聞き入れない。そしてだった。

「ローゼにはこう伝えておいてくれ」

「何とですか」

「それで一体」

「より厳しくしてもよいとな」

 こう告げるのだった。

「厳しければ厳しいだけだ」

「朝から晩までなのですね」

「これまで以上にですか」

「それは」

「そうだ、そうしてもよい」

 また話す王だった。

「それがルートヴィヒを正しき王にするのだからな」

「だといいのですが」

「それでは」

 彼等は幾分か懐疑的な顔であった。あまりにも厳しいと思ったからだ。

 だがローゼの厳格な教育は変わらない。それを続けるのだった。

 そのうえで友人達にこう話すのだった。

「ルートヴィヒ様だが」

「今家庭教師をしていたな」

「殿下の」

「そうだ、そうしている」

 また話す彼だった。

「非常に優れた方だ」

「そうなのか」

「それではやりがいがあるな」

「いいことではないか」

「それ自体はな」

 ここで彼の言葉に苦いものが加わった。

「いいことだ。お人柄もいい」

「では言うことはないな」

「いい王になられる」

「そうなるな」

「いや、それがだ」

 ローゼはまた苦いものが加わった声で話した。

「どうも。御自身の興味があるものばかり学ばれ」

「そうなのか」

「興味のあることだけをか」

「それだけを学ばれるのか」

「そうだ。それに」

 さらに話す彼だった。

「どうも夢見がちなご気性のようだ」

「想像が好きか」

「そうなのか」

「そうだ。神話や聖書がお好きだ」

「それはいいではないか」

「うむ、いいことだ」

 神話や聖書は教養として欠かせないものだった。それで友人達も話を聞いてそれはいいとした。しかしここで、なのだった。

 ローゼはだ。難しい顔で話すのだった。今度はその顔だった。

「だがな」

「だが、か」

「そこでも言うのだな」

「どうもそれが過ぎるのだ」

「度がか」

「そうなのか」

「そうだ。どうもな」

 難しい顔で話す。

「それがよからぬ方に向かわなければいいのだが」

「しかしお人柄はいいのだろう?」

「それは」

「素直ではある」

 それはあるというのだ。

「そして一途で真面目な方だ」

「ではいいではないか」

「それではだ」

「充分ではないか」

「充分な枠で収まっていればいいのだが」

 ローゼは不安といった面持ちで首を捻って述べる。

「本当にな」

「大丈夫、とはな」

「少し言えないか」

 友人達もここでこう言うのだった。

「ヴィテルスバッハ家の方はな」

「こう言っては何だがな」

 彼等も知っていた。だからこその言葉だった。

 ヴィテルスバッハ家、そして一族のことをだ。だから言うのであった。

「先王陛下もな」

「御心はよいのだが」

「それでもな」

 こうそれぞれ言うのであった。

「ローラ=モンテスのことはだ」

「魔がさしたとは言えないな」

「むしろ。そうした下地があったからこそ」

「ああなってしまったか」

「そう言えるか」

「それにだ」

 ここでもう一人の名前が出るのだった。

「エリザベート様だが」

「あの方もな」

「何か浮世離れしているところがある」

「あれだけの美しさを持ちながら」

 太子の従姉である。その美しさはバイエルンにおいてよく知られている。ヴィテルスバッハ家の中でも際立った微動の持ち主なのだ。

 しかしなのだった。そのエリザベートもだったのだ。

「この世の摂理に何処か馴染まれていないな」

「そこが心配だな」

「そしてか」

「太子もか」

「そうなのだ。御心は確かにいい」

 これはローゼも認めるにやぶさかではなかった。

「邪なものは一切ない方だ」

「だがそれでいいというものではない」

「そういうことだな」

「つまりは」

「そうだ。その浮世離れしたところがだ」

 彼も言うのだった。このことをだ。

「それが殿下にとってよからぬことにならなければいいが」

「そうだな。しかしだ」

「君は殿下を大切に思っているのだな」

「それは事実だな」

「素晴しい資質を持っておられる」

 彼は太子が好きだった。教師として愛情も持っていた。心配をしているがそれも愛情あってのことだ。それも間違いのないことだ。

 しかしなのだった。だからこそだ。彼は太子のことが気になって仕方ないのだ。

 それでだ。彼はさらに言うのだった。

「だが。繊細だ」

「浮世離れしているところがあるうえにか」

「その御心がか」

「すぐに傷つかれる。感受性も強い」

 太子のこの性質もわかっていたのだ。

「それがいい方向に向けばいいのだが」

「ではそれではだ」

「軍人としての教育を続ければどうだ」

「それはどうだ」

「それはもうしている」

 既にしているというのであった。

「やはりな。一国の王となられる方だ」

「軍を率いる存在だからな」

「やはりな」

「だからだ」

 このこともわかっている王だった。はっきりとだ。王はそのまま軍の最高司令官となる。国家元首がそうなのはどの国でも同じなのだ。

「それでだ」

「そしてその御心を強くされるのだ」

「いいな」

「それでだ」

 こう話してだった。ローゼは考える顔になった。

 そのうえでだ。こうも話すのだった。

「殿下は音楽や芸術もお好きなような」

