第四話 遠くから来た
王は命じた。しかしだった。
ワーグナーを見つけることはだ。やはり容易ではなかった。
「庇護者の下を転々としているようです」
「官憲の目を潜り抜けることが上手でして」
「今一体何処にいるのか」
「全くわかりません」
「そうなのか」
王はそれを聞いてまずは頷いた。そしてそれからだった。こう言うのだった。
「それではだ」
「はい、それでは」
「どうされるのですか」
「ここで考えを変えるのだ」
これが王の言葉だった。
「いいか、ワーグナーはだ」
「はい、ワーグナーは」
「何でしょうか」
「何を好むか」
言うのはこのことだった。
「一体何を好むのか」
「何かとは」
「それは」
「何かですか」
「そうだ、ワーグナーが好むのは何か」
王はそれを周りの者に話す。
「それは何か。考えてみたことはあるか」
「ええと、それは」
「何かと言われますと」
「何でしょうか」
「そこまで考えたことは」
「森だ」
ここでだ。王はまた言った。
「森だ。ワーグナーの音楽にはだ」
「森がですか」
「あるのですか」
「ワーグナーの音楽の中には森があるのだ」
これは彼がワーグナーの音楽から感じ取っていることだった。彼の音楽の中にはだ。森があり王も今それを話すのであった。
「そう、森がだ」
「そうなのですか。森がですか」
「あるというのですか」
「城もあるがな」
次に言うのはこのことだった。
「城もだ。だが今考えるのは森だ」
「森といいますと」
「ではワーグナーは森にいる」
「そう仰るのですか」
「今はいないかも知れない」
王はワーグナーが各地を転々としていることを踏まえて述べた。
「しかしだ。手掛かりはある」
「ワーグナーの手掛かりがですね」
「それが」
「そうだ。森を探すといい」
そしてだ。王は次には人の名前を出した。それは。
「リヒトだな」
「フランツ=リヒトですか」
「そういえば彼はワーグナーの熱烈な擁護者でしたね」
「そうでしたね」
高名な音楽家である彼については誰もが知っていた。そうしてそのうえで話すのだった。リヒトとワーグナーが親密な関係にあることも知っていた。
それでだ。彼等も言うのだった。そして王もだった。
「あのローエングリンだが」
「あのオペラですか」
「そこにも何かありますか」
「ワーグナーはあのオペラを彼に贈っているのだ」
このことも話すのだった。
「もう一人の自分に、と書いてな」
「もう一人の自分ですか」
「ワーグナーはリヒトをそこまで認めているのですか」
「そしてリヒトもまた」
「ワーグナーを」
「そうだ、そうしているのだ」
それでまた話す王だった。
「そこから彼が今いる場所を考えるといい」
「一時ヴェーゼンドルク家にいたことはわかっています」
「そこで問題があったそうですが」
彼等はそこでワーグナーがヴェーゼンドルク夫人と問題を起こしたことも知っていた。だが王にはそのことをあえて言わなかったのだ。
だが王は問題という言葉に目を微かに動かした。しかしそれ以上は言わずにだ。それでまた彼等の話を聞くのであった。
「とにかく中々居場所がわかりません」
「借金取りにも追われていますし」
「彼等からも逃げていますし」
「見つけ出すのは」
「しかしだ。森とリヒトだ」
またこの二つを話に出す王だった。
「こうしたことから考えていってくれ」
「推理してですか」
「そうしてですね」
「ワーグナーを探し出せと」
「その通りだ。ワーグナーは間違いなく生きている」
これは確かだった。死んでいる筈がないことはわかっていたのだ。
「そして多くの手掛かりがあるのだ」
「ではその手掛かりを使って」
「そうしてワーグナーをですね」
「探し出しこのミュンヘンに案内する」
「陛下の御前に」
「その時を待っている」
王の言葉に切実なものが宿っていた。
「だからだ。頼んだぞ」
「わかっています」
「そのことは」
周りの者の言葉も切実なものだった。彼等もまたこの若く純粋な王を敬愛していた。彼にはそれだけのものが備わっているのは確かなのだ。
そしてだった。周囲はワーグナーを探し続けた。その中であることがわかった。それは。
「ワーグナーがか」
「はい、ミュンヘンにいました」
「少し前にです」
「陛下が即位される二週間程前にです」
「このミュンヘンにいたのです」
「惜しかったな」
王はそのことを聞いて唇を噛んだ。無念さがその顔に出ていた。
「それは」
「はい、全くです」
「その時にここに連れて来ればよかったのですが」
「それは適いませんでした」
「残念なことに」
「しかしだ」
だがここで王は気を取り直して言った。
「このミュンヘンにいたとはな」
「はい、それは確かです」
「ついこの前に」
「そのことはいいことだ」
微笑んでだ。そのうえでの言葉だった。
「実にな」
「おそらくこの近くにいるでしょうか」
「まだ」
「いや、そうとは限らない」
楽観はしていなかった。決して。
「二週間もあれば馬を使えばだ」
「かなりの距離を進める」
「そういうことですか」
「ましてやお尋ね者で借金取りに追われているとなればだ」
王は洞察していた。深く細かいところまでだ。
「尚更だ」
「若しくは人知れない場所に潜伏しているか」
「そうだというのですね」
「そうだ。探し出すのは容易ではない」
王はこのことはよくわかっているのだった。誰よりも。
「だからだ。慎重に頼む」
「はい、わかっています」
「そのことは」
周りも王のその言葉に応える。そうしてだった。
