第五話 喜びて我等は
王は待ちながらだ。ソファーに座りそこで音楽を聴いていた。それは。
大行進曲であった。ワーグナーのオペラタンホイザー第二幕のその華麗かつ豪奢な音楽を聴いていた。そのうえでこう口ずさむのだった。
「喜びて我等は尊き殿堂に挨拶を送る」
「この曲の歌詞ですね」
「そうだ」
その通りだと侍従の言葉に応える。侍従は彼のその前に控えている。
「今の私の気持ちだ」
「陛下のお気持ちですか」
「どれだけ嬉しいかわからない」
その言葉は恍惚とさえしていた。
「言葉では。全てを言い表せないまでだ」
「そこまでなのですか」
「そうだ。卿はわかるだろうか」
その若い侍従に顔を向けて問う。耳は音楽に向けたままで。
「この私の今の気持ちが。それは」
「ときめきでしょうか」
「ときめきか。そうだな」
その言葉を告げられてだ。王は頷いた。
「それだな。今の気持ちは」
「陛下は今その中にあるのですね」
「常にだった。ワーグナーの音楽を聴く前に常に感じていた」
そのときめきをだというのだった。
「そして今はとりわけだ」
「感じておられますか」
「期待だ」
次に出した言葉はこれだった。
「そして希望だ。私は今エリザベートやエルザの気持ちがわかる」
「そのワーグナーの姫達のですか」
「そうなのだ。彼女達もまた同じだったのだ」
そのワーグナーの曲を聴きながらだ。彼は恍惚として語るのであった。
「今の私と同じく。愛しい騎士達に会う期待と希望にときめいていたのだ」
「陛下もまた」
「そうだな。私は姫ではない」
王だ。それは間違いない。
「しかし同じくだ。ときめいているのだ」
「ワーグナー氏は今日来られます」
「夜だったな」
それが何時になるか。彼は既に知っていた。
「夜に来るのだったな、このミュンヘンに」
「その通りです」
「やはり楽しみだ」
王はまた話した。
「私は何時までも起きている。そして待とう」
「そうされますか」
「今日は寝ることはしない」
はっきりと言った。そのときめきに従い。
「待っている」
「どれだけでもですか」
「夜は好きだ」
これは王の嗜好であった。
「自然と落ち着く」
「夜がですか」
「昼にはない美しさもある」
王は夜にそうしたものも見ているのだった。
「だからだ。夜になろうともだ」
「待たれるのですね」
「むしろ夜に会うのがいいかも知れない」
こんなことも言う王だった。
「彼に会うのは」
「夜ならばこそですか」
「ワーグナーは夜だ」
「夜なのですか」
「ワーグナーの作品では常に夜が大きな意味を持っている」
だからだというのである。
「夜に何かが起こる。ワーグナーの時ではそうなのだ」
「それで夜に」
「会えればいいのかもな」
こう話してであった。
「彼とは」
「そしてこの王宮で会われる」
「バイエルンは今永遠の芸術を手に入れるのだ」
「ワーグナー氏を」
「その為に私は待つ」
王はその言葉を続ける。
「何時までも」
「では陛下、その夜の為に」
侍従もだった。そのワーグナーの音楽を聴きながらここでだ。王に対してある申し出をするのだった。その申し出というのは。
「コーヒーをお持ちしましょうか」
「コーヒーか」
「はい、それとケーキを」
コーヒーだけではなかった。それもだった。
「チョコレートケーキを如何でしょうか」
「ザッハトルテか」
王はチョコレートケーキと聞いて述べた。
「それか」
「はい、それです」
「ではもらおう」
ザッハトルテと聞いてだった。王は微笑みになりそのうえで答えた。
「ウィーンのそれをな」
「ウィーンですね」
「シシィがいるあの街のものだな」
「そういえばエリザベート様ですが」
話が変わった。王の七歳年上の従姉の話になる。王と彼女は王がまだ幼い頃より親交があった。それが彼等の交流であったのだ。
「ウィーンでは随分と」
「ハプスブルグ家は古い因習が多いからな」
「そうですね。それもかなり」
「そうだ。シシィは翼を持っている」
こんなことも言う王だった。
「だからだ。ハプスブルグ家に留まるのは」
「あの方にとってお辛いですか」
「そう思う」
まさにそうだというのであった。
「果たしてどうなるかだな」
「旅をはじめられたそうですが」
「いいことだ」
王はこのことを肯定した。
「彼女にとってはな。森や山、谷を見ることはだ」
「よいことなのですね」
「馬に乗るのも好きなのだ」
この点は王も同じだった。彼も乗馬を愛している。馬に乗りながら何を見ているのか、それは王だけが知っていることだった。
「だからこそだ」
「それでなのですか」
「そうだ、彼女は旅をするべきだ」
王はいつもの遠い目になって述べた。
「是非な」
「ではあの方は」
「縛り付けては駄目なのだ」
遠い目はそのままだった。
「何があろうとも」
「それをあのウィーンの宮廷が理解していればいいのですが」
「しないだろう」
王の言葉が悲しいものになった。
「あの宮廷はな」
「それはありませんか」
「あの宮廷はミュンヘンとは違う」
悲しい言葉のまま語る。
「何もかもが古い因習の中にある」
「それでなのですね」