「それはいいな」

「そうだな」

「確かにな」

 友人達は太子のその嗜好を聞いて顔を明るくさせた。

「本もお好きだったな」

「そうだったな」

「そうだ。山や森を歩かれるのもお好きだ」

 それもだというのだ。

「だからだ。そうしたこともだ」

「やっていけばいい」

「教育に入れるのはいいことだ」

「その通りだな」

「そう考えている。だからこそな」

 ローゼはとにかく太子のことを考えていた。軍人出身として厳格ではあった。だがそれでもだ。彼は太子のことを真剣に、かつ忠実に考え心配していたのだ。 

 それで彼に音楽や芸術を見せ山や森を歩かせもした。彼はそのことには目を輝かせ非常に熱心であった。しかし己の好きではないものにはだ。

「殿下、それでは駄目です」

「わかっています」

 軍に関することはだ。顔を曇らせるのだった。

 教練もだ。暗い顔で浮けるばかりだった。ローゼが幾ら言ってもだ。

「それは」

「ならもう少し熱心にです」

「はい」

 ローゼのその言葉に頷きはする。だが顔は暗いままである。

 とかく己が好きなことには熱中するがそうでないものにはとんと関心を示さない。彼は太子のその性格にさらに憂慮を覚えた。

 そしてだ。さらにであった。太子は時としてこうも言うのである。

「あの、先生」

「何でしょうか」

「父上と母上は今日は」

 両親を見なかったのでだ。不安な顔になって彼に問うのだった。

「何処に行かれたのですか?」

「御公務でお忙しいのです」

 それでだというのだ。

「御二人は今は」

「そうですか」

「王、そして王妃としての務めです」

 彼はこう語ると同時に太子に対して王の務めも教えていた。

「ですから」

「わかりました」

「殿下、お父上もお母上もお忙しい方なのです」

「それはわかっています」

「それは御承知下さい」

 こう言いはするがだ。彼は納得しないものも感じていた。

 こうした教育が続いていた。その中でだ。 

 太子はよく乗馬をした。これは見事なものだった。

 ローゼも軍人であるから当然乗馬は慣れている。しかしその彼が見てもだった。

「殿下、お見事です」

「これでいいのですね」

「はい」 

 共に馬に乗りだ。隣同士になって話すのだった。

「馬はお好きですか」

「はい、好きです」

 そのまだ少年ながら美貌を感じさせる顔で答える太子だった。

「何か。乗っていると」

「乗っていると?」

「騎士になった気がします」

 こう言うのである。

「それで好きです」

「騎士ですか」

「はい、騎士です」

 それだというのである。騎士だとだ。

「だから。馬に乗るのは」

「とりわけ白馬ですね」

 見れば今もである。太子は見事な白馬に乗っている。それに乗りながらだ。ローゼと笑顔で話をしているのである。それが今の太子だ。

「それがお好きですね」

「白馬に乗っているとです」

「やはり騎士になったように思われますか」

「白鳥の騎士ですか」

 ここで太子はこんなことを口にした。

「それになった気持ちになります」

「白鳥の騎士?」

「ローエングリンです」

 彼はこの名前を出した。

「それに」

「ローエングリンというと」

「先生は御存知でしょうか」

「あれですか。姫の窮地を救う白銀の鎧の騎士」

「はい、それです」

 話す太子の顔が晴れやかなものになる。そのうえでの言葉だった。

「それなのですが」

「ううむ、ローエングリンにですか」

 ローゼは太子の言葉を受けて難しい顔になった。そのうえで述べるのだった。

「それはいいのですが」

「いいのですね、それは」

「ただ」

「ただ?」

「殿下は王になられる方です」

 厳しい顔になった。そのうえでの今の言葉だった。

「それは御承知ですね」

「はい、それは」

「ならば。騎士になられるのも当然ですが」

 これは貴族という意味である。ローゼはそうしたことを踏まえたうえで太子対して話すのだった。二人は今も馬上で横に並んでいる。

「まずは王になられることをです」

「自覚せよというのですね」

「ローエングリンは王ではありません」

 このことを言うのであった。

「そのことはよく御承知下されるよう」

「それはわかっているつもりですが」

「ならばいいです」

 ローゼは太子の目を見た。いつも空を見ているその目を見てだ。そこに嘘がないのを見ての言葉だ。太子は嘘は言わない人物だった。

「それでなのですが」

「はい、乗馬の次は」

「剣です」

 それだというのだ。

「フェシングをしましょう」

「フェシングですね」

 太子はそれを聞いても笑顔になった。

「それなのですね」

「殿下は剣もお好きですね」

「はい、それもまた」

 笑顔のまま話す太子だった。顔が晴れやかなものになっている。

「好きですから」

「それはいいことです。銃は」

「どうも好きにはなれません」

 それはだというのだ。

「それはです」

「ですがそれでもです」

「扱いを覚えることはですか」

「心得ておいて下さい」

「わかりました」

 教育は順調な面とそうでない面が如実に表れてしまっていた。ただかなり厳しい。父王は時として二人に体罰を与えることもあった。政務の合間を見てたまに顔を見せればそうなのだった。

