第三話 甘美な奇蹟
父王の容態がだ。いよいよ危うくなっていた。
太子はその時馬に乗っていた。森の中を進みそして帰るとだった。
母にだ。こう言われたのだった。
「お気持ちはもう確かですか」
「母上、まさか」
「はい、その時が来ようとしています」
真剣な顔で息子に告げるのだった。
「わかりましたね」
「父上が」
彼はまずそのことを考えた。己のことより父のことをだった。
「それではですね」
「何時何があってもいいように」
母は我が子にこうも話す。
「これからは常に王宮にいるのです」
「森や山から離れ」
「そうです。いいですね」
「わかりました。これからは城の中にいます」
ここでは素直にだった。母の言葉に頷くのだった。
「ではまずは」
「まずは?」
「音楽を聴きたいのですが」
こう母に対して述べた。
「宜しいでしょうか」
「それはいいですが」
「何かありますか」
「いえ、どの曲にするのですか」
背の高い我が子を見上げその青い目を見詰めての言葉だった。
「一体どの曲に」
「モーツァルトを」
「ワーグナーではなくですか」
「はい、モーツァルトです」
それだというのだった。
「それを聴きたいのですが」
「ワーグナーではないのですね」
「ロココを感じたいのです」
だからだというのであった。
「ですから」
「またフランスなのですね」
「はい、あの部屋で聴きたいです」
そのフランスの装飾品によって飾られた部屋でだというのだ。彼はいつもその部屋で音楽を聴いているのだ。だからだった。
「ですから」
「はい。ただ」
「ただ?」
「今はあの時とは違います」
「ロココのあの頃とはですね」
「それはわかっていますね」
我が子を見上げたままの言葉だった。
「そのことは」
「どうでしょうか」
「わかっています」
太子の返事は聡明なものだった。
「今は十九世紀です。革命を二度も経た」
「しかもそのロココもです」
「終わっています」
また答える太子だった。
「無論それは私とてです」
「わかっているというのですね」
「母上、ナポレオンを知らない者はいません」
フランス革命のことだ。それを象徴する人間として出したのだ。
そしてだ。それだけではなかった。ナポレオンは。
「あの、この国を王にした英雄を」
「そうですね。ヴィッテルスバッハ家を王にしたあの英雄を知らない筈がありませんね」
「そういうことです。ですから私とてです」
また言う太子だった。
「わかっています」
「それならいいのですが」
「そしてです」
「そして?」
「そのうえで愛しているのです」
これが太子の母への言葉だった。
「ロココを。それは私にとって憧れなのです」
「憧れであればいいのですが」
「憧れであればとは」
「既になくなったものは夢でしかありません」
母后が言うのはこのことだった。
「そう、夢です」
「夢ですか」
「現実にはないもの。それをこの世に現そうとするとです」
「そこに何かがありますか」
「どうなるかはわかりません。ただ」
「ただ?」
「それが貴方の運命を歪にするものの一つにならなければいいのですが」
我が子の顔を見てだった。その絵画の如く整った顔をだ。
「貴方は只でさえ夢を追い求める方ですから」
「夢を」
「そう、夢をです」
そうだというのであった。
「神話に憧れ、ワーグナーに憧れ」
「ワーグナーは私にとっては」
「そうですね。全てになろうとしていますね」
「母上も聴かれましたね」
母后に問うた。ワーグナーのことを。
「あれは。一度聴けばです」
「ワーグナーは確かに素晴しいです」
母后もそのことは認めた。
「その音楽は斬新であります。ただ」
「ただ?」
「あれは麻薬です」
「麻薬ですか」
「そう、麻薬です」
まさにそれだというのだ。ワーグナーは。
「心の奥に染み入りそして捉えてしまう」
「それこそがワーグナーの魅力です」
「ですがそれが問題なのです」
「問題だと」
「そうです。特に貴方はそうなっています」
我が子のあまりものワーグナーへの耽溺が気になっていたのだ。彼は常にワーグナーの音楽を聴きその書を読んでいる。そしてなのだった。
さらにだった。近頃の彼は。
「あの服は何ですか」
「あの服とは」