「そうだ。双頭の鷲はシシィとは合わないのだ」
「あの方のその翼には合わない」
「時々は。そうした旅で心を癒すべきなのだ」
これが王のエリザベートへの考えだった。彼は彼女のことを理解していた。そうしてそのうえで。その従姉を心から心配していたのだ。
そしてであった。遂にミュンヘンにだ。彼が戻ってきたのだった。
ワーグナーは男爵に案内されまずは宿泊先のホテルに入った。その見事な部屋の中であらためて男爵と話をするのだった。
「今聞いたことですが」
「はい」
「王は今日御会いしたいとのことです」
男爵はこうワーグナーに話した。
「今日です」
「今日にですか」
「それも王宮で」
場所も話されるのだった。
「王宮で。御会いしたいとのことです」
「王宮でとは」
「それも今日ですから」
「今日御会いするとなると」
ワーグナーは王宮で会うということにも驚きを隠せない。しかしそれ以上にだった。今は時間について強く思うのであった。
そしてだ。それを言葉に出した。
「夜になりますが」
「それでもとのことです」
「私と」
「そうです。御会いしたいとのことです」
そうだというのだった。
「それで如何でしょうか」
「そうなのですか」
「はい、貴方はそれで宜しいでしょうか」
男爵はワーグナー自身に問うた。
「夜でも」
「はい」
ワーグナーに異存はなかった。すぐに答えたのだった。
「私としましては」
「左様ですか。それでは」
「しかし本当なのですか」
まだ信じられないといった顔だった。それは彼も隠せなかった。
「王が。私に王宮で」
「そうです。陛下は嘘を吐かれません」
「左様ですか」
「陛下は嘘がお嫌いです」
これもまた事実だった。王は虚言を嫌った。人の心のそうしたことをだ。彼は何よりも嫌い忌んでいたのだ。それはかなり強いものだった。
男爵はこのことを話してであった。
「ですから」
「それでも。まだ」
「信じられませんか」
「どうにも」
そのことを話さずにはいられないワーグナーだった。
「ですか。それならば」
「夜に王宮に」
「窺わせて頂きます」
「それでは」
こうしてだった。ワーグナーは夜の王宮において王と会うことになった。そしてその時が遂に来た。しかしそれはなのだった。
「駄目か」
「申し訳ありません」
「やはり夜は」
「そうか」
王はだ。周りの言葉を聞いて無念の声をあげた。
「明日になるか」
「既にワーグナー氏はミュンヘンに到着しています」
「間違いなく会えますので」
「ですから今は」
「御辛抱下さい」
「わかった」
夜の謁見を止められだ。王は渋々ながら頷いた。
しかしそれと同時にだ。彼はこう言うのだった。
「明日になればだな」
「そうです。間違いなくです」
「ワーグナー氏が王宮に来ます」
「時間は昼とのことです」
「既にあちらには礼装を渡しています」
「頼む」
王は厳粛な声で告げた。
「昼だな」
「では今はお休み下さい」
「夜も遅いですし」
「ですから」
「寝られはしない」
王はだ。深刻な顔でこう述べた。
「とてもな」
「明日のことを思えばなのですか」
「それで、ですか」
「今は」
「そうだ。明日のことを思えば」
やはりそれであった。明日ワーグナーと会う、そのことを考えただけで王は目が冴えてだ。どうしても寝られなかったのである。
だが今は会えない。王は仕方なく自室に入りそこで一人黙々と本を読んだ。読むのはワーグナーの本、彼にそこで会うのだった。
場所は大広間である。青の綾錦が壁を飾り黄金の装飾はバロック様式のものである。その二色が大広間を飾っていた。
まさに宮殿であった。それもルイ十四世のそれを彷彿とさせながらそのうえで青い静かな美しさもたたえた。ワーグナーは今そこに入ったのだ。
「間も無くです」
「王がなのですね」
「はい、来られます」
男爵がワーグナーに告げていた。
「もう暫くお待ち下さい」
「時間をこれだけ長く感じたことはありません」
黒い礼服に身を包み白いネクタイの姿でだ。ワーグナーは言うのであった。
「まことに」
「そこまで思われていますか」
「はい、バイエルン王が私に会われる」
そのことを思うとであった。そうならざるを得なかった。
「夢ではありませんね」
「はい、これは現実です」
何度目かのやり取りであった。
「ですから。御安心下さい」
「わかりました」
ワーグナーは男爵の言葉に頷いた。そうしてであった。
暫くしてであった。大広間に控える侍従長が言った。
「陛下が来られます」
それを聞くとだった。控えている他の侍従も兵達も姿勢を正す。無論男爵もだ。
ワーグナーもまだ反射的に姿勢を正す。そうしてであった。
青と白の見事な服を着た長身の王が姿を現した。彼は静かに玉座に座る。そうしてそこからワーグナーを見て言うのであった。
「リヒャルト=ワーグナー」
「はい」
「ようこそ、バイエルンに」
微笑んで親しげに声をかける。
「私は貴方を待っていました」
「有り難き御言葉」
「では」
ワーグナーの言葉を受けてだ。王はさらに告げた。
「傍に」
「王のお傍に」
「はい。では接吻を」