 そんな教育を見てだ。ルイトポルドは難しい顔をしていた。そうして親しい者達に対して話すのだった。

「太子もオットーも」

「あの教育はですか」

「駄目なのですか」

「二人にはよくないかも知れない」

 こう話すのである。

「二人共な。特に太子にはだ」

「しかし教育は厳しくていいのでは」

「違いますか」

「厳し過ぎるのもよくないのではないのか」

 これが彼の意見だった。

「あそこまではだ」

「そういえば確かに」

「詰め込みでしかも質素に過ぎるような」

「ハプスブルク家やホーエンツォレルン家よりも厳しいのかも」

「殿下は息をつく間もありません」

「あの子はだ」

 王族でしかも叔父だからだ。彼は太子をこう呼んでも許されるのだった。

「繊細だ。もう少しあの子のことを気遣わないとだ」

「いけませんか」

「そうだと仰るのですね」

「気の毒だ」

 甥にだ。心から心配するものを見せた。

「せめて。少しでも何かを許さないと」

「その何かとは」

「一体何ですか」

「それで」

「愛情か」

 それだというのだった。

「もう少し愛情を注いでもいいのではないだろうか」

「しかし王は孤独なものです」

 所謂帝王学の言葉だ。王は常に一人である、このことが今話された。

「ですから。愛情もまた、です」

「それも諦めるべきではないでしょうか」

「王として」

「王は国家の第一の僕」

 ルイトポルドはこの言葉を出した。

「だからか」

「はい、ですから」

「それもまた、です」

「仕方ないのでは」

「そう思いますが」

 親しい者達はこう話す。だが彼はまだ難しい顔をしていた。

 そうしてだ。こうも話すのだった。

「その考えもいいのだろうか。あの子にそこまで重圧を与えては」

「ですから王ですから」

「仕方ないと思いますが」

「違うのですか」

「やはり少しは」 

 どうしても甥のことを気遣わずにはいられなかった。篭の中の鳥になっている甥をだ。しかし彼への教育はさらに続くのだった。

 そしてだ。その中でだった。

 太子は多くの歌劇も見た。それも教育の一環だったがその中でだ。ドイツの歌劇も観ていた。

 ミュンヘンにある王立劇場は赤と黄金の世界だ。貴賓席の壁のところは黄金でありそこにロイヤルボックスもある。太子はよく王、王妃と共にそこでオペラを観るのだ。

 そこでだ。彼は言う。

「ドイツのオペラも」

「どうだというのだ?」

「何かあるというの?」

「素晴しいものがありますね」

 これが彼の言葉だった。

「実に」

「イタリアのものよりもか」

「いいというのかしら」

「いえ、イタリアのものはイタリアでいいと思います」

 イタリアオペラを否定しなかった。むしろ彼はイタリアは好きだった。だからこそそれは否定せずに肯定してみせたのである。

 しかしだった。ドイツオペラについてもだ。こう述べるのだった。

「しかしドイツのものにはドイツのよさがあります」

「ドイツのか」

「そうだというのね」

「何時か必ず」

 そして言った。この考えをだ。

「ドイツに見事な音楽家が現れるでしょう」

「ベルリーニやドニゼッティの様なか」

「ロッシーニかしら」

「いえ、彼等を超えるでしょう」

 まだ見ぬその音楽家についてだ。彼は熱く語るのだった。

「その彼は」

「一体どんな音楽家なのだろう」

「わかりませんね」

 両親は息子のその言葉に首を捻ることになった。

「しかしドイツにもな」

「必要ですね」

「神聖ローマ帝国はなくなった」

 王はこのことを言う。ナポレオンにより解体させられたその国のことをだ。

「だがオーストリアとプロイセンは争っている」

「そうですね。それは」

「そしてどちらかがだ」

 王の言葉は続く。

「ドイツを一つにするのか」

「おそらくですが」

 太子はいささか物憂げな顔になって言った。

「プロイセンでしょう」

「プロイセンか」

「その勢いは止まるところを知りません」

「だからだというのだな」

「そうです」

 まさにそうだというのである。

「ですから。プロイセンが必ず」

「このドイツを統一するか」

「そう思います」

「ううむ、そうなるか」

「そしてです」

 さらに話す彼だった。

「ドイツにその音楽家がです」

「ロッシーニを超えるか」

「モーツァルトやベートーベンに匹敵するでしょう」

 こうまで話してだった。太子は今日の歌劇を観た。それはイタリアのものである。それを観てだ。彼はドイツのその偉大な音楽家を夢見るのだった。

 そしてだ。その時にだった。

 太子は大叔父の家を訪問した。そこでだった。

「叔父上、それでなのですが」

「何かあるのか?」

「叔父上は音楽の評論を読まれていると聞きましたが」

「その通りだ」

 それは否定しない叔父だった。

「それはな」

「そしてなのですが」

「その評論を読みたいのか」

「できれば」

 こう叔父に申し出る。

「宜しいでしょうか」

「いいとも。それでなのだが」

「それで?」

「一人面白い音楽家の評論を読んでいる」

「面白いですか」

「かなり斬新な音楽家だ」

 叔父は甥に対して話す。

「その主張はな」

「それでどういった評論ですか?」

「音楽の中の女性的なるものか」

 叔父はいぶかしむ顔になり話をする。

「そんなことを言っている」

「女性ですか」

「そうだ、女性だ」

 こう甥に対して話す。

「それがあるというのだ」

「そうなのですか。女性的なものですか」

「そしてその音楽だが」

 音楽についてもだ。話すのだった。

「楽譜を見たところそれも非常に斬新だ」

「音楽もですか」

「歌劇だが番号制をしていなくだ」

「そうした音楽は最近イタリアでもあるそうですが」

「確かタンホイザーといった作品だったな」

 その彼の作品名も話に出た。

「その作品は」

「タンホイザーですか」

「そうだ、タンホイザーだ」

 その作品の名前をまた言う叔父だった。

「タンホイザーという」

「あの伝説の詩人ですね」