またワーグナーを探しはじめる。その中でわかってきたことは。
ワーグナーの人生だった。調べているうちにわかってきたのだ。周りの物達も王に対して彼の人生について語るのであった。
「いや、恐ろしいまでにです」
「波乱万丈の人生です」
「あれだけの人生を歩んだ者とは思いませんでした」
「いや、全くです」
「そうなのだ」
そしてだった。王の返事は知っている者の返答だった。
「彼はだ。凄まじい人生を歩んできたのだ」
「一八一三年にライプチヒで生まれています」
「イタリアのヴェルディと同じ年です」
「即ち歳が同じです」
「そうだ、二人の生まれた時は同じだ」
ここでも知っている者の返答を出す王だった。
「全くな」
「そうですね。妙に因果じみたものを感じます」
「このことには」
「それもまた運命だ」
王は静かに語った。
「ワーグナーのな」
「そこはライプチヒでした」
「ワーグナーが生まれた場所はそこでした」
「この年のライプチヒは」
その都市についてもだ。話すべきものがあるのだった。
「あのナポレオンが敗れています」
「あの場所での戦いで」
「そしてフランスを去ることになりました」
「戦いか」
戦いについてはだった。その名を聞いただけで王の整った顔が曇った。
「そうだったな。あの年のライプチヒだったな」
「はい、ナポレオンが激戦の末に敗れています」
「そして退くです」
「そのうえでエルバ島に流されています」
「戦いがあった。それもまた運命だったのだ」
王はここでも運命だと述べた。
「何もかもが」
「多くの兄弟がいました。ですが父は彼が幼い頃に亡くなっています」
「母はその夫の友人と再婚しています」
「ワーグナーには二人の父がいました」
「その継父は実にいい人物でワーグナーを可愛がっていました」
このことわかってきたのだった。そこまでだ。
「ただ。母親との関係は微妙なものがあったようです」
「疎まれてはいませんでしたが」
「どうもワーグナーの感情にしこりがありました」
「そのせいでそうなっていたようです」
「そうだったな。彼の環境は妙に複雑なものがある」
王はまた言った。そしてだった。
ここでだ。王から言うのだった。
「少年時代からだったな」
「はい、その頃から女性が周りにいました」
「ある姉妹に恋慕の情を抱いたこともあります」
「そしてその頃にです。シェークスピアの影響を受けて」
一人の偉大な劇作家の名前もだ。出たのだった。
「そしてそのうえで壮大な劇を書いています」
「確かその題名は」
「ロンバルトだな」
ここでも自分から言う王だった。その遠くを見る青い目でだ。
「そうだったな」
「あっ、はい。そうです」
「その通りです」
周りの物達は王のその言葉にすぐに頷いた。
「ロンバルトといいます」
「ですが彼自ら破棄して今はありません」
「最早」
「そうだな。見られないのが残念だ」
このことにはだった。王は心から無念のものを見せた。言葉が曇りそうしてそのうえで両手でそれぞれの互いの肘を持って言った。
「そのことがな」
「どうも作品にかなりの誇りがあるようで」
「失敗作を許せないようです」
「その頃から」
「それがワーグナーだ」
王の言葉は今度は敬愛の念を込めたものになっていた。
「それこそがな」
「そして二十歳の時に最初のオペラを書いています」
「妖精という作品です」
「これは楽譜も脚本もあります」
このことも王に話される。
「それはですが」
「陛下も確か」
「うむ、観ている」
上演させたのだ。彼自身がだ。
「だが、だ」
「だがですか」
「違いますか」
「今のワーグナーではないな」
こう言うのであった。
「どうもな」
「左様ですか」
「そこまで違いますか」
「そしてその次の作品もだな」
王から話を進めた。
「恋愛禁制だったな」
「あれはシェークスピアでしたか」
「尺には尺でしたね」
「あの作品をオペラにしたのですね」
「脚本は彼が書いた」
また言う王だった。
「彼は脚本は全て自分で書くからな」
「そうした作曲家もいないですが」
「他には」
「彼は舞台の全てを手がける」
それこそがワーグナーだというのである。
「演出も全てだ」
「ううむ、多才なのでしょうか」
「そうした人物なのですか」
「少なくとも作曲だけではない」
それに止まらない。ワーグナーはそうだというのである。
「そうしたことにもだ」
「才能を発揮しているのですね」
「それで恋愛禁制もですか」
「まだ彼らしさを発揮していないがな」
恋愛禁制でもまだだというのである。ワーグナーらしくはないとだ。
「それはな。だが」
「だが?」
「だがといいますと」
「次だ」
王は今度はこう言ったのだった。
「次の作品だ」
「リエンツィですか」
「あれですね」
「あれは大成功でしたね」
「ワーグナーにとっては最初の」
「そうだ、あれは成功した」
実際にそうだとだ。彼は話すのであった。
「あの序曲もいい」
「あれは私も聴きました」
「私もです」
「何度か聴きました」
そのオペラの序曲はというのだ。周りの物達は話していく。
「何か聴いていると気が昂ぶります」
「えも言われぬ高揚感を感じます」
「あれはいい曲ですね」
「そうだ、そしてタイトルロールのリエンツィ」
主人公の話もするのだった。そのオペラの主人公である。
「あれこそがワーグナーなのだ」
「あれがですか」
「あれがワーグナーですね」
「あの主人公がなのですね」
「そうだ、私は思う」
王の言葉もまた高揚の中にあった。そうしてその中で語るのだった。ワーグナーとは何か、静かな高揚の中で語っていくのだった。