王は立ち上がりそのうえでワーグナーを迎える。ワーグナーはぎこちない動きで王の足下に向かいそこに跪く。そして差し出されていたその右手に接吻するのだった。
これが二人の運命の出会いであった。王はすぐにワーグナーに見事な屋敷と年金を与えそのうえで借金を肩代わりすることを取り決めた。即ちワーグナーの全てを支えることにしたのである。
そのうえでだ。王は周りの者達に話すのだった。
「私の夢が適えられた」
「ワーグナー氏と会い」
「そしてですね」
「彼と出会えてどれだけ嬉しいか」
恍惚として語るのだった。
「言葉では到底言い表せない」
「そこまで思われていますか」
「今日の出会いを」
「そこまで」
「思わないではいられない」
これが王の今の言葉だった。
「まことにな」
「それでは陛下」
「これからもワーグナー氏とですか」
「御会いになられますね」
「会わないではいわれない」
王はこうも言った。
「とてもだ」
「左様ですか。それでは」
「これからもですね」
「ワーグナー氏の音楽も」
「それもだ」
王の言葉が続く。
「全てを愛さずにいられない」
「では陛下。明日にでも」
「ワーグナーとまた話したい」
話もだった。彼は望んでいるのだった。彼の運命の出会いは果たされたのだった。
そしてすぐにだった。ワーグナーに多くのものが授けられたのだった。
「豪奢な屋敷に別荘まで」
「馬車もあれば年金もだ」
「それに借金も肩代わりか」
「そこまでは予想通りだが」
王宮に出入りする者達はここで王のワーグナーへの対応にいぶかしまざるを得なかった。それでだった。
「それ以上にだな」
「王は常にワーグナーと会われたいと仰る」
「実際にそうされる」
「あれではまさに」
「寵臣だ」
この言葉が出た。
「陛下の寵臣だ」
「そしてワーグナーはだ」
「遠慮を知らないようだ」
このことがだ。彼等の危惧の元だった。
「年金だけではない」
「金を湯水の様に使う」
「あれだけ使っていてはな」
「借金漬けになるのも当然だ」
「一体どういう金銭感覚をしているのだ」
このこと自体が彼等にとってはいぶかしむに値することだった。
「あの男、止まることを知らず金を使う」
「使用人達に気前がいいのはいいことだが」
「しかし、服は常に絹だ」
言うまでもなくだ。絹は贅沢なものである。ワーグナーは絹を愛しているのだった。
「絹以外は身に着けようとはしない」
「それ以外はという」
「まずはそれだ」
服だけではないというのだ。
「とにかく金についてあまりにもな」
「何かにつけ贅沢だ」
「おまけに贅沢だけではないぞ」
「その女癖も酷いものだ」
ワーグナーのこのこともまた問題になろうとしているのだった。
「バレエのダンサーや使用人に手をつける」
「その前には支援者の妻と不倫の仲になったらしいな」
「その通りだ」
「そうしたこともあった」
このこともだ。ワーグナーにとって悪名になっていた。
そしてだった。とりわけである。
「弟子のハンス=フォン=ビューローの妻だが」
「フラウ=コジマか」
「あの女性だな」
「フランツ=リストの娘の」
この女が出て来たのであった。
「あの女とか」
「既に娘がいるぞ」
「あれはリストの娘ではないのか」
「違うのか」
「名前を見ることだ」
その娘の名前にこそ謎があるというのだ。その名は。
「イゾルデというな」
「イゾルデ」
「イゾルデというと」
「彼の作品のヒロインだ」
それだというのであった。
「まだ上演されていないがな。ウィーンでの数多くの練習の末上演されなかったというあの作品のな」
「その作品のヒロインの名前があるということは」
「その娘の父親はやはり」
「ワーグナーだというのか」
「まさかとは思うが」
「いや、そのまさかだ」
そのことがだ。真実だというのである。
そのことに気付いてだ。誰もが顔を顰めさせるのだった。
「弟子の妻をというのか」
「どういった男なのだ、ワーグナーは」
「倫理観がないのか」
「信じられん」
「おまけにユダヤ人への偏見も強いぞ」
「金銭問題や女性問題だけではなかった。この問題も出て来た。
「何故あそこまでユダヤ人を嫌うのだ」
「何かにつけてユダヤ人を批判するが」
その批判についてはだ。こう言われてしまった。
「批判と呼んでいいのだろうか」
「あれは中傷ではないだろうか」
「あそこまでの感情的な攻撃となると」
「どうにもおかしい」
「何故彼はそこまでユダヤ人を嫌うかだが」
「個人的怨恨なのだろうか」
「いるらしいな。ユダヤ人の批評家が」
ユダヤ人には知識人や金融業者が多い。それはドイツにおいてはとりわけそうである。その知識人にというのである。それであった。
「では彼に批評されてか」
「それで嫌っているというのか」
「ではそれは」
「個人的怨恨か」
「それによって嫌っているのか」
ワーグナーのこのことについても考えられたのだった。
「あまり褒められたものではないな」
「いや、あまりどころではないぞ」
「とんでもない話だぞ」
「そうだ、金銭問題や女性問題と並んでだ」
