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第2話 二週間前

晴れやかな青い空に白い雲が漂う五月の半ば。

栄泉中学校の職員室に一本の電話が入った。

「滝沢先生、お電話です」

滝沢晴夏に電話が来たのは、ホームルームを終えて一限目の授業に向かう準備をしていたときだった。

「はい。ありがとうございます」

電話を取り次いだ先輩教師の竹本裕子に礼を言う。

「保護者の方。石井隆君のお母さん」

竹本裕子は声をひそめるように晴夏に告げた。

「石井君の…… はい」

朝一から担当クラスの生徒の保護者からの電話。

なんとなく良い予感はしなかった。

電話に出る前に石井隆の顔を思い浮かべる。

石井隆はそんなに目立つ生徒ではない。

成績も悪くないという程度で、どことなく印象の薄い生徒だ。

晴夏は息を吸って吐くと受話器を手に取った。

「お電話代わりました。滝沢です」

「おはようございます…… 先生、朝からすみません。石井隆の母です。石井郁子です」

晴夏は郁子と面識はなかった。

ただ、生徒の家族構成を把握するための資料で、石井郁子が自分と同じシングルマザーだということは知っていた。

石井郁子の口調からどこか押し殺したような感じを受けた晴夏は、これは簡単な電話ではないなと思った。

「おはようございます。石井さん、どうされました?」

「実は…… 」

郁子はなにか言い淀んでいる。晴夏は授業に向かう時間を気にしながらも郁子の言葉を待った。

「隆のことで先生にお話がありまして……。どうしてもお会いして話したいので、どうかお時間を作っていただけないでしょうか?」

「はい。それはもう。で…… どういったお話でしょうか?」

「それも会ったときにお話しします」

すぐに切り出せるような話ではないのだと晴夏は理解した。

「わかりました。石井さんのご都合をお聞かせください」

「私の方はできれば今日か明日、すぐにでもお話ししたいのですが、こればかりは先生のご都合にお任せするしかありません」

郁子の声の様子から急いだ方が良いと晴夏は思った。

幸いにも今日は午後から自分の受け持つ授業がない。

明日だと午後三時を過ぎるが、部活を受け持っていない分、授業さえ終わってしまえば自分はフリーだ。

「石井さん。お急ぎであれば本日か明日の午後にはご都合よろしいでしょうか?」

「今日ですか!先生、今日でお願いします!ありがとうございます!ええ……

私は大丈夫です。今日の午後ですよね。大丈夫です」

「それから先生」と、言って郁子は話を続けた。

「私から電話があったこと、今日相談することは隆に伏せておいてください。これは約束していただけるでしょうか?」

「ええ。大丈夫です。午後の授業が始まるのは一時からですから、その時間に一階にある面談室までお越しください。来賓用の玄関を入って右側の廊下を進むとありますから、その時間に私が部屋の前で待っています。校庭とは反対側にあるから生徒達からみられることもありません」