「ワーグナーは何によってワーグナーか」
「音楽によってでしょうか」
「つまりは」
「それと脚本」
「そして演出で」
「それだけでは完全ではない」
しかし王はここでこう返した。
「そこにだ」
「そこに」
「何が来ますか」
「次には」
「そのタイトルロールだ。ワーグナーの主人公の多くは」
王は話し続ける。それは。
「テノールだな」
「ああ、あのテノールですか」
「あれはどうも不思議です」
「あの様なテノールは聴いたことがありません」
「全くです」
そのワーグナーのテノールについてはだった。誰が手に取っても全くわからないといった面持ちでだ。そのうえで話すのだった。
「あれは何なのですか」
「あのテノールは一体」
「どういったものでしょうか」
「ヘルデンテノールだ」
それだというのだった。王は言った。
「あれはヘルデンテノールだ」
「英雄ですか」
「そうしたテノールなのですか」
「つまりは」
「そうだ、それだ」
まさにそれだというのであった。王の言葉にはさらに熱いものが宿っていた。それは普段は何か遠くを見ているような彼には珍しいものだった。
「ワーグナーのテノールは英雄なのだ」
「英雄」
「それがですか」
「ワーグナーを完全にするもの」
「そうなのですか」
「元は。そうだな」
王は己の中にある深い教養から話した。
「モーツァルトやベートーベンにあったか」
「そこにですか」
「あったのですか」
「イドメネオのタイトルロールやフィデリオのフロレスタン」
どちらもテノールの役である。それも独特な。
「そしてウェーバーだな」
「どれもドイツのオペラですね」
「ドイツ語のオペラからですね」
「そうだ、ワーグナーも当然観ている」
そうしたオペラもだとだ。王はワーグナーのそうしたところまで洞察していた。そしてそれはまさにその通りだったのである。
それを話していくのだった。その次第に熱くなっていく口調でだ。
「そしてそれによってだ」
「ああしたテノールが生み出されたのですか」
「ヘルデンテノールが」
「声域はバリトンに近い」
そのヘルデンテノールの声域についても話された。
「しかし高音を出しほぼ常に舞台にいるな」
「そしてその舞台の中心にいる」
「そうした役ですね」
「それがヘルデンテノールだ」
王は見ていた。そのヘルデンテノールをその目にだ。
「まさにな」
「そしてそれがリエンツィで出て来たと」
「ワーグナーの作品の中で」
「そうした意味で極めて重要だ」
王は語った。
「そういうことなのだ」
「しかしです」
「陛下、リエンツィの後はです」
「明らかに変わっていますね」
「それがわかるのだな」
ここでだった。王は笑顔になるのだった。
「そうだ、さまよえるオランダ人だ」
「ワーグナーの音楽が変わってきています」
「まさにワーグナーになってきているのですね」6
「あの作品ではヘルデンテノールはいない」
王はこのことを指摘した。
「しかしだ。それでもだ」
「音楽が、ですね」
「ワーグナーになってきている」
「そうなのですね」
「そうだ、ワーグナーになったのだ」
そこからだというのだった。王の言葉にはさらに熱が入ってきていた。
そうしてだ。王は次の作品を出した。
「タンホイザーだが」
「そういえば陛下はワーグナーの中ではですね」
「ローエングリンの他にはタンホイザーを愛されてますね」
「あの作品も」
「素晴しい作品だ」
恍惚として話す王だった。
「聴いているとな」
「違うのですね」
「そう仰るのですね」
「そうだ、他の誰の音楽でもない」
「独特の世界がそこにある」
「そうだというのですか」
「あれこそがヘルデンテノールなのだ」
またこの言葉が出た。その独特のテノールを出したのだ。
「この世にありながらこの世にない。そのテノールがだ」
「あの世界にいるというのですね」
「では陛下は」
「タンホイザーにもまたなりたい」
王は言った。
「ローエングリンだけでなく」
「あのヴェーヌスベルグにですか」
「行かれたいのですか」
「ワルトブルグも好きだ」
ヴェーヌスベルグは官能の世界、そしてワルトブルグは清純の世界である。王はそのどちらに対しても熱い目を向けていた。
そのうえでだった。彼は今語るのだった。
「私はどちらも好きだ」
「官能と清純を」
「どちらも」
「ワーグナーはその二つを一つにしたのだ」
そしてだった。王は言った。
「エリザベートとヴェーヌスはだ」
「あの作品のヒロイン達ですね」
「姫君と女神」
「その両者ですね」
「彼女達は二人ではないのだ」
そうだというのだった。二人ではないというのであった。
「一人なのだ」
「一人!?そうなのですか?」
「あの両者は」
「そうだ、同じ存在なのだ」
こう言うのだった。
「タンホイザーはそのどちらも見ていたのだ。エリザベートとヴェーヌスは二人ではない。両者は鏡の様なものなのだ」
「ではどちらもですか」
「同じ存在なのですか」
「陛下はそう考えられているのですね」
「私は女性については興味がない」
このことは言い切る。王の嗜好だった。
「だが。それでもだ」
「エリザベートは愛されますか」
「そしてヴェーヌスも」
「何故か。同じに感じる時がある」
王の言葉が現実を離れた。
「私は。彼女達とは」
「そうなのですか?」
「それは流石に無いと思いますが」
「確かに」
王の今の言葉にはだった。誰もがいぶかしんだ。