「ワーグナーの由々しき点だ」
とりわけそのユダヤ系の者達、ミュンヘンにも多くいる彼等が危惧を覚えたのであった。
「そうした人物か」
「音楽はいいとして」
「とんでもないことにならなければいいがな」
「いや、なるぞ」
「必ずなるぞ」
こうも話されるのだった。
「このままではだ。陛下はワーグナーに心酔しておられる」
「そしてワーグナーは遠慮を知らない」
「だとするとか」
「充分以上に有り得るか」
「このままでは」
「どうすればいい、それでは」
ここまで話されたうえでだった。具体的にどうすべきかという話になった。
「あの男については」
「取り返しのつかないことになる前に」
「何をすれば」
彼等は真剣に危惧を覚えていた。ワーグナーのその人間性から来る問題とそれを原因として起こるかも知れない騒ぎにだ。しかしであった。
王はだ。全く動じてはいないのだった。それを聞いてもだ。
「そうか」
「えっ、そうかとは」
「あの」
「それがどうかしたのか」
こう言うだけであったのだ。
「全ては」
「しかしです。陛下」
「金銭だけでなく」
「女性も」
「それにユダヤ人嫌いもです」
「問題ではありませんか」
「それもかなり」
「金銭については最早何の問題もない」
王はまずこのことについて述べたのだった。
「私が全てだ」
「受け持たれるのですね」
「そちらは」
「そうだ、それは全て私が援助する」
ワーグナーの借金や生活のことはというのだ。全てだったのである。
王についてはそれはだ。実に下らないことだった。金のことはだ。
「そんなことはだ」
「何でもありませんか」
「彼の浪費癖は」
「借金も」
「個人のことなぞどうとでもなる」
王はまた答えた。
「大した問題ではない筈だ」
「確かに。その通りですが」
「それは」
「個人のことなぞ」
「そうだ。何ということはない」
王の言葉はここでは変わらない。全くである。
「偉大な芸術家一人を助けることなぞ。バイエルンにとってはな」
「ではそれについてはですね」
「何ともないですか」
「全く」
「しかしです」
「女性は」
「噂ではないだろうか」
王は金銭以上にだ。女性については素っ気無いのだった。
その理由もだ。王も話すのだった。
「女性のことは」
「いえ、噂ではないようです」
「そのことですか」
「とかく噂が耐えません」
「今もです」
「私は噂なぞ聞きはしない」
きっぱりと言い切った王だった。
「私のことは知っている筈だ」
「は、はい」
「そのことはです」
「知っているつもりです」
誰もがだった。王のその言葉に畏まる。王は噂を好まなかった。そうした人についての陰口や中傷はだ。彼の嫌うところであったのだ。
だからだった。彼はだ。それは金銭についてよりも素っ気無かった。
その素っ気無さのままだ。王はまた話した。
「ではだ」
「はい、それではそのことは」
「いいのですね」
「それは」
「そうだ、私は全く気にしない」
これがこの問題についての王の考えだった。
「それで問題はない」
「では彼のユダヤ人嫌いは」
「それは彼の本にも出ていますが」
「それについては」
「私がそれを用いなければいい」
反ユダヤ主義についてもそうだというのだった。
「違うか。それは彼個人のことだ」
「彼個人の考えに過ぎないと」
「そのことはですか」
「そうだ。どうということはない」
そうだというのであった。
「反ユダヤ主義は何も生み出さない」
「彼等は知識人に多く財界での発言力も強いです」
「それを考えればです」
「決して無視できません」
「何があっても」
「私とてそれはわきまえている」
はっきりとした言葉だった。実にだ。
「これもそれで問題はないな」
「わかりました。それでは」
「そのこともですね」
「陛下は何ともないと」
「ではだ」
ここまで話してまた言う王だった。今度の言葉は。
「これからのことだが」
「これからといいますと」
「ワーグナーについてですか」
「そのことですか」
「そうだ、トリスタンとイゾルデ」
このオペラのことを話すのであった。
「その上演のことだが」
「はい、それですが」
「まず歌手選びで、です」
「揉めております」
「あの二つの役だな」
王は周りの言葉にすぐに顔を向けて述べた。
「トリスタンとイゾルデだな」
「どちらもワーグナーが人を選ぶので」
「かなり難航しています」
「彼は。歌手への要求が厳しく」
「それに適う者が中々いないのです」
「歌手についてはだ」
王はこのことについてもだ。言うのであった。
「彼に全てを任せる」
「左様ですか」
「そのことはですか」
「他のことも全て任せている」
歌手選びだけではないというのだ。要するにオペラのことは全て彼に任せているというのである。
「私が口出しをすればかえって悪くなることだ」
「では陛下は資金援助に徹されると」
「そう仰るのですね」
「私にできるのはそれだけだ」
王はワーグナーを心から信頼している。それが言葉になって出たのである。
「彼は全てを創る」
「音楽を」
「芸術をだ」
ここでも王の顔が恍惚としたものになる。