「白銀の服です。他に緑の服も持っていますね」
「ローエングリンとタンホイザーですか」
「貴方は。何になるつもりですか」
「騎士に」
母后にはっきりと答えたのだった。
「それに」
「騎士団に入ったからですか」
「そうですが」
「そのことはいいのです」
またこう話すのだった。それはいいとだ。
「ですが。貴方は度が過ぎます。服まで仕立てるとは」
「遊びですが」
「そうは見えません」
「全てになっていると」
「王になれば」
この言葉は最早予言ですらなくなっていた。確かになっている未来だった。母后は我が子にその未来をも語ったのであった。
「貴方は今度は何になるつもりですか」
「それは」
「ハインリヒ王ですか」
ローエングリンに出るドイツ王だ。王となる我が子とその王がどうしても心の中で重ね合わさってだ。こう言わざるを得なかったのだ。
「今度はそれになられますか」
「王は王です」
これは言うのだった。
「ですが」
「ですが?」
「私はやはり。あの騎士にこそ」
「ローエングリンにこそ」
「憧れます。どうしても」
そうだというのだった。
「それはいけませんか」
「度が過ぎなければ。それが貴方の心を閉ざさなければ」
「閉ざすと。ワーグナーが私の心を」
「そうなってしまうような気がします。だからこそ気をつけて欲しいのです」
「心配性ですね。母上」
母のその気遣う言葉を聞いていてだ。苦笑いになってしまって言うのだった。
「私はそこまでは」
「なければいいのですが」
「私は王になります」
その確かな未来は自分でもわかっていた。そして言うのであった。
「そしてその務めも」
「果たしますね」
「それは約束します」
「では王として」
「はい」
「その責務と誇りを忘れないことです」
このことをだ。我が子に強く告げた。
「そしてこの世を見ることです」
「この世を」
「貴方にはそれは辛いですか」
「私は。この世にあるあらゆるものが見えるようです」
ふとだ。太子のその目に悲しいものが宿った。その青い目にだ。
「人の心が」
「心が」
「渦巻くものが見える時があるのです」
そうだというのだった。
「どす黒く。そして不気味なそれが」
「人には誰にもあるものですが」
「それはわかっていますが」
「ならば受け入れることです」
母は我が子にまた言った。
「それもまた」
「受け入れよというのですか」
「王ならば清らかなものだけを見る訳にはいきません」
「醜いものもまた」
「はい、見なければなりません」
そうだというのであった。
「そして」
「そしてですか」
「王としての務めを果たすのです」
これが我が子への言葉だった。
「宜しいですね」
「清らかであってならないとでもですか」
「それでもです」
また我が子に告げた。
「よいですね」
「私にそれができるでしょうか」
母の今の言葉にはだ。戸惑いを感じるしかなかった。戸惑いというよりはそれは受け入れ難かった。その彼を見てであった。
母后はだ。今度はこのことを告げたのだった。
「若し貴方が王にならなければ」
「その時は」
「わかりますね。オットーが王となります」
彼の弟である。たった一人の弟だ。だが彼が問題なのだった。
「あの子は。どうやら」
「今日はどうなのでしょうか」
「落ち着いています」
「そうですか」
「しかし。それでもです」
「王になるには」
「無理です」
母后は首を横に振った。そのうえでの言葉だった。
「何があろうとも」
「ではやはり私が」
「その通りです。貴方しかいないのです」
その太子がだというのである。
「ですから。わかりますね」
「わかりました。それではやはり」
「貴方がバイエルンの王となるのです」
絶対の言葉だった。我が子に対してのだ。
「そしてその務めをです」
「果たします。それでは」
「王としてバイエルンを支えるのです」
「はい」
母后の言葉に頷く。彼もそれしかないとわかっていた。選択肢はなかった。
その彼にだ。遂にその知らせが届いた。
馬に乗っていた。白馬である。青い上着に白いズボンといういでたちで馬に乗っていた彼が降りるとだ。そこに従者達が来て告げたのだった。
「殿下、悲しいお知らせです」
「陛下が」
「そうか」
太子は彼等の言葉を聞いてすぐにわかった。