王は長身の美男子だ。それに対して彼女達は美女ではあるが女だ。それでどうして同じとまで感情移入できるのか、それがわからなかったのだ。
それでだった。周りはさらに問うのだった。
「むしろ陛下はです」
「王なのですから」
「そうだな。ヘルマンかハインリヒ王だな」
ヘルマンはタンホイザー、ハインリヒ王はローエングリンに出て来る。どちらも君主として出ているのだ。王は彼等だというのだ。
「しかし私はだ」
「彼女達なのですか」
「そうだと」
「そう思う時がある。その同じである彼女達とな」
「ではローエングリンもですか」
「あちらもですか」
「エルザだな」
遂にだった。ローエングリンの話に届いたのだった。
「彼女についても思う。これはゼンタもだが」
「さまよえるオランダ人のですね」
「彼女だと」
「そうも思う。本当に不思議だ」
「我々にはわかりません」
「それは」
「ローエングリンをはじめて観た」
十六歳の時のことだった。今度はその記憶を遡ったのだった。
「その時からだ」
「エルザ姫に心を移されていたのでしょうか」
「その時にも」
「ローエングリンに会った」
まさにエルザの言葉だった。それ以外の何でもなかった。
「それは私の運命だったのだ」
「陛下はあの騎士をことの他愛されてますが」
「あの騎士になりたいのですか」
「白鳥の騎士に」
「なりたいとも思う」
その通りだと。このことを認めたのだった。
「しかしだ」
「エルザ姫にですか」
「御自身を」
「どうしてそうなるのか。私は男だ」
これは自分でもわかっていた。それも実によく。
「それだというのにだ」
「それがどうしてなのかはです」
「我等にもわかりません」
「ですが」
周りの者はいささか言葉を濁して王に話していく。そうしてだった。こう話したのだった。
「陛下、今はです」
「そのワーグナーが何処にいるのかを知りです」
「このミュンヘンに」
「そうだな」
王も彼等の言葉に頷きだ。そうしてだった。
「とにかく探し出してくれ。いいな」
「わかっております」
「では。彼を」
ワーグナーを探すことは続いていた。そしてであった。また新たな情報が入ったのだった。
「ウィーンにいたのですね」
「王立歌劇場にいました」
「それは知っていた」
王はこの報告に対してすぐに述べた。
「そうしてだな」
「はい、自身の作品の上演をしようとしていました」
「トリスタンとイゾルデという作品です」
「かなりの大作らしいですが」
「しかし上演できなかったのだな」
王からの言葉だった。
「残念なことに」
「歌手を選ぶ作品だとか」
「それも主役二人共とのことです」
「何十回も舞台稽古をしてそれでもです」
「上演できなかったそうです」
「ワーグナーらしい」
王はそのことを認める言葉を出したのだった。
「彼は完璧主義だ。何もかもがな」
「だからですか」
「そうして何度も何度も稽古をさせていたのですね」
「自身も立ち会って」
「相当なことをしていたのだな。だがそれでもだ」
どうなったか。話が元に戻った。
「上演できなかった」
「その作品もどうなるかわかりません」
「また。トリスタン以上の大作があります」
「それは」
「指輪か」
また王からの言葉だった。そう言ってみせたのだ。
「それだな」
「はい、ニーベルングの指輪です」
「何でも四部からなるとか」
「それだけの途方も無い作品も上演されないままです」
「そちらもどうなるのか」
「それを上演させるのがだ」
王の青い目に不思議な光が宿った。そのうえでの言葉だった。
「私なのだ」
「陛下がなのですか」
「そのどうなるかわからない作品をですか」
「上演させると」
「そうだ、私がだ」
また言う王だった。
「そうさせるのだ。だからこそワーグナーを探しているのだ」
「彼の音楽の為に」
「その為に」
「彼は求めているのだ。助けを」
そしてなのだった。ワーグナーを探し続ける。その中でだ。
王室秘書官長のブフィスターマイスター男爵を呼んでだ。こう告げたのだった。
「ウィーンに行ってくれ」
「ワーグナーを探す為にですね」
「そうだ、その為だ」
まさにその為にだというのだ。彼をウィーンに行かせるというのだった。
「ウィーンの王立歌劇場にいたならだ」
「そこに多くの手掛かりがあるからですね」
「その為だ。すぐに行ってくれ」
「わかりました。ですが」
男爵は王の言葉に頷いた。しかしなのだった。
彼は浮かない顔になってだ。王に対してこう話したのであった。
「私が行くとです」
「いらぬ噂が広まるというのだな」
「はい、それは絶対にです」
広まるというのである。
「そうなってしまいますが。陛下のご成婚のことや外交のことでも」
「そうだな。しかしだ」
「しかし?」
「それもまたよしだ」
聡明さがわかるはっきりとした顔での言葉だった。
「卿が動くことで噂が流れればだ」
「他の政務のことへのカムフラージュになると」
「だからだ。それもまたよしなのだ」
そうしたこともわかっている王だった。彼はわかって命じているのだ。そしてであった。王は彼に対してあらためて命じるのだった。
「ではだ。いいな」
「はい、それでは」
こうして男爵はウィーンに向かった。早速マグデブルグの新聞が彼の動きに気付き書きはじめた。彼の同行は筒抜けだった。
しかしその目的はわかっていなかった。彼はウィーンに着くとすぐにだった。
ワーグナーに関する調査をはじめた。その結果わかったことは。
「間違いないな」
「はい」
「そうですね」
男爵にだ。同行する外交官達が彼に述べていた。彼はウィーンの大使館にいてそうしてだった。彼等の報告を聞くのだった。