「私はそれを観させてもらう」
「では陛下」
「全てを彼に委ねる」
そのオペラについてだ。トリスタンとイゾルデについて。
「必ず素晴しいものが出来上がるぞ」
「ワーグナー、そこまで」
「素晴しいものを築き上げますか」
「そうだ。今度だ」
ここでだ。王はこんなことを言うのであった。
「歌劇場に行こう」
「ミュンヘンのその」
「王立歌劇場にですね」
「私だけではない」
王はさらに言うのだった。
「彼もだ」
「ワーグナーもですか」
「彼もまた」
「陛下と共に」
「彼と共にあの歌劇場に入り」
そうしてだというのだ。王はそこで何をするのか。周りに語るのだった。
「そこで芸術について何処までも語り合いたい」
「芸術をですか」
「陛下が愛されているそれを」
「あの御仁と共に」
「彼の芸術こそが私の待っていた芸術なのだ」
言いながらだ。瞼の中にローエングリンを観る。それは無意識のうちに、自然に彼の瞼の中に浮かんできたのである。まさにそうしたものであったのだ。
「あの音楽、そして舞台」
「全てがですね」
「陛下が待たれていたものだと」
「幼い時にあの白鳥の騎士を知り」
そのローエングリンをだというのだ。
「そしてだ」
「そのうえで、ですか」
「あのオペラを御覧になられた」
「白鳥の騎士を」
「現実のものだったとは思えない」
ローエングリンの舞台は。そうだったというのである。
「あれは夢だったのだろうか。いや」
己の言葉を否定してだ。そのうえでさらに話す王だった。
「夢ではない。私は確かに観たのだからな」
「そのローエングリンだけでなく」
「そのトリスタンもですね」
「このミュンヘンで上演されますね」
「私がはじめて観るのだな」
そのトリスタンをというのである。
「そうだな」
「そうなります」
「ウィーンでの上演は果たされませんでした」
「ですから」
「そう、そのトリスタンだ」
王の言葉は恍惚となったままである。顔は上を見ておりさながら天上の存在を仰ぎ見るようであった。彼は今はその様にして語るのだった。
「一体どうしたものか。早く観たいものだ」
「既に脚本は出ていますな」
「彼自身が書いた脚本がです」
「既に」
ワーグナーは脚本もまた自分で書くのだ。彼は己の芸術の全てを統括する。ただ音楽だけには止まらない人間、それがリヒャルト=ワーグナーなのである。
「それはもう御覧になられましたね」
「お読みになられたと思います」
「読んだ。しかしだ」
王は認めながらもさらに言うのであった。
「それだけだ」
「読まれただけ」
「そうだと仰るのですか」
「それは」
「ワーグナーは読んだだけではわかりはしないものだ」
それがワーグナーだというのである。
「聴くのだ」
「その音楽を」
「そうだというのですね」
「その通りだ。聴く」
王はまた言った。
「そうでなければわかりはしないものだ」
「では。その音楽もまた」
「聴かれるのですね」
「舞台と共に」
「舞台もだ。ワーグナーは目にも訴えるものだ」
舞台そのものにも非常な魅力があるというのであった。王はここでだ。あのローエングリン、そしてタンホイザーについて語るのであった。
「白鳥の騎士が水の世界から白鳥に曳かれた小舟に乗り現れる」
そこに見る色は。
「青の中に。白銀の彼が出て来るのだ」
「その白鳥の騎士が」
「清らかなる姫を救いに」
「そうだ。そしてタンホイザーだ」
この騎士についても語る王であった。
「あの騎士もまた」
「あの騎士は」
「どの世界にいた時でしょうか」
「ワルトブルグもいい」
第二幕のだ。歌合戦の場であった。チューリンゲンにある城である。
「だが私は第一幕も好きだ」
「ヴェーヌスベルグ」
「あの場ですね」
「美しい」
王のここでの言葉は一言だった。
「幻想の美がそこにある」
「地下の泉の中で踊る精霊達ですね」
「そして恋人達」
「泉の青と洞窟の白。花々の赤の中で」
「ヴェーヌスの世界の中で」
「あれもまた現実のものとは思えない」
ここでもこう言う王だった。
「ワーグナーは。夢にあるものを現実に出せる芸術家なのだ」
「それができる数少ない存在ですね」
「まさに」
「そういうことだ。だからこそ」
王は言う。
「私は彼の全てを愛するのだ」
「愛するとは」
「まさか」
「勘違いすることはない」
同性を愛する王はだ。ここで己の言葉への誤解を解いた。そうしてだった。
「私は彼にはそうした愛情は抱いてはいない」
「といいますと」
「その愛情は」
「何だというのでしょうか」
「心だ」
それだとだ。王は語った。
「私は彼を心で愛しているのだ」
「心で、ですか」
「それによってですか」
「彼を」
「そうだ。私は心で彼を愛している」
王はまた言った。その中に静かだが深く熱いものを感じながらだ。そのうえで述べたのである。
そしてであった。王はある人物の名前を出してきたのだった。
「そう、彼女と同じだ」
「彼女といいますと」
「あの方ですね」
「そうなのですね」
周りの者達もだ。それでわかったのだった。
「エリザベート様」
「あの方ですね」
「あの方と同じですか」