「先生、ありがとうございます。ありがとうございます」

郁子は何度も礼を述べた。


午後一時半にということで電話を切った。

「なんだって?石井君のお母さん」

後ろから電話をとった竹本裕子が聞いてきた。

「それが石井君のことで直接会って話したいって言われました」

晴夏は応えながらチラッと時計を見る。

どうやら始業時間に遅れることはなさそうだ。

二人は職員室を出ると、歩きながら会話を続けた。

「なにかわけありみたいね」

「そうみたいです。だから今日の午後に学校で会うことになりました」

「今日?急じゃない?」

「どうも急いでいるみたいで」

「そっか……」

二人で階段を上がる。

「それからこのことは石井君には内緒にしてくれって」

「わかった。なにかあったら相談して」

三階に着いたところで竹本裕子が言った。

「はい。ありがとうございます」

竹本裕子は笑顔で首をふると、晴夏の肩をポンと叩いて二年生の教室がある四階へ上がって行った。

晴夏はそのまま三階の一年生の教室へ向かった。


午後になり晴夏は一階にある面談室へ向かった。

郁子が来るのは一時半なので、それまでにお茶の用意をしておいた。

時計を見るとまだ十五分はある。

玄関の側は陽が差し込んでいて明るいが、晴夏の立っている面談室は奥に位置しているので薄暗い。

節電のために廊下の蛍光灯を半分にしているせいなのはわかるが、何となくこの薄暗さが晴夏は好きになれない。

それにしても郁子は仕事が休みだったのだろうか?自分から今日か明日と切り出しておいて、郁子はどうやって都合をつけたのだろうと今更になって思った。

女手一つで中学生の息子を養っているのだから、この時間帯は仕事をしているものと晴夏は考えていた。

急いでいると言っても、夕方以降に話すものと思っていた。

もちろん仕事は日中だけではない。

夜の仕事だってある。

だが、午前中に目を通した石井隆の資料では、郁子は昼間働いていると記載されていた。

もし昼間の仕事であれば郁子は最初から今日来るつもりで、時間も可能な限り早く都合がつくように仕事を休んだのかもしれない。

郁子にとってはそれほど重要な話ということだ。

晴夏は下手な対応をしないように気を引き締めた。

約束の一時半になる五分前に玄関の方に人影が見えた。

逆光になっているが、女性がこちらへ歩いてくるのが見える。

近付いてきて女性は「滝沢先生ですか?」と、晴夏に聞いてきた。

「はい」

「石井隆の母です。石井郁子と申します。隆がいつもお世話になっております」

深々と郁子は頭を下げた。

「こちらこそ。隆君のクラスの担任をしております。滝沢晴夏と申します」

晴夏は頭を下げると、面談室のドアを開けた。

「どうぞ。お入りください」

「失礼します」

面談室は白い壁に大き目の窓が一つ。これは郁子が人目に付きたくないと言うことを察した晴夏がカーテンを閉めている。

中央に四人掛けのテーブルが一つと、椅子が四つ。奥側の椅子のすぐ後ろに二人ほど座れるソファーが置いてある。

晴夏は郁子を奥側の椅子へ促すと、準備してきたお茶を淹れた。

「先生、そんなおかまいなく」

「いえ。どうぞ」

晴夏は笑顔ですすめた。

晴夏と郁子は四人掛けのテーブルを挟む形で座った。

「先生、今日はお忙しいところ、お時間を作ってくださってありがとうございました」

郁子がまた頭を下げる。

「いえ、そんなお気になさらないでください」


顔を上げた郁子のことを改めて見る。

四十歳と書いてあったが、そうとは思えないほど若々しい。

とは言うものの、目元には深い疲労の色が濃く、肩には力が入っているのが見て取れた。

紺色のワンピースは少しシワが目立つ。

髪は丁寧にまとめられているものの、少し乱れているのが気にかかった。

「石井さん。今日はどのようなご相談でしょう?」

電話で郁子は相談事があると言っていた。

郁子はなにか思案するように視線を落としたが、少ししてから晴夏の顔をまっすぐ見て口を開いた。

「先生…、隆が…… いじめられているというのは本当でしょうか?」

「えっ……」


晴夏は絶句した。

いじめ。しかも自分のクラスで起きていた?信じられない。

だが目の前の郁子の目は真剣そのものだし、先程からの雰囲気から察するにかなり思い詰めたうえで自分にこのことを話している。

「すみません、どういうことでしょうか?」

「先生はご存知ないのですか?自分のクラスでいじめが起きていることを」

郁子の口調は晴夏を責めるようなものではなかった。

「申し訳ございません。私には今日までクラスでいじめが起きているようには見えませんでした。そうした兆候も」

話しながら晴夏は目まぐるしく思考した。

本当に兆候はなかったか?クラスの雰囲気は?自分の目に映っていた生徒たちは?