「ウィーン郊外のあの場所にいます」
「ペンツィンクにいます」
「あの場所に」
「中々見つからなかったな」
男爵は大使館の一室にいた。そこで豪奢な席に座りそうして話を聞いていてだ。そのうえで外交官の話を聞いてから述べたのである。
「全くな」
「そうですね。確かに」
「ワーグナー、その逃走は用心深く抜け目ないとは聞いていましたが」
「ここまでとは」
「思っていませんでした」
「だからこそだな」
男爵も納得した顔で話す。
「それでああしてだな」
「はい、長い間捕まることなく逃げていたのです」
「官憲からも借金取りからも」
「ウィーンでも莫大な借金を作っています」
「かなり贅沢な暮らしをしていたようで」
「その借金についてもだ」
男爵はこのことについても言及した。
「陛下はだ」
「肩代わりをされるとのことですね」
「それまで」
「そのおつもりだ」
「ワーグナーの借金は膨大ですが」
「それこそです」
一人が例え話を出してきた。それは。
「ユリウス=カエサルに匹敵するまで」
「カエサルとは」
「そこまでか」
「それだけの借金があるのか」
「あの男には」
「しかしだ」
それでもだとだ。男爵は話すのだった。
「陛下はそうされるのだ」
「そうされるおつもりですか」
「それが陛下の御考えですか」
「変えられないのですね」
「陛下のことは御存知の筈だ」
外交官達にこう述べる男爵だった。
「あれでだ。一度決められたらだ」
「そうですね、御考えを中々変えられません」
「そうした頑固なところもおありです」
「間違いなくですね」
「特に御気に召されたものに対しては」
「それがワーグナーなのだ」
そうだというのだった。王にとってワーグナーはまさにそうした存在になっているのだ。そしてその想いがどうしたものかというのもだ。
「王にとってはな」
「そのワーグナー、いよいよですね」
「間も無く見つかりますね」
「いよいよですね」
「そうだ。随分骨が折れたがだ」
それでも見つけることができた。彼等はそのことに喜んでいた。
しかしだった。実際にそのペンツィンクに行くとだった。彼はもういなかった。
豪奢な屋敷にいたのは一人の使用人だけだった。ワーグナーはいないのだった。
訪れた男爵はそのことに愕然としながらもだ。使用人であるその女に対して尋ねたのだった。尋ねる内容は決まっていた。
「御主人様が何処に行かれたかですか」
「それはわかるか」
彼は使用人にこのことを尋ねたのである。
「一体どちらに」
「そうだ、何処に行ったのだ」
「知りません」
返答はけんもほろろなものだった。
「申し訳ありませんが」
「何も聞いていませんか」
「すいません」
取り付く島もない感じだった。
「本当に何も」
「そうか、わかった」
彼女が何も話さないと見抜いてだ。男爵は彼女に聞くことを諦めた。
そのうえで一端ウィーンに戻った。その途中周りが彼に囁く。
「あの女おそらく知っていましたが」
「ワーグナーの行き先を」
「それでも聞かれないのですか」
「どうしてですか、それは」
「かなり口の固い女だ」
男爵はこう彼等に述べたのだった。
「喋る筈もない」
「だからですか」
「ここはですか」
「そうされると」
「そうだ、聞き出す先はまだ幾らでもある」
男爵はこれまでの政治にたずさってきた記憶からこのことを察していた。
そしてであった。彼等はさらに話すのだった。
「それでだ。ウィーンに戻りだ」
「また調査ですね」
「それをされますね」
「そうだ、そうするぞ」
こう話してだった。ワーグナーの行き先を探し続ける。そうしてそのうえでだった。ある新聞紙の記者からあることを聞いたのだった。
「スイスにか」
「はい、スイスにです」
その記者はこう男爵に囁いた。今二人はカフェにお互いの身分を隠して会っている。そのうえで話をしているのであった。
「そこにです」
「スイスか。そういえばな」
「ワーグナー氏は森や山が好きだとのことですね」
「そうだったな。それでスイスか」
「どうされますか、それで」
「決まっている。スイスに向かう」
男爵は即座に決断した。コーヒーを飲む手を止めてそのうえで話すのだった。
「今からな」
「では」
「礼を言う。謝礼はだ」
男爵は胸のポケットに左手を入れてだ。何かを出してきた。それは。
サファイアだった。一カラット程度の大きさのそれを記者に差し出してだ。そのうえでこう述べたのであった。
「これだ」
「あの、只の情報提供ですが」
「しかしワーグナーはそこにいるのだな」
「はい、間違いありません」
それは事実なのだというのだった。
「そのことは」
「ではだ。それに見合う」
「宝石とは」
「陛下はワーグナーをどうしても見つけられたいのだ」
「だからですか」
「そうだ。だからこその謝礼だ」
それでだというのだ。そしてだった。
男爵は王に電報を打ち了承の返事を受けてからだ。すぐにスイスに向かった。
そしてすぐにでだった。ワーグナーがスイスの何処にいるかを突き止めたのだった。
「マリエンフェルトだな」
「そこにいます」
「間違いなくです」
「あの場所にいます」
「間違いありません」
ここでも周りの外交官達がワーグナーに話す。
「知人達も集まっていますし」
「そこに支援者もいます」
「多くの書も集めています」
「それを調べてです」
そこにいるのだというのだった。間違いなくだ。
「ワーグナー本人は屋敷の中に閉じ篭っていますが」
「そうしたところからです」