「父上が」
「はい、そうです」
「今しがた知らせが届きました」
「ではだ。すぐにだな」
「はい、すぐにです」
「宮殿の中に向かって下さい」
「そしてすぐに」
すぐにというのであった。
「準備をはじめて下さい」
「王になられるその準備を」
「わかっている。ではな」
こうしてだった。彼は王になる用意に入った。その夜だった。
彼は自分の部屋にいた。絹のカーテンに豪奢な天幕のベッド、それといい装飾の椅子に見事な絵画で飾られたその部屋の中でワインを楽しんでいた。
しかし彼は一人ではない。他にもいた。
しかも何人もだ。誰もが若く美しい男達だ。太子は彼等に声をかけた。
「間も無くだ」
「殿下が王になられますね」
「遂にですね」
「このバイエルンの王に」
「そうだ、王になる」
その通りだとだ。太子も述べた。彼は今ソファーに座っている。そして男達は彼の周りにはべっている。まるでハーレムの様に。
「だが。母上に言われた」
「お后様から何と」
「何と言われたのでしょうか」
「私達のことでしょうか」
「それはない」
彼等のことではないというのだった。
「しかしだ」
「しかしですか」
「では一体何でしょうか」
「何を言われたのでしょうか」
「王としての務めについてだ」
このことを話すのだった。ありのままに。
「言われた。美しいものだけでなくだ」
「それだけでなくですか」
「他のこともまた」
「言われたのですね」
「そうだ。そしてだ」
そしてなのだった。
「醜いものまで見るようにだ」
「醜いものまでなのですか」
「それもまた」
「見られよと」
「そうしなければならないのだろうか」
顔を見上げてさせてだ。太子は言った。目には暗がりと天井しか見えない。しかし彼は今は別のものを見ているのであった。
それを見ながらだ。彼は語った。
「王は。そうしなければ」
「やはりそうかと」
「それはです」
「王ですから」
男達も母后の言葉に賛同してそれぞれ言うのだった。
「仕方ありません」
「それは」
「そうなのか」
それを聞いてもだった。太子の返答はいささか虚ろなものだった。
そしてその虚ろな声でだ。彼はまた話すのだった。
「王ならば」
「はい、王ならばです」
「それ義務です」
「国の主なのですから」
「このバイエルンの」
太子もわかっていた。だからこそ呟いたのだった。
「この国の」
「そう思いますが」
「どうなのでしょうか」
「わかっている」
こう答えはした。
「それはだ。しかし」
「しかしですか」
「それでもなのですね」
「私には望みがある」
太子の言葉には願いがあった。明らかにだ。
「それを成し遂げたいのだが」
「王になられればですか」
「その時にこそ」
「そうだ、王になればすぐにだ」
何をするかだ。彼は自ら語った。
「ワーグナーをだ」
「リヒャルト=ワーグナーですか」
「あの音楽家をですね」
「やはり。彼を」
「救わなければならない」
願いであったがだ。それは彼の中では義務にさえなっていた。
そしてだった。彼はさらに話すのだった。
「必ずだ」
「殿下、ではその彼もまた」
「こうして我等の様に」
「愛されるのでしょうか」
青年達はここでこんなことを尋ねたのだった。
「夜に共に褥で」
「これからの様にでしょうか」
「そうされるのですか」
「いや、それはしない」
それはしないというのであった。これは断言であった。
「私は彼を敬愛している」
「敬愛ですか」
「愛情ではなくそれなのですか」
「いや、愛情もある」
敬愛と愛情がだ。共にあるというのである。
「だが。肉体ではなく心のだ」
「その愛ですか」
「ワーグナーへの愛は」
「それだと仰るのですね」
「その通りだ。それでだ」
さらに言うのであった。
「ワーグナーを救う。それではな」
「では殿下、それでは」
「これからは」
「この夜は。どうされますか」
「褥にだ」
一言で述べた彼だった。
「行くぞ。いいな」
「はい、わかりました」
「それでは共に参りましょう」
「そこに」
「言われているらしいな」
太子はワインを飲む手を止めてだ。そのうえでこう話してきたのだった。
「私が。女性を遠ざけているということを」
「御気になされることはありません」