「シシィ」
王はその名前を出した。
「彼女と同じだ」
「そのエリザベート様ですが」
「あの方は旅を続けられています」
「今もです」
「欧州の各地を」
そうしているというのである。そしてそれを聞いてだ。王も悩ましげな顔になってそのうえでだ。憂いに満ちた声で話してきた。
「ウィーンの宮殿から離れられてです」
「そうされています」
「残念なことだ」
王はその憂いに満ちた声で言った。
「彼女にとってな」
「ウィーンではなくですか」
「エリザベート様にとってですか」
「そうだというのですか」
「そうだ。彼女にとってだ」
これが王が残念だということだった。彼女にとってであるのだ。
「ウィーンは合わないのだ、彼女にとっては」
「オーストリアは非常に厳格です」
「格式に全てを固められています」
「それではエリザベート様がです」
「あまりにも気の毒です」
「厳し過ぎる」
王は俯きながら言った。
「太后殿が特にだな」
「はい、そうですね」
「あの方がとりわけ厳格だとか」
「皇帝陛下のお母上の」
「あの方が」
「あの方が実質的なハプスブルク家の主だ」
王はわかっていたのだ。このことまでもだ。
「夫君である大公殿以上にだ。皇帝陛下にも影響力を持っている」
「そして宮廷にもですね」
「皇帝陛下は非常に保守的な方だそうですが」
「それをさらに強いものにさせているとか」
「そうだというのですね」
「その通りだ。それはこの国も同じだがな」
王はバイエルンもそうだというのだった。
「因習が多くしかも強い。仕方のないことだがな」
「王家ならば何処でもですね」
「まさにそうだというのですね」
「ハプスブルクもヴィッテルスバッハも」
「それはある。だがハプスブルクはそれが特に強い」
王はまたハプスブルクのことを話した。
「シシィが旅に出るのも道理だ」
「始終森や湖を御覧になられているそうです」
「ですが異性は近づけないとか」
「馬に乗られ場所の中から世界を見られ」
そうしているというのだ。彼女はだ。
「心を癒されているそうです」
「しかしだ」
王はまた言った。
「彼女は愛してもいるのだ」
「陛下をですね」
「皇帝陛下を」
「あの方を」
「それは間違いない。シシィはあの方を愛してもいる」
それもあるというのだった。愛は確かにあるのだとだ。
「だからこそ苦しんでもいるのだ」
「一体どうするべきなのでしょうか」
「このことは」
「どうすれば」
「わからない」
王もだ。このことには首を横に振るばかりだった。
「鳥は宮廷には留まれない。篭の中にはいられないのだ」
「だからこそですか」
「あの方は旅を続けられる」
「左様なのですか」
「どうするべきか」
また言う王だった。
「それが問題なのだが」
「ウィーンが変わればいいのでしょうか」
「それともあの方が」
「ウィーンが変わることは難しい」
王はそれについては悲観的であった。
「あの宮廷はとりわけだ」
「歴史ですね」
「それによって」
「そうだ、歴史だ」
まさにそれによってである。王は見ていた。
「歴史がだ。あの宮廷を縛り付けているのだ」
「神聖ローマ帝国皇帝であったその歴史がですか」
「そして今も皇帝であるということがなのですね」
「そうしたことが」
「そうだ。ヴィッテルスバッハもそうだが」
バイエルン王家も神聖ローマ帝国皇帝だったことがあるのだ。だがおおむねにおいて神聖ローマ帝国皇帝といえばだ。ハプスブルク家に他ならなかった。
王はこのことは誰よりもよくわかっていた。わかり過ぎる位にだ。だからこそ今言うのだった。
「縛られてしまうのだ」
「エリザベート様には合わないですか」
「あの宮廷は」
「結論から言おう」
王はまずはこう言葉を置いてから述べた。
「合いはしない」
「やはりですね」
「それは」
「どうしてもだ。それが運命だとしたら」
王はここでも遠いものを見る目で話していく。
「シシィにとっては悲劇だ」
「その通りですね」
「それにつきましては」
「あの時会ったが」
王の顔は曇ったままだった。
「皇帝陛下との仲は決して悪くはない」
「それ自体はなのですね」
「良好ですか」
「そうなのですか」
「あの皇帝陛下は」
フランツ=ヨーゼフ帝である。言わずと知れたオーストリア皇帝にしてそのエリザベートの夫である。ハプスブルク家の主でもある。
「悪い方ではない」
「かなり生真面目な方と聞いていますが」
「しかも質素だと」
「その通りだ。贅沢も好まれぬ」
王もそのことはわかっているのだった。
「そしてだ」
「そしてですか」
「何かがあるのですね」
「そうだ。人間としても素晴しい方だ」
そうであると。王は話す。
「温厚でだ。道を踏み外す様なことはされない」
「しかしその方と愛し合っていてもですか」
「それでのなのですね」
「宮廷とは」
「そうだ。ウィーンの宮廷とは合わないのだ」
やはりそうだというのである。
「それが問題なのだ」
「エリザベート様も苦しいところですね」
「ここは」
「どうされるべきか」
「私も何かと話を聞きたいが」
そのエリザベートの話だというのだ。