「彼はそこにいます」
「では男爵、今からですね」
「そちらに」
「向かうとしよう」
男爵はここでも即断したのだった。
「それではな」
「はい、そうですね」
「いよいよワーグナーに会えますね」
「遂に」
彼等は遂に仕事が終わることを喜んでいた。そのうえでその屋敷に向かった。しかしであった。
そこにはだ。ワーグナーはいないのだった。
「まさかと思いましたが」
「もう去ったのですか」
「早いですね」
「そうだな。またか」
男爵もだった。ワーグナーがいないことに無念さを感じていた。そしてであった。
そのうえでだ。こう言うのだった。
「諦めることは許されない」
「決してですか、それは」
「絶対に」
「そうだ、絶対にだ」
また言う男爵だった、彼は王から直々に命じられているというその自負感と責任感があった。それでなのであった。彼は引かないのだった。
それでだ。また周りに話した。
「それでなのだが」
「はい」
「また調査の再開ですね」
「そうだ、絶対に諦めないでだ」
それでだというのだった。
「わかったな」
「はい、わかりました」
「仕方ありませんね」
「それでは」
「ワーグナーが生きていることは確かだ」
それは間違いなかった。それでだった。
彼等はまたワーグナーを探しはじめた。その結果だった。
支援者の夫婦がだ。男爵の身元を打ち明けられてだ。まずは驚いたのだった。
「バイエルンのですか」
「バイエルン王の御命令で」
「そうだ」
その通りだと話す男爵だった。彼等は今密室で話している。
「それでワーグナー氏を探しているのだ」
「そうですか」
「それでワーグナー氏をミュンヘンにですか」
「そちらに」
「そうしたいのだ。それでだが」
ここで彼等にもサファイアを出した。その前に己の身元を証明するものを出すことも忘れなかった。そうして話をするのだった。
「ワーグナー氏は今何処に」
「そのことですが」
「一つ約束して下さい」
夫婦はだ。真剣な面持ちで男爵に言ってきた。
「そのことをです」
「宜しいでしょうか」
「無論だ」
男爵もだ。二人に真剣な顔で返すのだった。
「私とて陛下に誓っている。それならばだ」
「それではです」
「お教えします」
「うむ」
こうしてだった。夫婦はそのワーグナーの居場所を教えたのだった。そこは。
そこを教えてからだ。彼等はこう釘を刺すのを忘れなかった。
「ただ、お約束ですが」
「それはですね」
「それでその約束は何だ」
こう話してだった。二人で話すのだった。
「一体」
「はい、そこへは男爵御一人で向かわれて下さい」
「そのことを御願いします」
約束はこれだった。
「このことはです」
「くれぐれも」
「わかった」
こうしてであった。男爵は遂にワーグナーの居場所を知ったのだった。そして夫婦と交えさせた約束に従ってだ。それで、であった。
二人に教えられたそのワーグナーの居場所に向かった。シュツットガルトのあるホテルの一室にだ。潜伏していたのだった。
一人でそこに向かう。そして扉をノックする。するとだ。
「誰なのか」
「バイエルン王の御命令で来ました」
男爵はまずはこう述べたのだった。
「そうしました」
「バイエルン王!?」
「はい、そうです」
扉の向こうの声の主に対して述べた。
「それでミュンヘンから来ました」
「まさかと。そんな筈が」
「信じて頂けませんか」
「証拠はありますか」
声の主はこう彼に問うてきた。
「その証拠は」
「わかりました」
それを聞いてだった。男爵はだ。
彼の名刺、そして王から直々に貰った直筆の文を出してだ。扉の郵便受けのところに差し入れたのだった。それはすぐに扉の向こうに消えた。
暫くの間沈黙が続いた。しかしそれが終わってだ。
扉の向こうからだ。また声がしてきたのだった。
「男爵ですか」
「そうです」
「そしてバイエルン王ですか」
「はい、左様です」
「それで何の御用件で来られたのですか?」
声はまた男爵に尋ねてきた。
「この私に。一体何の御用件で」
「御会いして頂けますか」
男爵はまた彼に言った。
「今から」
「わかりました」
声の主は頷いてきた。そうしてであった。
扉が開いた。そこから強い、それでいて深い叡智と傲慢さをたたえた青い瞳を持つつながった頬髯と顎鬚の男が出て来たのだった。
絹の服を来ていて小柄だがそれでも妙な威圧感があった。その男がだ。こう男爵に名乗ってきたのであった。
「ワーグナーです」
「貴方がですね」
「はい、リヒャルト=ワーグナーです」
こう名乗ったのだった。
「私がリヒャルト=ワーグナーです」
「わかりました。では貴方が」
「それではですね」
「はい、それでは」
こうしてであった。二人はそのまま部屋に入ってだった。
そのうえでだ。豪奢な部屋の見事なソファーに座ってだ。二人で話をするのだった。
「それでなのですが」
男爵から話を切り出したのだった。
「宜しいですか」
「はい、それで御用件とは」
ワーグナーも彼に応えて話す。まだ疑っているようで何かが強張っていた。
「何でしょうか」
「それではです」
ここでだ。男爵はまたあるものを出してきた。それは。
ワーグナーは己の前に差し出されたそれを見てだ。こう言うのだった。
「小箱ですか」
「開けて下さい」
男爵は小箱を開けるよう勧めてきた。
「どうぞ」
「そうですか。それでは」
ワーグナーは彼の言葉に従い小箱を開けた。すると。
そこから出て来たのはだ。銀線細工にルビーをあしらった指輪だった。それを見てだった。彼は息を飲まずにはいれなかった。