「ワルトブルグのな」

「その彼の歌劇ですか」

「そうだ。そして」

 さらに話すのだった。次にこの名前を出してきた。

「今ローエングリンがドイツで上演されているな」

「ローエングリン」

 太子はその透明な響きの名前に目の色を僅かだが変えた。

 そしてだ。声も無意識のうちにうわずらせて話すのだった。

「確か。白鳥の」

「知っているのか」

「伝説は聞いています。その騎士の歌劇ですか」

「そうだ。部屋に来てくれ」

 叔父はここまで話したところで甥に自分の部屋に来るように勧めた。

「その評論を貸そう」

「有り難うございます。それでは」

「実際に読んでわかることだ」

 一見ということだった。

「それではな」

「はい」

 こうしてだった。太子は叔父に案内されて彼の部屋に入った。その樫の重厚な部屋にある机のところにだ。一冊の黒い表紙の本があった。 

 それを見てだ。太子は言った。

「この本がですか」

「そうだ、そのな」

「音楽家の本ですね」

 その著者の名前を見る。それは。

「リヒャルト=ワーグナー」

「今はお尋ね者になっている」

「何かしたのですか?」

「あの革命騒ぎの時にな。罪に問われたそうだ」

 叔父はこのことも甥に話した。

「それでだ」

「革命騒ぎに加担してそれでなのですね」

「ザクセンのドレスデンでな。あそこでも騒ぎがあったな」

「はい」 

 これはバイエルンでもザクセンでも同じだったのである。一八四八年の三月革命はだ。ドイツ全土に及びそして大変な騒ぎとなったのである。

 太子もこのことはよく知っていた。そしてであった。

 そのことを聞いたうえでだ。叔父にまた問うのであった。

「つまり革命家ですね」

「そういうことになる。今は何処にいるかわからない」

「生きてはいるのですね」

「一応はな」

 生きてはいるのだという。

「生きてはいるがだ」

「何処にいるかはですか」

「支援者達に匿われながら転々としているらしい」

「そうですか。そうした状況ですか」

「その通りだ。それでなのだが」

 ここ叔父は話した。

「この書はかなり難解だぞ」

「それ程までなのですか」

「そうだ、私も読んだがな」

 彼は難しい顔にもなった。そのうえで話すのだった。

「どうもな。理解するのはな」

「難しいのですか」

「それはわかっておいてくれ」

「ワーグナーは難解ですか」

「おそらくこの書だけではない」

 そうだというのである。

「それはわかっておいてくれ」

「わかりました。それでは」

 こう話してであった。太子はその書を借り読みはじめた。そのうえでだった。

 ワーグナーについてだ。周りの者にこう話すのだった。

「どうやらこの国にだ」

「この国にですか」

「何かあったのですか」

「素晴しい音楽家がいるようだ」

 こう話すのだった。

「そう、ベートーベン以来のだ」

「そこまでのですか」

「素晴しい音楽家がですか」

「生まれているのですか」

「そうだ、この書を書いた者だ」

 大叔父に借りたその書を手にしての言葉だった。

「ワーグナーという」

「ワーグナーというと」

 ここでだった。何人かは眉を顰めさせた。

「あの悪名高きですか」

「革命家の」

「しかも山師の」

「あの者ですか」

「山師!?」

 太子はこの言葉に反応を見せた。革命家であるというのは聞いていた。しかし山師という言葉は聞いていなかった。それで言ったのである。

「どういうことだ、それは」

「はい、そのワーグナーという男はです」

 彼等はそのワーグナーについて太子に話した。

「とにかく浪費家でして」

「絹以外のものは身に着けません」

「莫大な借金を抱えていてそれから逃れ続けています」

「そして大言壮語が常でして」

「おまけに異常に女癖が悪いです」

 それもあるというのだ。

「妻がありながら他の女性を次々と誘惑します」

「そうした人間です」

 これはカトリックの世界では重要なことだった。妻だけを愛さねばならないからだ。尚バイエルンはカトリックの国である。

「失言や放言も多いですし」

「人間としましては」

「いや、それはどうでもいい」

 ところがだった。太子はそのことには関心を示さなかった。

 そしてだ。ワーグナーのその人間性には素っ気無く言うだけだった。

「人間ではないのだ」

「といいますと」

「何だというのですか」

「大事なのは」

「音楽だ」

 それだというのである。

「芸術なのだ」

「それですか」

「それだというのですか」

「芸術がですか」

「そうだ、それこそが大事なのだ」

 こう言うのである。

「だからだ。その音楽を聴いてみたいものだ」

「ワーグナーの音楽をですか」

「それをなのですね」

「つまりは」

「そうだ、ワーグナーの考えは素晴しい」

 書は手にしたままだ。そのうえでの言葉だった。

「その芸術への心は確かだ」

「ではやはり」

「ワーグナーをですか」

「認められるのですか」

「一度聴いてみたいものだ」

 また言う太子だった。

「必ずな」

「その時が来ればいいですね」

「それでは」

「その時にですね」

「楽しみにしている」

 太子の言葉はここではしみじみとしたものになっていた。彼はワーグナーを知った。そしてその芸術への考えもだ。彼はここから変わった。

 常にだ。ワーグナーについて考えそして言うのだった。

「音楽を聴きたい」

「はい、それでは」

「早速ピアノを」

「頼む。それでなのだ」

 さらに言うのだった。

「この曲を頼む」

「この曲をですか」

「そうだ、これだ」

 手に入れた楽譜をだ。ピアニストに差し出す。その曲は。

「ワーグナーのものだ」

「ワーグナーですか」

「リエンツィの楽譜だ」

 それだというのである。

「これを頼む」

「リエンツィですか」

「そうだ、私はこの曲を聴きたいのだ」

「わかりました。それでは」

 ピアニストは一礼してだった。その曲を奏ではじめた。太子はソファーにすわりその曲を聴く。そしてこう言うのであった。