「少なくとも今の私はだ」
「はい、陛下は」
「どうなのでしょうか」
「ワーグナーがいてくれている」
その彼がだというのである。
「彼の芸術がだ」
「陛下を励まされていますか」
「その御心を」
「心だ。ワーグナーの心だ」
彼の心でもあるというのだった。
「それが素晴しい。何時までもワーグナーの芸術を傍に置いておきたいものだ」
これが彼の心からの願いだった。それが何時までも果たされることを願っていた。しかしであった。
ベルリンにおいてだ。ビスマルクは首相官邸においてだ。官僚達の話を聞いていたのだった。
「それではだ」
「はい、左様です」
「そうなっています」
「ミュンヘンでは」
「ワーグナーの話は聞いていた」
ビスマルクは己の机に座りその上に置かれている様々な書類を見ながらだ。そのうえで官僚達に対してこう返したのであった。
そのうえでだ。彼はこう言った。
「だが。思った以上にだ」
「彼は反発を受けています」
「それも深刻なものになろうとしています」
「それがどうなるでしょうか」
「これから」
「破局だな」
ビスマルクは一言で述べた。
「これはだ」
「破局ですか」
「そうなるというのですか」
「結果は」
「バイエルン王にとっては残念なことだが」
ビスマルクの言葉に同情が宿っていた。その厳しい顔にも同じものが宿っていた。そうしてそのうえで言葉を出すのであった。
「このままいけばだ」
「破局なのですか」
「そして結果として、ですか」
「バイエルン王とワーグナー氏は」
「そうなると」
「人は出会い別れる」
ビスマルクはまた述べた。
「それが人生というものだ」
「確かに。人生はそうです」
「出会いと別れのものです」
「生まれてから死ぬまで」
「その二つが常に向こうからやって来るものですね」
「つまりは」
「その通りだ。ただ」
ここでだ。ビスマルクはミュンヘンの方をちらりと見てだ。王について話した。ここでの王は彼が仕えるプロイセン王ではなく異国のバイエルン王だ。
「あの方がそれに耐えられるか」
「別れに」
「それに」
「繊細な方だ。触ればそれで折れてしまうかの様に」
バイエルン王のことを話していく。
「そうした方だから」
「ワーグナー氏と別れるとなると」
「それでどうなるか」
「あの方のことを理解するべきだ」
ビスマルクは言った。
「宮廷の者達もミュンヘンの者達もだ」
「では理解すれば」
「どうせよというのでしょうか、彼等は」
「一体」
「王の考えを受け入れるべきだ」
そうだというのであった。
「是非な」
「左様ですか」
「それではですか」
「ワーグナー氏はあのままミュンヘンに」
「そうするべきなのですね」
「些細なことだ」
ビスマルクはこうも述べた。
「実にな。一人の芸術家のその贅沢や女性関係なぞは」
「それよりもその芸術家がもたらす芸術ですね」
「それなのですね」
「そうだ、それだ」
まさしくそれだというのである。
「芸術の前にはだ」
「その者の行いなぞ」
「些細なのですね」
「芸術はそれだけ尊いものだ」
ビスマルクは言うのだった。
「それは永遠に残り」
「永遠にですね」
「歴史に」
「その通りだ。人の歴史に永遠に残る」
まさにそうだというのである。これがビスマルクの言葉だった。
「その心にもだ。特にワーグナーはだ」
「ワーグナーはですか」
「とりわけなのですね」
「その通りだ。モーツァルトやベートーベンに匹敵する」
そこまでだとだ。ビスマルクもまたワーグナーを高く評価していたのだ。
だからこそだ。彼もまた今それを話すのだった。
「その彼の芸術を理解して護るバイエルン王はだ」
「正しいのですか」
「今は」
「そうなのですか」
「それがわかる者は少ない」
遠い目をしていた。彼にしては珍しくだ。
「このドイツにもな」
「少ないですか」
「ではミュンヘンにもそれがわかる者は」
「少ないのですね」
「私はわかるが」
彼自身はだという。しかしその顔は苦いものだった。
「他にわかる者はだ」
「誰でしょうか、他には」
「それがわかる方は」
「どなたが」
「オーストリア皇后か」
エリザベートだというのだ。ビスマルクもまた彼女を知っていた。
「ワーグナー自身の他には」
「あの方とだけですか」
「三人だけですね」
「それだけなのですね」
「それがあの方にとっての不幸にならなければいいが」
バイエルン王をだ。心から気にかけての言葉であった。
「本当にな」
「閣下、まさか」
「まさかと思いますが」
そしてビスマルクの今の言葉と表情でだ。官僚達も気付いたのであった。
それで懸念する顔になってだ。その彼に問うた。
「閣下はバイエルン王は」
「お嫌いではないのですか?」
「むしろ好きだ」
そうだというのだった。
「好きだ。よい方だ」
「そうなのですか」
「よい方なのですか」
「そう言われますか」
「人柄だけではない」
それに止まらないというのだ。
「資質も素晴しい方だ」
「王としての資質もですか」
「それもまた、ですか」
「素晴しい方ですか」