その彼にだ。男爵はまた言ってきた。
「王からの贈り物です」
「この私にですか」
「御気に召されませんでしたか」
「いえ、滅相もない」
不遜な彼がだ。今はおずおずとして答えるのだった。
「まさかこの様な」
「王は芸術を愛されます」
「芸術をですね」
「そうです。その中でも歌と」
そしてであった。
「音楽を。舞台もです」
「その三つ共ですね」
「そしてその三つが一つになった」
「歌劇をですか」
「その歌劇の中でも最も素晴らしいものを作られる」
男爵はワーグナーを見ていた。明らかにだ。
「貴方の才能を、いえ」
「いえ?」
「その全てをです。愛されています」
「だからこそですね」
「それはお受け取り下さい」
遠慮なくとだ。男爵は述べた。
「そしてです」
「そしてとは。まだなのですか」
「是非ミュンヘンにいらして下さい」
王に告げられた命ををだ。その彼に告げたのだった。
「これよりです」
「宜しいのですか。私は」
「革命のことですか」
「はい、それは」
「お気遣いなく」
これがワーグナーへの返答だった。
「それは王が全て取り計らってくれます」
「バイエルン王が」
「革命に関することだけではありません」
「といいますと」
「貴方を苦しめているお金のことも」
借金のことだった。まさにそれであった。
「それもです」
「そのこともですか」
「住む家も用意できます。それに」
「まだあるのですか」
「貴方が芸術に専念できるように」
「私の芸術に関してですか」
「王は全てを取り計らって頂けるのです」
これもだった。王が神にも、そして己にも誓っていることだった。王はワーグナーの為にだ。全てをしようと誓っていたのだ。
そしてだった。男爵はさらに話してきた。
「ですから。如何でしょうか」
「ミュンヘンに」
「そうです、どうされますか」
「信じていいのですね」
そこまで彼にとって都合のいい話があるのかどうか。これまでの辛酸を舐めてきた人生でだ。ワーグナーはこのことをいぶかしむのだった。
そしてだった。彼はまた言った。
「そのことを」
「はい、何でしたら」
「何だというのですか」
「これを」
今度出してきたものは。それは。
券だった。ミュンヘンまでのだ。旅行券であった。
それをワーグナーの差し出してだ。男爵は再び話すのだった。
「どうぞお使い下さい」
「そういうことなのですね」
「王が貴方を待っておられます」
王の名前をだ。ここでも出す。
「どうか。ここは」
「わかりました」
その旅行券を見てだ。遂にだった。
ワーグナーは頷いた。彼も決めたのだった。
こうして彼は男爵と共にミュンヘンに向かう。王がいるその街にだ。
その彼等が乗る鉄道の中でだ。ワーグナーは男爵に対して話す。
「夢の様です」
「夢ですか」
「そう、あの」
ここで言うことは。
「エルザの様です」
「貴方の作品のですね」
「はい、ローエングリンの」
その作品のヒロインの如きだというのである。
「そうなった気持ちです。夢の様です」
「そうですね。実はです」
「実は」
「陛下も同じです」
「バイエルン王もとは」
「あの方もローエングリンを御覧になられました」
その十六歳の時のことだった。王にとって運命を決めたその時のことがだ。他ならぬワーグナーに対して話されるのだった。
「その時にです」
「王もまたあの歌劇を御覧になられたのですか」
「その通りです」
「光栄です」
「そしてそのうえで」
「どうなされたのですか」
「魅了されました」
一言だった。
「貴方にです」
「そうだったのですか。それで」
「はい、あの方も時折話されます」
男爵はだ。向かい合って座り目の前にいるワーグナー、そのローエングリンを生んだ男に対してだ。そのことを語っていくのである。
「エルザになったのだと」
「ローエングリンではなくですか」
「ローエングリンだと仰ることもあります」
「どちらもなのですね」
「そうです。そしてどちらにしてもです」
男爵はワーグナーに語る。
「陛下は貴方をです」
「私をそこまで、なのですね」
「だからこそです。お招きしているのです」
「僥倖ですね」
まさにその通りだった。ワーグナーにとって。
「信じられないまでの」
「ですがこれは現実です」
「現実ですね。ですがそれでも」
「それでも?」
「夢が適えられるようになりました」
現実であってもだ。それがなるようになったというのである。
そしてだった。ワーグナーはさらにこう話すのだった。
「私の夢はです」
「どうしたものなのですか、貴方の夢は」
「一つの壮大な物語を完成させることです」
最初に言ったのはこのことだった。
「トリスタンとイゾルデの話は御存知でしょうか」
「ウィーンで上演しようとされていたあの作品ですね」
「それ以上の作品です」
「指輪ですね」
男爵は答えた。
「あの作品ですね」
「御存知でしたか」
「はい。陛下が常に熱く語っておられましたから」
ここでも王であった。王は何処までもワーグナーのことを考えそうして想いを馳せていたのだ。それで男爵も知っていたのである。王の傍にいるからこそ。
「ですから」
「だからですか」
「脚本は完成されているのですね」
「それは既に」
「では後は」
「音楽です」
それはまだだというのだ。音楽はだ。
「それはまだです」
「それを完成させることですか」
「その通りです。そして」
「そして?」
「その作品、ひいては私の作品をです」
ワーグナーはさらに語るのだった。その己の夢について。