「そのことは」
答える彼等だった。その通りだとだ。
「世の者の言葉がくちさがないものです」
「それを一つ一つ気にしてはです」
「どうにもなりません」
「ですから」
「いや」
しかしであった。ここで太子は言うのだった。
「私は。その声も目もだ」
「御気になられますか」
「どうしても」
「わかっているが逃れられない」
俯いてだ。辛い顔での言葉だった。
「どうしてもだ。どうすればいいのだ」
「ですからそれは」
「下らない者の言葉や視線なぞです」
「御気にされることは」
「だといいのだが」
どうしてもだった。その言葉は雲っていた。
それを自分でも拭えないままだ。彼は言うのであった。
「私は。どうしてもだ」
「では我等はその殿下を御護りしましょう」
「殿下の騎士として」
「それで宜しいでしょうか」
「頼めるか」
太子は細い声で彼等に告げた。
「では」
「はい、それでは」
「何時までも殿下を」
「そうさせて頂きます」
「それではな」
こう話してだった。彼等は今は褥の中に入った。そしてであった。
即位の時が来た。太子が王となる時が遂に来たのだ。
彼はかつての乳母にだ。手紙を書いたのであった。
「私は私の全てを玉座に注ぎます」
このことからはじまりだ。あくまで己の国民のことを思っていた。
それは強い誓いだった。確かにだ。
そして父であった先王の葬列を先導するバイエルンの軍服姿の王の姿を見てだ。バイエルンの国民達だけでなく彼の姿を見た他国の者達も言うのだった。
「素晴しい方だな」
「そうだな。何と美しい」
「背は高く姿勢がいい」
「すらりとしているな」
「目鼻立ちは繊細だ」
「まるで絵画だ」
「ここまで美しいとはな」
こう言ってなのだった。彼等はその王の姿に魅了されたのだった。
古代ギリシアの彫刻を思わせるその彼に誰もが魅了された。馬に乗る彼の姿はまさに絵画そのものだった。
その彼が王になるとだ。すぐにある問題が語られるのであった。
「プロイセンだな」
「あの国とどう付き合うかだ」
「今まさにドイツを席巻しようとしている」
「オーストリアと戦争になるか」
「このままいけばな」
誰もがプロイセンとオーストリアの衝突は近いと思っていた。
フランス皇帝ナポレオン三世は言うのだった。
「間違いなく戦争になる」
彼もまた両国の衝突を確信していた。それはどの国もだった。
「激しい戦争になる」
「ドイツの国の全てが巻き込まれる」
「当然バイエルンもだ」
「そうなるな」
「戦争は避けられるか?」
このことも話題になるのであった。戦争は確実と思われてもそこに希望を見出そうとする者は必ずいる。そうしたことをするのもまた人なのである。
「何とかして」
「どうだろうな。難しいだろう」
「やはり一度やり合うしかないだろうな」
「どちらも引かないしな」
そのオーストリアとプロイセンがというのであった。
「まずオーストリアは自分達も入れた大ドイツ主義だ」
「神聖ローマ帝国の再現だな」
この言葉が出た。かつてドイツを形成していた国だ。長い間、それこそ千年に渡って続いたが内実は諸侯の力が強く三十年戦争以降は有名無実化していた国である。ナポレオンにより完全に解体された国だ。
「それはまさにな」
「そうだな。神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルク家だった」
「完全にそうなる」
「あの国の再現だ」
「それに対して」
もう一方の話もされるのであった。
「プロイセンは小ドイツ主義だ」
「オーストリアを除外したドイツだな」
「これはかつてのドイツか?」
「神聖ローマ帝国成立前の」
このドイツだというのであった。
「それでも南ドイツの諸侯の国家も抱き込んでいるな」
「あのバイエルンもな」
「バイエルンはどちらにしても入るな」
そしてなのだった。バイエルンのこの事情が注視された。
「それがどうなるかだな」
「どっちになっても得をするか」
「それとも損をするか」
「バイエルンはどうなるかだな」
「この辺りの舵取りはかなり厄介だ」
このこともまた話された。バイエルンの外交についてである。
「さて、あの若い王様はどうされるかな」
「外見だけじゃ駄目だからな」
