書店の店主と向かいのビルのあの顧客は長期契約を結んだ。
私はよく進んでそちらへの使い走りを買って出た。
時々、遠くから神谷慎一の姿を見かけることがあった。
彼はいつも黒い服を着て、他の色はどこにも見当たらない。
唯一の例外は、時々首元から覗く白いワイシャツの襟ぐらい。
彼の足取りはいつも急ぎ足で、後ろにはスーツ姿の大勢の部下たちが、頭を下げて付いて回っていた。
人前で見せるのは、冷たく近づきがたい彼の姿だった。
あの夜の青ざめてもろい面影は、微塵もなかった。
時々オフィスエリアを通りかかると、休憩室の社員たちのこっそりした噂話が耳に入った。
彼女たちは、あの恐ろしい大物社長のオフィスには、
華やかな色は一切なく、
生け花すらなく、内装はすべて抑圧的な灰色と黒だと話していた。
神谷慎一の早世した妻は社内では秘密ではなかった。
おそらく彼の息子がよく会社に現れるから。
あるいは彼の指にはめたシンプルな指輪が、一度も外されたことがないから。
だから彼女たちは推測さえしていた。
修行僧のように生きる神谷慎一は、
亡き妻のために節を守っているのではないか、と。
私は分厚い本の束を抱え、華やかな人々の間をうつむいて黙々と通り過ぎた。
神谷慎一を攻略すると約束した、その決断の正否を疑い始めた。