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海外から戻ってきてからというもの、なんだか頭がぼんやりしている気がする。

一日の大半を眠って過ごしてしまう。

もしかして、どこか悪いのかもしれない。けれど、母は心配ないと笑って言った。

なるちゃんは小さい頃から怠け者だったものね。お姉ちゃんみたいに自律できるタイプじゃないのよ」

「大丈夫、人それぞれ体質があるんだから。眠かったら寝なさい」

私は目を覚まそうと、ブラックコーヒーをなみなみと注いだ。

でも、効果はなかった。こめかみをトントンと叩きながら、ため息をついていると、玄関のチャイムが鳴った。

執事が言う。

「お嬢様が、時川ときかわ様をお連れになりました」

父と母の目が、ぱっと明るくなった。

父は我先にと玄関へ向かい、母も続こうとしたが、ふと何かを思い出したように足を止めた。そして、困ったように私を振り返る。

「鳴は……」

私は素直にうなずいた。

「わかってる。時川さん、私のこと嫌いだもん」

「お姉ちゃんの婚約のほうが大事だよね。私は上で、もう一眠りしてくる」

母は安心したように、欠伸をかみ殺している私を見て微笑んだ。

数歩進んだところで、ふと、コーヒーカップを忘れたことを思い出した。

もう一杯、試してみたいと思ったのだ。

振り返った瞬間――

不意に、鋭く冷たい視線と目が合った。そのとき私は、本能で反応した。

コーヒーのことなんてすっかり忘れて、思わず走り出していた。今すぐ逃げないと、命が危ない。

そんな根拠のない恐怖に駆られて。部屋に飛び込み、扉に鍵をかける。

念のため、後ろからテーブルまで押し当てた。喉元に詰まっていた恐怖が、ようやく少し和らいだ。

理由はよくわからない。

でも、時川徹を見ると、胸の奥からこみ上げるものがある。――恐怖。


母は言っていた。

「時川さんは、生まれつき人を支配する者の気質を持っている。誰でも近くにいるだけで圧を感じるのよ」

「特に、鳴みたいに弱くて無力な子はね」

母は私に言った。

「時川さんの前には、なるべく出ないようにしなさい」

「彼はね、可愛く見えても頭の悪い女の子が大嫌いなのよ」

「彼の目が止まるのは、あなたのお姉ちゃんみたいに完璧で優秀な女の子だけ」

「時川家がどれだけの家柄か、わかってる? あの家と縁組みできれば、うちなんか何代分も救われるのよ」

「だから、鳴、わかってちょうだい」


私は、ちゃんといた。

だから、時川 徹が家に来るたびに、私は自分から姿を消した。

母はそれを褒めて、たまに頭を撫でてくれた。

それが何よりも嬉しかった。だから私は、母には言えなかった。

母に言われなくても、私は時川 徹が怖いのだと。彼が放つ威圧感に、息が詰まる。

心臓をぎゅっと鷲掴みにされるような、苦しさと不安。そして、それと混ざり合うように広がる、正体不明の―― 悲しみにも似た、胸を締めつけるような感情。


階下からは、楽しげな笑い声が響いてくる。

私はその音を子守唄にして、また眠りに落ちていった。


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