「ああ、王としての資質はどうか」
「見物だな」
まだ即位前だというのにこんな話が出ていた。バイエルンを取り巻く状況は決して穏やかなものではなかった。不穏なものがあった。
それは太子も聞いていた。王になる直前でもだ。
「陛下、まずはプロイセンです」
「あの国とどうして付き合っていくかです」
「それが問題です」
周りの者達も口々にこう彼に言うのだった。
「そしてオーストリアですが」
「あの国についてもですが」
「外交が肝心です」
「プロイセンだが」
その彼等に対してだ。太子はその落ち着いた声で述べるのだった。
彼の声はうわずったり興奮したりすることはない。常に王に相応しい者としてだ。穏やかさと気品を保ったまま話すのであった。
「母上がプロイセン出身だ」
「はい、その通りです」
「それは」
「そしてだ」
太子の言葉は続く。
「オーストリアにはシシィがおられる」
「エリザベート様ですね」
「あの方が」
「まずはこの二つだ」
縁戚から話すのだった。欧州では王家同士の縁戚が非常に多い。そして重要な意味を持っているのである。
「どちらについてもおかしくはないな」
「その通りです」
「実際にどの国もどの者もそれがわかっています」
「だからこそです」
バイエルンの動向が注視されるのであった。そしてだ。
バイエルンが注視される理由はそれだけではなかった。こうした理由もあるのであった。
「次にだ」
「はい」
「次には」
皆太子のその言葉を聞くのであった。その言葉は。
「我がバイエルンはこの南ドイツの中心だな」
「南北でも東西でもですね」
「どちらに分けても我がバイエルンはそこの中心にあります」
「南、若しくは西の」
「その中心にあります」
「このドイツにある国の中で第三の勢力だ」
太子は冷静に述べた。
「国力そのものは両国に落ちるがな」
「それでも第三だと」
「そう仰いますね」
「確かに」
「今言った通りだ」
ここではこう返した太子だった。
「まさに我がバイエルンの動向がドイツに大きく影響する」
「ですから軽はずみには動けません」
「それは御了承下さい」
「まことに些細な間違いがです」
「バイエルンを大きく誤らせてしまう」
太子はそこからは自分で話した。
「そうなるな」
「はい、ですから」
「殿下、ここはです」
「王となられたらすぐにです」
「どうされるかお決め下さい」
「その必要はない」
ところがだった。太子は今の周りの言葉にはこう返したのであった。
そしてそのうえでだ。こうも言うのであった。
「急ぐ必要はない」
「それは何故ですか」
「両国の対立は不可避だというのに」
「それでもですか」
「確かに対立は不可避だ」
それは太子も認めることであった。これは否定できなかった。
「だが、だ」
「だが」
「何故急がれないのですか」
「それはどうしてでしょうか」
「お聞かせ下さい、その理由を」
「そう、理由だ」
周りの者の一人の言葉に反応を見せてだった。
「理由が必要なのだ」
「?ここでの理由とは」
「衝突する理由だ」
それだというのであった。
「それが問題になるな」
「では今すぐではないのですね」
「両国の衝突は」
「そうだ、まだだ」
これが太子の見解だった。彼はそう見ていたのだ。
「まだ動きはない」
「それでは今は」
「お互いに警戒し合っているところですか」
「まだ」
「そうだ、戦いはまだはじまらない」
太子はまた己の見解を述べた。
「おそらくはだが」
「おそらくは」
「どうだというのですか、それで」
「今デンマークで騒動が起こっている」
ドイツの北にある国だ。古い王国である。
「シュレスヴィヒ、ホルシュタインでだ。そこだな」
「あの二つで、ですか」
「そこでなのですね」
「あの場所での騒動が発端になる」
太子はまた言った。
「そこに両国が介入する。そこから話がはじまる」
「そうなりますか」
「あそこからですか」
「そこからはじまる。だが今すぐではない」
またこう言う太子だった。
「とりあえず今はだ」
「はい」
「我がバイエルンも備えをですね」
「戦争への備えを」
「今のうちから」
「それは別にいい」
だが、だった。太子は戦争準備はいいとしたのだった。それは特に何でも問題にないようにだ。言ったのであった。そうだったのだ。