彼等は驚きを隠せなかった。ビスマルクの人物評は辛辣なことで知られているからだ。無論彼等もそれを知っている。しかしなのだった。
今ビスマルクはだ。明らかに好意を見せていた。そしてそのバイエルン王に対して高い評価を見せているのであった。
そのことに驚きながらだ。彼に問うのだった。
「ワーグナーを見つけたからですか」
「だからこそですか」
「ワーグナーはドイツの芸術を永遠に輝かせる者だ」
ビスマルクはこう言ってワーグナーを高く評価する言葉も出した。
「その彼を護っていることは素晴しい」
「だからですね」
「それでなのですね」
「それであの方を」
「だが違う」
それとは違うというのであった。
「それとは違うのだ」
「といいますと」
「どういうことでしょうか」
「あの方自身にあるものだ」
それだと。ビスマルクは話した。
「それこそがだ」
「王としての資質ですか」
「それなのですね」
「カリスマもある」
王のそうしたところも認めている彼だった。
「だからだ。あの方はだ」
「見事な王ですか」
「色々と言われてもいますが」
「それでもなのですね」
「そういうことだ。ワーグナーだけではない」
彼はまた言った。
「あの方は素晴らしい方だ」
「しかしあの方はカトリックです」
「そしてプロイセンとは何かと対立もします」
「決して味方とは限りません」
「それでもですか」
「あの方をそこまで」
「敵だからといって認めないことはだ」
これが王の言葉だった。
「それは愚か者のすることだ」
「例えバイエルン王であってもですか」
「敵であっても認める」
「そうせよと」
「さもなければ誤る」
ビスマルクの言葉は冷徹ですらあった。
「全てをだ」
「しかし今の閣下のお言葉は」
「それ以上のものを感じますが」
「それはどうなのでしょうか」
官僚達はだ。また怪訝な顔になって彼に話した。
「お言葉ですが個人的な感情もありませんか」
「それはどうなのでしょうか」
「それもある」
そしてだった。ビスマルクもそれは否定しないのだった。
「やはりな。そして」
「そして」
「そしてなのですか」
「あの方の様な人もいていいのだ」
何処かだ。大切なものを護りたいというものも見せていた。
「そしてだ。あの方はドイツにとっての財産ともなられる方だ」
「財産ですか」
「そうだと」
「そうだ。しかしな」
嘆息だった。そのうえでの言葉だった。
「今それがわかる者はだ」
「少ない」
「どうしてもですか」
「私はわかる」
ビスマルク自身はだというのだ。
「わかるからこそ言えることだ」
「そしてオーストリアのエリザベート様」
「お二人だけですか」
「傍に誰かいればいいのだが」
王をだ。心から気遣う言葉であった。
「バイエルン、ひいてはミュンヘンにな」
「あの方を理解し助けられる方が」
「そうした方がミュンヘンに」
「若しいれば」
その時はどうするか。ビスマルクが話す。
「私はできるだけの助けをしたい」
「左様ですか」
「それではその時は」
「そういうことだ。それではだ」
「はい、それでは」
「次の案件ですが」
官僚達は話題を変えてきた。それは。
「デンマークのことですが」
「宜しいでしょうか」
「シュレスヴィヒ、ホルシュタインのことだな」
ビスマルクは官僚達の話を受けてすぐにこう述べた。
「あの二つだな」
「そのオーストリアも介入しようとしています」
「如何されますか、それは」
「今のうちに潰しますか」
官僚の一人が述べた。
「介入の目は」
「そうしてプロイセンだけで仕切りますか」
「どうされますか」
「いや、それは止めておこう」
ビスマルクはオーストリアの介入を防ぐことはしないというのだった。その目の光が賢明だがどこか危険な、鷲の様な目になっていた。
その目でだ。彼は話すのだった。
「ここはできればだ」
「できれば」
「どうされますか」
「それでは」
「共に介入しよう」
これがビスマルクの考えであった。
「そうすればオーストリアも怒らないだろう。そして」
「そして?」
「それからは」
「それからまた仕掛ける」
ビスマルクは言った。
「既に準備はできているのだしな」
「左様ですか」
「それでは今は」
「共にですね」
「そういうことだ。あと今日の晩餐だが」
その時の話もだ。今するのであった。
「参謀総長と共に摂りたい」
「モルトケ閣下と」
「そうされますか」
「明日はクルップ社長と会おう」
明日の話もするのだった。それもであった。
「わかったな。晩餐と明日はそうする」
「参謀総長とクルップ社長にですか」
「それはまた何故」
「お二人と会われるとは」
「またわかることだ」
今はこう言うだけに留めるビスマルクだった。
「とにかくだ。今はそうするのだ」
「わかりました。それでは」
「まずは今宵の晩餐ですね」
「そうされるのですね」
「その通りだ。いいな」
こう話してであった。ビスマルクはバイエルン王を気遣いつつもそのうえで今後の政治を考えていた。ドイツはプロイセンの彼を軸にしてだ。大きく動こうとしていた。そしてその中に王もいるのだった。
第五話 完
2010・12・16