「これこそが真の芸術なのだ」

「満足して頂けましたか」

「心からな」

 そうだというのだ。

「思った通りだ。やはりワーグナーの音楽は素晴しい」

「そこまでなのですか」

「ワーグナーは」

「ドイツは。彼により変わる」

 こうまで言うのだった。

「大きくな」

「音楽がですか?」

「そして芸術が」

「そうだ、まずはそれだ」

 太子は答える。

「しかしそれだけではなくだ」

「といいますと」

「その他にもですか」

「ワーグナーは音楽だけに止まらない」

 太子の言葉は続く。

「舞台もそうだし思想もだ」

「思想にもですか」

「影響を及ぼしますか」

「教養をも変える」

 太子は本気だった。だがその本気は何処か浮世離れしていた。何か、現実にはないものを見ながらの如く。話をするのである。

「そう、ドイツそのものになり得るのだ」

「まさか。ドイツをですか」

「そのものに」

「やがてわかる」

 太子は確信していた。

「私の言っていることがな」

「そこまでの音楽家がいるのでしょうか」

「果たして」

「本当に」

「現実にいるのだ」

 現実を見ていない筈だが太子は今現実を話していた。

「それも言っておこう」

「左様ですか」

「そうだというのですか」

「そうだ。リヒャルト=ワーグナー」

 言葉はここでも夢現だった。

「その名前を覚えておくことだ」

「わかりました」

「それでは」

 彼等は頷きはした。しかし太子の言葉はわからなかった。だがやがてだ。彼の言葉をそのまま行う者が出てしまうのだった。

 その者はだ。ワーグナーを心から愛した。そしてだ。

 常にワーグナーを聴き。こう言うのであった。

「我がドイツこそ世界を治める者なのだ」

 太子より七十年後にこの世にその名を知られることになる男の名前をアドルフ=ヒトラーという。彼もまたワーグナーを愛していたのだ。

 しかし人である太子は未来のことはわからない。彼はただワーグナー、まだ見ていない彼を愛することだけしかできなかった。その音楽と思想をだ。

 その太子にだ。神が贈りものをしたのだった。

 王がだ。太子に告げたのだ。

「ローエングリンをですか」

「そうだ、王立劇場で上演されることになった」

 こう太子に話すのだった。

「それでどうするのだ?」

「観るかどうかですか」

「嫌ならいいが」

 こう太子に言う。

「だがそなたは近頃ワーグナーのことばかり言っているそうだな」

「はい」

 こくりと頷いてそのことを認めた。

「その通りです」

「あの男はお尋ね者だ」

 王もこのことを知っていた。だから言及した。

 しかしだ。同時にこうも言うのであった。

「だがフランツ=リストの働きかけもあった。そして劇場にもだ」

「劇場にも?」

「ワーグナーの信奉者がいてな。それでだ」

「何処にも真がわかる者はいるのですね」

 太子は王の今の言葉を聞いて微笑みになった。

「真の芸術がわかる者が」

「真か」

「ワーグナーは真です」

 ワーグナーそのものがだというのだ。

「ですから」

「そうか。それでか」

「はい、おそらくです」

 太子は言った。

「この度の上演は神の裁量です」

「神がか」

「はい、神がこのミュンヘンにもたらして下さった恩恵なのです」

「大袈裟だとは思わないのか」

「いえ、思いません」

 父の言葉もその微笑みで否定した。

「真は。必ず世に出るものですから」

「それでか」

「そうです。それでなのですが」

 太子の言葉は続く。

「父上、ローエングリンの他には」

「タンホイザーの上演も決まっている」

 もう一つ作品が出て来た。

「それもだ」

「左様ですか。タンホイザーも」

「それも観るか」

「無論」

 太子の微笑みは変わらない。彼は言うのだった。

「是非共。観させて下さい」

「確かワーグナーははじめてだった筈だが」

「人は何事もはじまりからです」

 太子はここでは世の摂理を述べた。

「ですが。そのはじまりこそがです」

「尊いというのだな」

「そうも考えます。それではです」

「観るか」

「観させてもらいます」

 これが彼の返答だった。

「是非」

「わかった。歌劇を観るのも王になる者の務めだ」

 教養としてである。これは歌劇というものがこの世に生まれた時からのことだ。劇や音楽は長い間王侯のものだったのだからこそだ。

「ではな。その時はな」

「有り難うございます。それでは」

 こうして彼はローエングリンを観ることになった。はじまる前からだった。

 彼は周囲にこう言うのだった。

「いよいよだな」

「ローエングリンですか」

「それを観られるというのですね」

「そうだ、全てはここからはじまる」

 まるで恋人について語るかの様だった。

「何もかもがな」

「しかしワーグナーはです」

「今は何処にいるかさえ」

「色々とよからぬ噂もありますし」

「それはいいのだ」

 太子はワーグナーの人間としての評価は気にしなかった。

「それはだ」

「左様ですか」

「それはなのですか」

「そうだ、いいのだ」

 また言う太子だった。

「大事なのはその芸術なのだ」

「芸術なのですか」

「それこそがですか」

「そうだ。ワーグナーの芸術」

 具体的には何かも言う太子だった。

「それは必ずやドイツを形作る」

「この国をですか」

「再び一つにですか」

「そうするのだ。ではだ」

「はい」

「そのワーグナーの歌劇をですか」

「見ようではないか」

 自分自身だけでなく周りにも告げた言葉だった。

「若し観られないというのなら」

「その時は」

「一体」

「お金は私が出そう」

 太子がだというのだ。彼は幼い頃よりそうしたものはあまり手にしていなかった。だが出そうと言えばそれで出たりするものだからだ。

 それでだ。彼は今こうも言ってみせたのだ。

 周りもそこまで言われてはだった。行かざるを得なかった。彼等もそのローエングリンを観ることになった。そして太子もまた。