「我が国は特に何もせずともよい」
「いえ、それは」
「そうはいかないのでは」
「やはり」
「どうかな。だが一つ言っておく」
ここで、だった。太子はその顔を曇らせた。そうしてそのうえでだ。こんなことも述べたのであった。
「私は戦いは好まない」
「それはなのですか」
「戦いは好まれませんか」
「それは何故ですか」
「戦いが何を生む」
その曇った顔での言葉だった。
「戦いがだ。何を生むのだ」
「国家の発展です」
「勝利によって得たもので」
「それが得られるではありませんか」
「違いますか」
「そんなものはどうとでもなる」
何か、他の者には見えないような目でだ。彼は語った。
「どうとでもな」
「なるとは」
「そうなのでしょうか」
「それは」
「そうだ、戦わずとも外交で得られるものだ」
これが太子の考えだった。武よりも文を見ているのだった。
「それよりも戦いで何が失われる」
「何がですか」
「それが問題だと仰るのですね」
「殿下は」
「その通りだ。人が死に傷つく」
そのことからだった。太子が言うのはだ。
「そして多くの美しいものが破壊されていく」
「街や田畑が」
「そういったものがですか」
「三十年戦争でドイツは荒廃したな」
その長い戦争でだ。ドイツは多くの人命だけでなく国土を荒廃させてしまったのだ。千六百万いたといわれるドイツの人口は一千万まで減ったと言われ街も田畑も破壊された。そして多くの美しいものも失われたのだ。
太子はこのことを知っていた。そして多くの戦いの惨禍も学んできた。そうしてそのうえでだ。彼は戦いについて語るのだった。
「ああなってしまうのだ」
「それを好まれないからこそ」
「だからですね」
「それは」
「そうだ、戦いは駄目だ」
また言う彼だった。
「少なくとも私は好きにはなれない」
「では今は」
「何をされるというのですか」
「即位されたならば」
「既に考えている」
太子は答えた。
「その時にだ」
「左様ですか」
「ではさしあたっては即位ですね」
「その式を」
「王となれば」
遠くを見る目で話すのだった。
「私は彼を救えるのだから」
「救われるとは」
「一体?」
「誰をですか」
「・・・・・・・・・」
語らない彼だった。そうしてなのだった。
その即位の時が来た。その時はだった。
バイエルン中が歓喜の声に包まれる。特に王都ミュンヘンはだった。
「遂にだな」
「ああ、新しい王が即位されるぞ」
「あれだけ奇麗な王を戴けるなんてな」
「我々は幸せだ」
「全くだ」
彼等はそれぞれ言ってだった。彼の姿を見ようとしていた。
そうして大通りに並んでだ。彼を見んとしていた。
「さあ、そしてだ」
「来られるぞ」
「新しい王が」
「ルートヴィヒ二世閣下が」
「いよいよ」
そしてだった。彼等の王を見たのだった。濃紺の上着に白の乗馬ズボン、そして白テンのマントという姿の長身痩躯の王を見てだった。
「噂以上だな」
「ああ」
「あそこまで奇麗な人だとはな」
「信じられない」
誰もがだった。恍惚として言うのだった。
「我々は凄い王様を戴いたみたいだな」
「ああ、外見だけでも欧州一だな」
「ハプスブルクにもホーエンツォレルンにも負けないな」
「そうだな」
「あれだけの方とはな」
「それにだ」
ここでだ。さらに話されるのだった。
「見ろよ、あのお顔」
「奇麗だよな」
「見れば見る程」
「そうだよな」
「違うって」
その顔の奇麗さではないというのである。確かにあまりにも、絵画と見まごうばかりの美貌を誇る顔であってもだ。それでもだというのだ。
「だから。賢明そうだな」
「ああ、そういう意味か」
「王様のお顔な」
「そうだよな、あのお顔は」
「あの目は」
どうかというのだった。
「愚かな方じゃないぞ」
「むしろかなり聡明な方だ」
「全てを見すこし理解されてるような」
「そうしたお顔だな」
「いい目をしておられる」
新しい王は聡明ではないのか、そうしたようにも見られていた。そして実際にだ。彼等のその見方は間違ってはいなかった。
王の即位の式での立ち居振る舞いはだ。実に見事なものだった。そこには何の過ちも愚かさもない。何一つとしてだった。