どれもいじめに結びつくようなものは出てこない。

しかしこうして保護者が訴えている以上、いじめはあったのだと考えるのが妥当だろう。

しかも自分の見えないところで。

晴夏は激しい自責の念に駆られた。

自分は教師失格だ。しかし問題は解決しなくてはいけない。

晴夏は言葉を続けた。

「ですが、いじめがあるなら重大な問題です。早急に取り掛からなくてはいけません。石井さんはその話を隆君からお聞きになったのですか?」

自分で聞きながら、それはそうだろうと思った。

本人以外の誰から母親がそうした情報を聞くというのか。

「いえ……」

郁子は首をふった。

「隆君本人からではないのですか?」

ではクラスメイトの誰かからだろうか?それとも保護者から聞いたのか?

「実は誰かわからないんです」

郁子は申し訳なさそうに言うと、バッグから二つに折られたA4の半分くらいの紙を取り出した。

「家のポストに入っていました」

そう言うと晴夏の方へ紙を差し出す。

受け取った晴夏は紙を広げて見る。

「石井隆君はいじめられています」

紙にはそれだけが書かれていた。

名前などは書かれていない。

PCで打ち込んでプリントしたものだ。

「全く同じものが先週も」

郁子はバッグから同じように折りたたんだ紙を二枚取り出して見せた。

内容は全く同じで二枚とも無記名。

「私が仕事から帰ってポストを見ると入っていました。私は隆よりもいつも帰りが遅いので、隆が帰宅した後に投函されたのだと思います。でなければ隆の目に留まるはずですから」

隆も郁子も帰宅した際にポストを見るのは習慣になっていたという。

それならば郁子の言うように、隆の帰宅後に誰かが直接投函したと考えるのが自然だと晴夏は考えた。

隆がポストを見たときにこれがあれば放置はしないだろう。

もう一度三枚の紙を見比べてみる。

「隆君にはお話を聞きましたか?」

三枚の紙から郁子に視線を戻した晴夏は穏やかな口調で聞いた。

「はい。最初は、一枚目のときは学校での生活はどうだというような当たり障りのない聞き方をしました。二枚目のときはさすがに直接『いじめはないのか?いじめられているのではないか?』と、聞きました」

「隆君はなんと?」

「そんな事実はないと一点張りで。でもこの紙を見せたときに隆の顔色が変わりました。一瞬で血の気が引いて呼吸が荒くなって……

紙を床に落とすと、そのまま何も言わずに部屋へ入って、私がいくら声をかけても出てきませんでした」

「それはいつのお話ですか?」

聞きながら晴夏は必死に思い出す。

最近の石井隆に変わったところはあったか?いや、あったとしても自分はそんなに細かく生徒一人一人を気にかけて見ていただろうか?

「先週の水曜日だったか…… 次の日の朝には嘘みたいにケロッとしていました。ですが私の方からは前の日の隆の血の気の引いた顔を思い出すと聞き辛くなって……

そして月曜日に仕事から帰ったら三枚目が投函されていたんです」

晴夏は黙って郁子のことを見ながら思案していた。

これはどういうことなのだろうと。

「先生、どうなんでしょうか?本当に隆はいじめられているんでしょうか?それとも大丈夫なんでしょうか?」

郁子からいじめの話を告げられたとき、もっと糾弾されるものだと思っていたがそうではなかった。


最初の電話から今まで郁子は担任である自分の責任を追及するでもなく、戸惑ったような話し方をしている。

それは郁子自身、いじめがあったという確証を得ていないからだ。

さっき聞いた隆の様子から、なにかしらあったとは思っている。

しかし隆本人は否定している。

いじめを知らせてきた紙にも具体的なことは何一つ書かれていない。

親からすればただただ不安が募るばかりだろうとは容易に察することができた。

自分も一人娘の真奈美が学校でいじめられているという、こんな紙が届いたら不安で仕方ないだろう。

その真贋を確かめずにはいられない。それも一時でも早く。

晴夏にとって郁子の心情は、同じ母親として察するに余りあった。

「石井さん。これは早急に事実確認をする必要があります。そうすると隆君本人からも話を聞くことになりますが、そのことはご承知願えますか?」

「はい。それは先生にお任せします」

「今日、石井さんがこうして学校にいらっしゃったことは可能な限り隆君にも、他の生徒にも言いません。ですからその紙を一枚渡していただけませんか。それが私のところにも来たということにして話そうと思います」

大丈夫か?自分は今、勢いに任せて話していないか?間違っていないか?