 王と共にロイヤルボックスに入る。観客達の拍手と歓声に応えた後で着席してだ。そうしてそのうえで期待に満ちた眼差しで待っていた。

 そこでだ。王がその太子に対して声をかけた。

「期待しているな」

「はい」

 その通りだと答える太子だった。実際にその目は喜んでいるものだった。

「それは」

「そうか。しかしな」

「しかし?」

「私はあまり賛成できなかった」

 王はここで難しい顔を見せた。太子とは対象的にだ。

「実はな」

「ワーグナーがお尋ね者だからですか」

「そうだ。だからな」

「それは大した問題ではありません」

 太子は父王に対してもこう話すのだった。

「別に」

「大した、か」

「お尋ね者だからどうだというのでしょうか」

 太子は言う。右手をしきりに動かしながら。

「それで何があるでしょうか」

「そこまで言える根拠はあるのか」

「あります」

 断言だった。まさにそれだった。

「何故ならです」

「何故なら?」

「ワーグナーの芸術は何にも替えられないものだからです」

「それでか」

「はい、それでです」

 断言する彼だった。

「ワーグナー。その芸術は比類なきものです」

「しかしだ」

 王は怪訝な顔になった。そのうえで太子に対して問うのだった。

「そなたはまだワーグナーを聴いたことがないのではないのか」

「ピアノでいつも聴いています」

「しかしオーケストラではない筈だ」

 王が指摘するのはこのことだった。

「それに舞台もだったな」

「はい、今日がはじめてです」

「しかしなのか」

 あらためて太子に対して言う。

「それでもか」

「はい、それでもです」

「ワーグナーを知っているか」

「そうです。ですから私は」

「わかった」

 王は太子の言葉だけでなくその真剣な顔を見てだ。ここでは頷いたのだった。

 そうしてだ。顔を正面に戻してこう言うのであった。

「そなたは幼い頃からどうもな」

「何でしょうか」

「妙なところで頑固なところがある」

 こう言うのであった。

「それがな。どうにもな」

「いけませんか」

「悪いとは言わない」

 そうではないと言う。しかしなのだった。

 やはり怪訝な顔でだ。話すのだった。

「それでも。それが時として厄介なことになるかもな」

「厄介なですか」

「己の意志を持つのはいい」

 それはいいというのである。

「しかしだ」

「それでもなのですか」

「そうだ、それでもだ」

 また言う王だった。

「それが意固地になればそなたにとってよくないことになるやもな」

「よくないことに」

「よく聞いておくのだ」

 我が子への言葉だった。

「そなたは見たところだ」

「見たところ?」

「人から嫌われる者ではない」

「そうなのですか」

「そなたをあまり見られはしなかった」

 これは自分でも認める。しかしなのだというのである。彼もまた父として我が子を見ることは見ていた。そこから話すことだった。

「だが。その心根はいい」

「ですか」

「腹は奇麗でやましいことはない」

 太子のその清らかさを知っていたのだ。

「意地も悪くない。他人を傷つけることは好きではないな」

「言葉にも気をつけているつもりです」

「他者を思いやることも王の務めだ」

 彼は少なくともそれができているというのだ。

「それもな」

「それはわかっているつもりです」

「だからだ。そうしたことでだ」

 人に嫌われないというのだ。

「それにその顔立ちだ」

「顔ですか」

「それもまた好かれるものだ」

 太子の顔の整いは際立っていた。この世にあるとは思えないまでの、絵画にあるような美貌である。それはもうバイエルンだけでなく欧州中においても話題になっていた。

 そのことからもだというのだった。

「だからだ。そなたはだ」

「嫌われはしませんか」

「それに自然と人を惹き付けるものも持っている」

 今度はカリスマだった。

「だからだ。嫌われはしない。むしろ」

「むしろ?」

「誰もがそなたを好く」

 そうだというのだった。

「そして愛するだろう」

「そうであればいいのですが」

「安心するのだ」

 王の言葉は明らかに我が子に向けられたものだった。これまで親子の交流はほぼなかった。しかし今はそれが違っていたのだった。

 そうしてだ。王はさらに我が子に話した。

「それでだが」

「それで、ですか」

「そうだ。そなたは王として相応しい者だ」

「そう仰って頂けますか」

「私もそう思う。必ずやバイエルンの、どいつの歴史にその名を残す」

 それも感じ取っていたのだ。我が子のその資質を。

 そしてである。そう話している間にだった。

 上演開始の合図のベルが鳴った。それを聞いてだった。

「さて、それではだな」

「開演ですね」

「ローエングリン」

 王は考える顔でその名前を呟いた。

「確かあれだったな」

「はい、白鳥の騎士です」

「姫の窮地を救う白銀の騎士か」

「伝説のあの騎士を歌劇にしたのです」

「果たしてどういったものか」

 王はその考える顔のまま述べていく。

「見せてもらおう」

「見させてもらいます」

 王だけでなく太子も話した。

「これから」

「そうだな」

 こうしてだった。まずは前奏曲からだった。その前奏曲は。

 透明で清らかな響きの曲だった。色にすると白銀の。

 青い空と水色の水の間から騎士が現れそうして天上から祝福の聖なる杯が舞い降りて恩恵を施す。太子は前奏曲からそうしたものを感じ取った。

 そうして幕が開き姫、エルザ=フォン=ブラバントが王と騎士達に囲まれ審判を受けようとしていた。姫はここで語るのだった。

 自分を救ってくれる白銀の騎士が来ることを。それを語ったのだ。

 誰もがそれを疑おうとする。しかしここでだった。

 河の向こう、その彼方から小舟が来る。白鳥に曳かれたそれに乗っているのは。

 白銀の鎧と兜、そして白いマントにその身体を包んだ見事な騎士だった。その両手に剣を抱いている。その騎士が来たのである。

 騎士を見てだ。太子は息を飲んだ。その彼に全てを見てだ。