その動きを見てだ。周りの者は言うのだった。
「素晴しいな」
「ああ、細かいところまで覚えておられる」
「見事な方だ」
「愚かな方ではない」
それがわかるのだった。王は間違いなく聡明である、その立ち居振る舞いからもわかるのだった。
その王を見てだ。他の国の大使達も見抜くのだった。
「外見だけではなくな」
「かなり聡明な方だ」
「欧州のこともバイエルンのこともわかっておられる」
「そしてどうされるべきかも」
「全てわかっておられる」
そのことをだ。王のこれまでの言葉や動きからもわかったのだ。
そしてそのうえでだ。彼等はまた話すのだった。
「あれだけの方ならばな」
「バイエルンは憂いを抱かずに済む」
「この国は素晴しい王を手に入れたな」
「これはバイエルンにとって僥倖だな」
「そうだな」
こう話していく。とかく見事な王であることがわかったのだ。
その王が即位してだ。皆その最初の命を待っていた。何を言うかだ。
即位の儀式の後で玉座に座る。その姿も絵になっている。
バイエルンの青の上着に白いズボンとマントにブーツ、その姿で玉座に座ってだ。彼は周りの者達を前にして言うのであった。
「では王よ」
「それではですね」
「これからどうされるか」
「何を言われますか」
「既に決めている」
玉座に座ってもその目は変わらない。遠くを見る目だ。
その目でだ。彼は言った。
「ワーグナーだ」
「ワーグナー?」
「ワーグナーといいますと?」
「あの音楽家ですか」
「陛下がお好きな」
「そうだ、そのワーグナーだ」
こう言うのだった。
「ワーグナーを呼びたいのだが」
「まさかこの国にですか」
「バイエルンにですか」
「呼ばれると」
「そうだ、ワーグナーを呼ぶのだ」
これが王の最初の命だった。
「よいな」
「あの、ワーグナーはです」
「今は何処にいるかわかりません」
「ドレスデンでの革命でのことで今もです」
「ドイツ中を転々としています」
「いえ、若しかすると」
どうかというのだった。そのワーグナーは。
「この国にいないかも知れません」
「ドイツにいるかどうかもです」
「わからないのですが」
「革命はもう過去のことだ」
王はそれにこだわらないのだった。
「最早だ。過去だ」
「過去ですか」
「そうだというのですか」
「そうだ、些細なことだ」
また言う王だった。
「そんなことはな」
「そんなことですか」
「あの革命もまた」
「そう仰るのですか」
ドイツはおろか欧州中を騒然とさせた革命であった。一八四八年のその革命によってだ。多くの国の政権が変わったのである。
民主化が進んだ。そしてその中でワーグナーは急進的な思想の下民衆を先導した。それを罪に問われてだ。彼は今も追われているのだ。
そしてだ。王はその彼について言うのだった。
「このことは前にも言った筈だが」
「それはそうですが」
「しかし真だったのですか」
「そのお考えは」
「そうだ、真だ」
まさにそうだというのであった。王はだ。
「わかったな。ではワーグナーをだ」
「その罪はいいのですか」
「バイエルンにおいてもその罪を問われていますが」
「それもまた」
「すぐに消す。そして」
さらに言う王だった。
「他の国にも伝えてくれ。もうワーグナーの罪は問わないようにとな」
「一人の、しかも人を殺めていないならばすぐに罪は消せますが」
「このバイエルンの力ならば容易です」
「それはです」
バイエルンはその程度の力はあった。しかしだと。周りの者は言うのであった。
「それをワーグナーに使われますか」
「あの男に」
「ワーグナーだからこそ使うのだ」
王は彼だからこそと言った。言い切った。
「それをだ」
「そこまでの者だと」
「あのワーグナーは」
「わからないのか、あの音楽はだ」
王の言葉は次第に恍惚となってきていた。そのワーグナーの曲を聴いている時の様にだ。
「あれだけの音楽を見せる者が今このドイツにいる奇蹟を」
「奇蹟」
「そこまでなのですか」
「彼の存在は」
「そうだ、だからだ」
また言う王だった。
「ワーグナーを救う。そして」
「そして」
「このバイエルンにですか」
「そうだ、この国に来てもらう」
真剣な言葉だった。嘘なぞ全くなかった。