晴夏は郁子に話しながらも自問自答した。

「先生にお任せします。こういうことを言ったら親として無責任と思われるでしょうが、私はどうしていいかわからないのです。離婚してから隆を女手一つで育ててきました。隆が帰ってくるのを出迎えたことがないんです。仕事で私の方が帰るのが遅いもので……

ご飯もずっと一人で食べさせてきました」

郁子は、まるで信者が神父に告解するかのように晴夏に話し出した。

「だから親としてきちんとあの子に向き合ってきたかと聞かれたら、恥ずかしい話ですが自信がありません……

もちろん、少ない時間の中でも向き合ってきたつもりです。でも、どこか負い目があって…… 今までの寂しい境遇はすべて親である私の責任です。あの子に不当な環境を強いてしまっている……嫌われてるんじゃないか、恨まれているんじゃないか、そう思うとあの子に対して踏み込めません。どうしても躊躇してしまうんです」

そこまで言ってから郁子は謝った。


「すみません。こんな家庭の問題を話されても困りますよね。ただでさえ先生って大変なお仕事なのに」

「いえ。そんなことありませんよ。私も十歳になる娘がいますけど、親の都合で離婚してからは寂しい思いをさせています。石井さんが抱かれたような不安もしょっちゅうです」

「先生も?ああ……」

郁子の表情が和らいだのを見て、晴夏は自分の表情も和らぐのを感じた。

郁子はようやく晴夏が淹れたお茶を口にした。

「石井さん。繰り返しになりますが、まずはいじめが本当にあったのかどうかを確認しないといけません。それも極力他の生徒に、それとはわからないように」

「はい」

「結果はきちんとご報告します。もちろん進捗の方も」

「お願いします」

郁子は晴夏にこの件を一任すると、時計を見て、午後の授業が終わる前に帰ると言った。

晴夏は連絡先を交換すると、郁子を玄関まで送った。

郁子は何度も晴夏に礼を言って学校を後にした。


晴夏は面談室を片付けながら、郁子から預かった告発の紙を見る。

この紙と郁子からの話を聞いて、晴夏は違和感を覚えていた。

これは本当に第三者の善意による告発なのだろうか?

晴夏にはそうは思えなかった。

この紙からは、なんというか、言いようのない悪意を感じる。

いじめとは別の、もっと違う種類の悪意を。

そして異常な執着を。


とにかく、これは自分一人の手には余る問題だと思った。

信頼できる相手に相談するのが一番良い。

思い浮かんだのが教師では、先輩の竹本裕子だった。

それにスクールカウンセラーの藤堂美雪。

そしていずれは学年主任にも調査することを報告しなければいけないだろう。


隆本人はもちろんだが、他の生徒にも聞き取りが必要だ。

晴夏本人は担任とは言っても、生徒の動向を逐一見ているわけではない。

自分の受け持つ生徒と接する時間は、ホームルームに授業と、日に二時間もないのだ。

個別に、可能な限り少数の信頼できる生徒を選んで話を聞かないとならない。

誰が適任か、生徒の顔を一人一人思い浮かべていた。

そして、いじめの事実が把握できれば、教頭にも校長にも報告する必要がある。

当然だが、担任である自分の責任は免れない。


だが、それはいい。

それより真奈美にすまないと思った。

通常の業務に加えて、いじめの調査をするのだから、その分家にいる時間は削られる。

しかし郁子の様子を思い出すと、他人事とは思えなかった。

どうにかしなければという強い意識が芽生えていた。


晴夏はこれから成すべきことを順序立てて反芻すると、湯呑を持って面談室を後にした。



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