 言葉を失ったまま騎士に魅入られる。その太子を見てだ。周囲は異変を感じ取ったのだった。

「おかしいな」

「ああ」

「今の殿下は何かが違う」

「そうだな。歌劇を観る顔ではない」

「あれは」

 何かというとだった。

「恋に出会ったような」

「まさにそうした顔だな」

「そうだ、その顔は」

「少なくとも歌劇を観られるものではない」

「そうした御様子ではない」

「これは」

 そしてだ。年配の侍従が言った。

「よからぬことにならなければいいが」

「よからぬこととは」

「といいますと」

「何が」

「殿下は一つのことにその御心を囚われる方」

 太子のことをよくわかっている言葉だった。

「あの歌劇にもまた」

「しかし歌劇です」

「それに過ぎません」

 だが周囲はその年配の侍従にこう言うのだった。

「ですから例え何があっても」

「大したことにはなりますまい」

「精々」

 どうなるか。若い侍従が述べた。

「あの歌劇にのめり込まれるだけです」

「そうだな。結局は」

「それだけで終わる」

「大したことは何も起こらないだろう」

「別に」

「そうであればいいがな」

 だが、だった。年配の侍従はそれでも心配する顔だった。その間にも歌劇は続いていく。

 最後に聖杯の奇蹟が起こり姫は救われた。だが姫が騎士が禁じていたその名前を問うたが為にだ。騎士は去らなければならなくなった。

 騎士は己の名を告げた。ローエングリンと。

「ローエングリン・・・・・・」

 その名を聞いてだ。太子はこの舞台を観ていてはじめて口を開いた。

 しかし以後はまた口を閉ざし舞台を観ていく。舞台は終局に向かっていた。

 そうしてそのままだ。結末まで観た。結末は騎士、ローエングリンは聖杯の城モンサルヴァートに戻り姫と別れる。姫は泣き崩れ息絶えてしまう。悲しい結末だが全てを観終えてだ。彼は恍惚となっていた。

 感涙さえしていた。そうして呟いた言葉は。

「これこそが」

 何かというのだった。

「芸術なのだ。私が望んでいた芸術なのだ」

「気に入ったようだな」

「はい」

 その通りだと父王にも答える。カーテンコールが行われている舞台を観ながらだ。彼はそのカーテンコールにも騎士を観ていた。

 そしてだった。彼は父の言葉に応えていたのだ。

「これ程までだったとは」

「言っているだけはあるな」

 王の言葉は冷静だった。

「素晴しい。それは確かだ」

「素晴しいというものではありません」

 しかしだった。太子の言葉は王のそれとは違っていた。恍惚をそのままんしてである。そのうえで言葉を出し続けているのであった。

 彼はまたその名を呟いた。

「ローエングリン」

「白銀の騎士だな」

「私は忘れられません」

 太子はまだ舞台を観ている。そこから顔を放さない。

「この時を」

「ではだ」

「はい、それでは」

「次にタンホイザーの上演も予定されているが」

「無論です」

 こう言ってからだった。

「そちらもです」

「観るのだな」

「そうします。是非共」

「そうか、わかった」

「はい」

「ではタンホイザーも観るのだな」

「リヒャルト=ワーグナー」

 自然とだった。太子の口から彼の名前も出た。

「間違いない、彼こそがこのドイツを一つにする芸術を生み出す者だ」

 この言葉は確信だった。彼は今永遠の存在と巡り会ったのだった。彼にとっての永遠の存在にだ。確かに会ったのだった。

 そこから彼は変わった。常にだった。

「ワーグナーの本を」

「あの者の著作をですか」

「そうだ、持って来てくれ」

 まず彼の書を欲するようになった。

「是非読みたい」

「わかりました。しかし」

「しかし?」

「最近ワーグナーばかり読まれますね」

 言われた者が言うのはこのことだった。

「本当に」

「そうだろうか」

「ええ、そこまで入れ込まれているのですか」

 彼は怪訝な顔で太子に対して問うた。

「ワーグナーに」

「入れ込んでいると言われればそうだな」

 太子自身もそのことを認めた。そうしてだった。 

 さらにだ。こんなことも言うのであった。

「私がだ」

「殿下がですか」

「王になったその時にはだ」

 既にそのことは決まっていることだ。何故なら彼は太子だからだ。そして今父王の体調は優れなくなってきている。王となる時も近そうだった。

「ワーグナーを救いたいものだ」

「そういえばあの者は今もでしたね」

「逃亡中だな」

「お尋ね者のままです」

 まずはそれだった。彼は相変わらず革命に関することでドイツ中で指名手配となっていたのだ。特徴のあるその顔がドイツ中で知られてしまっていた。

「そして借金取りにも追われています」

「どちらも下らない話だ」

「下らないですか」

「そうだ、下らないことだ」

 太子の顔にだ。憂いが加わった。そのあまりにも整った顔にだ。

「芸術の前にはだ」

「では殿下はワーグナーを」

「些細な罪は消し去るべきだ」

 これが太子の返答だった。

「その様なものはだ」

「そう思われるのですか」

「その通りだ。そしてだ」

「はい、ワーグナーの書ですね」

「彼の著作に脚本」

 具体的に何かも話すのだった。

「何でもいい。持って来てくれ」

「初期の脚本もですか」

「妖精や恋愛禁制だな」

 どちらもワーグナーの初期の作品だ。ワーグナー自身もあまり振り返ろうとしない作品達である。だが太子はこうした作品まで知っていたのだ。

「そうだな。どちらもな」

「ご所望ですね」

「あれば頼む」

 実際に前にいる彼に告げた。

「どちらもな」

「わかりました。それでは」

「それにリエンツィもだな」

 これもまた初期の作品だった。

「あれも欲しいな」

「リエンツィ。ローマの護民官だったあの」

「ワーグナーらしさはまだ薄かった」

 ワーグナーの作品がそのワーグナーらしさを発揮していくのはさまよえるオランダ人以降である。リエンツィには多少出ている。しかしそれ以前の妖精や恋愛禁制はそうではないのだ。