「わかったな」
「は、はい」
「それでは今から」
「そのワーグナーをですね」
「しかし殿下」
ここでだった。一人が言うのだった。
「問題はそのワーグナーの居場所です」
「何処にいるのでしょうか」
「一体」
「まずは探さないといけないのですが」
このことが問題なのだった。何しろワーグナーは今はお尋ね者なのだ。
「このドイツにいるかどうか」
「それが問題です」
「どの国にいるのか」
こう話していく。
「陛下、まずはそれからです」
「暫く時間がかかりますがそれでもいいですか」
「彼を見つけるまでにも」
「構わない」
いいというのだった。
「とにかく見つけ出してそしてだ」
「ミュンヘンにですね」
「この街に」
「屋敷も用意しなければならない」
王は既にこのことを考えていた。ワーグナーについてだ。
そしてそのうえでだ。彼は次々に言うのであった。
「そしてなのだが」
「そして?」
「そしてといいますと」
「彼には多くの借金があったな」
王はワーグナーのことを知っていた。彼の行いや現状について細かく知っていた。当然そのお世辞にもいいとは言えない人間性までもだ。しかしそうしたことも踏まえてなのだった。
彼はワーグナーをだ。受け入れると言うのであった。
「それもだ」
「まさかと思いますが」
「陛下、その借金もですか」
「それもまた」
「どうにかされるというのですか」
「そうだ、当然のことだ」
王はまた言うのだった。決意している顔でだ。
「それもな」
「幾ら何でもそこまでは」
「そうです。手配されているのは仕方ないにしても」
「それは」
それはいいというのだった。彼等も王の決意に負けた形だった。
だがそれでもだった。借金についてはなのだった。
「自業自得ではありませんか」
「あの男、相当な浪費家の様です」
「ですからそれは」
「放っておいてもいいではないですか」
「いや、そういう訳にはいかない」
また言う王だった。
「それもだ。何とかしなければならない」
「しかし。その借金も膨大ですし」
「冗談にならないだけのものがあります」
「ですからそれは」
「幾ら何でも」
「いや、何とかする」
ここでも強い決意を言う王だった。
「それもだ」
「どうしてもなのですか」
「その借金までも」
「ワーグナーにそこまで」
「ローエングリン」
王はここでは王の名前を出した。
「私があのオペラをはじめて聴いた時、いやワーグナーを知った時に」
「その時からだと」
「仰いますか」
「そうだ、ローエングリンはモンサルヴァートからエルザを救いに出た」
その白鳥の騎士のことを話すのだった。
「そして私もだ」
「ワーグナーを」
「借金までも」
「全てを救う。では探すのだ」
「わかりました」
「そこまで仰るのなら」
誰もが折れるしかなかった。彼は既に王となったのだから。それでその言葉にあがらうことはできなかった。何しろ彼はただの王ではなかったのだから。
「何処までも純粋な方だ」
「底意地の悪さなぞ微塵もない」
「陰湿、陰険とは無縁の世界におられる」
「優雅で気品があられる」
そうした人物だった。それならばだ。
その言葉に従わざるを得なかった。彼の人柄もまたそうさせていた。こうしてワーグナーが探されることになったのです。王の最初の命令としてだ。
しかしその二週間前、王が即位する少し前にだ。ミュンヘンに一人の小柄で頭の大きな男がいた。
青い目が強い光を放っている。そこには知性だけでなく底知れぬ深さもある。顔付きは厳しさがあり額が広い。顎髭は頬髯と一緒になっておりそれが哲学者めいた印象を見せていた。
絹の服を着たその男はだ。聖金曜日の日に項垂れて自らの墓碑まで置いてそこに書いていた。
『無名の騎士団の騎士に叙せられることさえなく名を成すことのなかった』
こう書いてだ。そしてだった。
『ワーグナーここに眠る』
この言葉を書き残して姿を消した。だがそこでショーウィンドウーの若い、まだ太子である彼の肖像を見て一言呟くのであった。
「素晴しい方だな。必ず何かをされるだろう」
このことを直感で感じ取ったのであった。だが今は項垂れたままミュンヘンを去るのでだった。王が命じる少し前のことであった。
第三話 完
2010・11・26