自然とその顔に少年の如き邪気のないものも宿っていた。その老獪ささえ見られる初老の男の顔にだ。それが宿っていたのだった。
「それだけを上演する劇場をです」
「何と、貴方の作品だけをですか」
「それが夢です」
こう話すのだった。
「それもまた」
「はじめて聴きました」
こうしたことはだった。男爵も驚きを隠せない。
「そうした劇場を作られるというのは」
「そうですね。しかしです」
「実際にそう思われているのですね」
「はい、そうです」
ワーグナーの青い目にだ。今は純粋な光が宿っていた。
「絶対に無理だと思っていましたが」
「陛下は貴方に御自身の全てを捧げるとも仰っていますから」
「そうした方なのですね」
「ですから。ミュンヘンに」
「わかりました」
ワーグナーは今自分の夢が現実のものとなることに熱いものを感じていた。そしてそれはだ。王もまた同じなのだった。
彼はだ。王宮において周りにこう話していた。
「間も無くだ」
「ワーグナー氏がですね」
「このミュンヘンに来る」
「それがなのですね」
「そうだ、間も無くだ」
また言う王だった。その言葉は熱い。
「私の夢がいよいよ適うのだ」
「それで陛下、ワーグナーが来ればです」
「最初に何をされますか」
「まずは」
「会う」
そうするとだ。王は言うのだった。
「彼とだ。会う」
「会われますか」
「最初は」
「そしてそれからですね」
「彼を悩ませる俗世のことを解決する」
指名手配されていることと借金のことだった。
「そんなものは造作もないことだがな」
「陛下ならばですね」
「それは」
「王が持つものは悪しきことの為に使われるものではない」
彼は暴君ではなかった。むしろその対極にいる男だった。血も戦いも好まない。愛するのは芸術、それをひたすら愛しているのである。
「決してだ」
「決してですね」
「そしてワーグナー氏に対しては」
「正しきことだと」
「そう仰いますね」
「悪しきものだとは思っていない」
これはだ。王も確信していた。
「実際に悪しきものだろうか。彼を助けることは」
「そうは思いません」
「はい、私もです」
「私もまた」
周りの者もだ。それは思っていなかった。
悪だとはだ。誰もが思わないしその通りだった。しかしだった。
彼等はだ。いささか怪訝な顔になってこう王に話してきたのだった。
「しかしです」
「陛下のワーグナー氏への想いはかなりのものですね」
「一人の音楽家にです」
「そこまでされるのですね」
バイエルン王ともあろう者が、言外にはそうした言葉もあった。彼等にとって王と一介の初老の音楽家は全く釣り合わないものだった。
しかしだ。王はこう言うのだった。
「私の名はこの一代で消えるが」
「しかしワーグナー氏はですか」
「違うと」
「そう仰いますか」
「彼は永遠に残る」
こう語る王だった。
「人の世にな」
「そこまでの音楽家だと」
「モーツァルトやベートーベンの如き」
「あの音楽は」
「残る」
王は確信していた。
「間違いなくな」
「左様ですか」
「残ると」
「それだけのものだ。ワーグナーは」
音楽だけに限らないというのだった。その全てがだというのだ。
「だからこそ。私は愛するのだ」
「ワーグナーを」
「その全てを」
「間も無く来る」
王の目が見ていた。その彼をだ。
「その彼がな」
「それはいよいよですね」
「彼がこのミュンヘンに来る」
「そのうえで陛下に会われる」
「そうなりますね」
「どれだけ待ったことか」
愛しい相手を語る言葉だった。
「私は。どれだけ待ったことか」
期日の問題ではなかった。心だった。
その心を感じながらだ。彼は今言うのだった。
「彼を。それが今適うのだな」
「では陛下、その時ですが」
「会われる場所は何処にされますか」
「一体どちらに」
王はそうした場所も決めなければならない。だからこそ周りの者はそこを何処にするのか尋ねるのだった。全ては周到にだった。
「どちらにされますか」
「その場所ですが」
「一体どちらにされるのですか」
「王宮だ」
王は一言で述べた。
「王宮で会う」
「ここで、ですか」
「王宮で会われると」
「何と」
王の言葉にだった。誰もが驚かざるを得なかった。王宮で会うということは公になる。王のその存在こそが公であり彼が住む王宮も公となるからだ。
その公で会うとだ。王は言い切ったのだった。そしてであった。
王はだ。王宮のその場所についても述べるのだった。
「大広間だ」
「王宮の大広間で」
「そこで会われるのですか」
「あの場所で」
「そうだ、大広間だ」
まさにそこだというのだった。彼はだ、
「よいな」
「あの、それは幾ら何でも」
「そうです。ワーグナーは一介の音楽家です」
「他国の要人でも王族でもありません」
「それで何故そこまで」
「その様な場所で会われるとは」
「何度も言うがそれだけの者だからだ」
だからだとだ。王は言うのだった。
「ワーグナーはだ」
「ヴィッテルスバッハの主が公に会われるだけとは」
「そこまでとは」
誰もがわかっていなかった。王のその見ているものをだ。王は見ていたのだ。ワーグナーにそれだけのものを見ていることをだ。
それでだった。王はさらに話した。
「では。私は待つ」
「ワーグナー氏が来られるのを」
「それをですか」
「何時までも待つ。来るのは間違いないのだからな」
だからだと言ってだ。彼は待ち続けるのだった。期待に胸を膨らませそのうえでだった。彼が来るその時を待ち続けるのだった。
第四話 完
2010・12・6