 太子もそれはわかっていた。しかしそれでも言うのであった。

「だがそれでもだ」

「御覧になられたいのですね」

「ワーグナーの全てをだ」

 太子の声に熱いものが宿った。

「私は知りたいのだ」

「わかりました。それでは」

「そしてできればだ」

 その言葉がまた発せられた。

「ワーグナーを呼びたいものだ」

「このミュンヘンにですか」

「我がヴィッテルスバッハ家の務めはだ」

 言わずと知れた彼の家だ。あのハプスブルクよりさらに古い歴史を持ちかつては神聖ローマ皇帝まで出した。彼の家の名前を出したのであった。

「民を護ること」

「はい」

「そして芸術を護ることだったな」

「その通りです」

「ではだ。ワーグナーもそうされるべきなのだ」

「そのワーグナーをですか」

「ワーグナーは誰も殺してはいない」

 それはその通りだ。しかし太子は今そのことを免罪符にしていた。ワーグナーの。

「それで何故今だに罪に問われているのだ」

「ですから革命の」

「あの騒ぎは既に終わった」

 祖父を退位にまで追いやったその騒動もだ。今の彼にとっては些細なことに過ぎなくなってしまっていた。それよりもなのだった。

「だが今はだ」

「ワーグナーですか」

「芸術は護られるべきものだ」

 また言う太子だった。

「だからこそだ」

「それでは、ですか」

「ワーグナーだ」

 何もかもがそこに至っていた。

「わかってくれるか、このことが」

「私は殿下程芸術への造詣は深くありませんが」

 それでもだというのだった。

「ですが殿下のお気持ちはわかります」

「そうか」

「では」

「頼んだぞ」

「わかりました。それでなのですが」

 ここで話が変わった。彼は太子にあらためて告げてきた。

「今から司教様が来られますが」

「御教えを聞く時間か」

「どうされますか、それは」

「聞かねばなるまい」

 義務といった感じの言葉だった。

「そして聞かねばならないのと共に」

「それと共に?」

「私は神もまた愛する」

 このことを言うのだった。今度は穏やかな目になっていた。

「その神もな」

「左様ですか」

「神は全てを許して下さる存在だ」

 彼は信仰も持っていた。尚バイエルンはカトリックである。当然ながら彼もまたカトリックだ。そうした観点から言えばオーストリアのハプスブルク家と同じだ。

「だからこそな」

「それはよいのですが」

「プロテスタントか」

「はい、今度そのプロテスタントの方も来られます」

「ビスマルク卿だな」

 この名前が出て来たのだった。

「あの方だな」

「殿下も御会いになられると思いますが」

「会わなければならないだろうな」

「ならないですか」

「私とあの方もまた」

 そしてだ。こんなことも言うのだった。

「だからこそだ」

「左様ですか。それでは」

「何故だろう」

 太子は考える顔にもなった。

「私はカトリックだ」

「はい」

「そしてあの方はプロテスタントだ」

 このことは絶対だった。太子はバイエルン、ビスマルクはプロイセンを代表する二人だ。そしてドイツにおいてカトリックとプロテスタントを代表してもいる。そうした意味では二人は対立する間柄だった。

 しかしだった。太子はだ。何故か今対立するものは感じていなかった。

 むしろそこにあったのは親しみだった。不思議なことに、太子自身もそれに戸惑っているがそれでもだった。まだ会っていない彼にそれを感じていた。

 そのうえでだ。彼は語るのだった。

「いがみ合って当然だがな」

「それでもなのですね」

「そうだ、会いたい」

 彼は言った。

「是非な」

「ビスマルク卿もそう思われているようです」

「あの方もか」

「はい、あの方もです」

 そうだというのである。

「殿下と御会いしたいそうです」

「そうなのか」

「殿下のことはプロイセンにも伝わっています」

 これは当然のことだった。バイエルンはドイツにおいてプロイセン、オーストリア両国の後に続く第三の国である。国力は両国と比べてかなり落ちるにしてもだ。

 そうした国が見られない筈がなかった。その国の次の王ともなるとだ。それにその容姿と知性も加わればだ。当然のことだった。

 それをビスマルクが知らない筈がなかった。それでなのだった。

「それは」

「そうか。それでか」

「ビスマルク卿はかなり辛辣な方だそうですが」

 このことも話される。

「それは御気をつけ下さい」

「いや、それはいい」

 ビスマルクはそれには構わなかった。平然としている。

「そのことはだ」

「宜しいのですか?」

「ビスマルク卿のことは私も聞いている」

 こう話す彼だった。

「それはだ。しかし」

「しかし?」

「あの方にも会いたいな」

「左様ですか」

「ワーグナーにも会いたいがだ」

 やはり彼が最初だった。

「それでもだ。あの方にもだ」

「わかりました。それではその会談の用意も」

「頼んだぞ。それではな」

「はい、それでは」

 こんな話をしてであった。彼はその時を待っていた。彼の運命は動きはじめていた。それは大きなうねりとなっていたのだった。



第一話   完



                       2010・11・10

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