目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

8

お金がなくなり、ホテルに泊まることもできなくなった私は、仕方なくバスターミナルの長椅子で夜を明かした。春の冷たい雨が吹き抜ける廊下は、想像以上に寒かった。

その夜、私は熱を出したみたいで、うとうとしながら、長い夢を見た。夢の中の私は、18歳だった。その日、国語の先生が、私の作文を全校生徒の前で読み上げてくれた。

「鹿野さんの文章には、特別な感性がある」と。

そんなふうに褒められたのは、生まれて初めてだった。

しかもその日は、私の誕生日だった。

嬉しくて嬉しくて、家に帰る足取りも自然と弾んでいた。

自分への誕生日プレゼントとして、小さなケーキを買っていた。

「お姉ちゃんと一緒にろうそくを吹こう」

彼女が大きい方、私は小さい方でいい。

それだけで、十分幸せだと思った。胸を躍らせて玄関を開けると、家の中は、真っ暗だった。

誰も、いなかった。

その夜、小さなケーキを前にぽつんと座っていた私。

テレビでは、お姉ちゃんのドラマの打ち上げが生中継されていた。

新作の撮影が終わって、家族みんなで東京へ行っていたのだ。

あの賑やかな打ち上げ会場で――

両親は、お姉ちゃんにとって特別な意味を持つ誕生日を祝っていた。私のことなんて、誰も覚えていなかった。


涙も出なかった。

ケーキを持って街をさまよい歩いた。

誰か一人でも、私に「お誕生日おめでとう」って言ってくれたら、

――それだけで、生きようと思えた。でも、街行く人はみんな忙しそうで、誰ひとり、私に気づかなかった。

失望のあまり、隅田川の方へふらふらと歩いていった。

そこで、彼に出会った。

堤防の上に立つ、背の高い青年。

風に揺れる白いシャツの裾。

今にも飛び降りそうなその姿を見て、私は声をかけた。

「ねえ、そっちも死にたいの?だったら、一緒にケーキ食べてから死のうよ。」

彼――時川徹は、無表情のまま私を見つめた。

しばらくして、彼は堤防を降りて、私の隣に座った。

その夜が、私にとって初めて誕生日だった。

私はとても丁寧に願いを込めて、ろうそくを吹き、ケーキを切り分け、彼にも一切れ渡した。彼は大量のビールを持っていて、私はつい飲みすぎてしまった。

酔って笑って泣いて、挙句、彼の手を引っ張って「川に飛び込もう」なんて言った。

「今がチャンス!朝になったら散歩の人でいっぱいになるから!」

すると、彼がふっと笑った。

「今日は……あんまり死にたい気分じゃなくなった。また今度にする。まずは、君を家に送るよ。」

帰り道、私は彼の背中におぶさって、夢みたいなことを口走っていた。

家の前に着いたとき、彼がそっと言った。

「……おかしな子。誕生日、おめでとう。」

それが、時川徹との始まりだった。

後から知った。

彼は、横浜の財閥・時川家の跡取り息子。

その日は、亡くなったお母さんの命日だった。

そしてその日に、父親が連れて帰ったのは――

彼と同じ年頃の、隠し子だったという。

彼は裏切りに耐えられず、自ら命を絶とうとしていた。

いつも、深い陰を抱えたような目をしていた。

口数が少なく、友達もいなくて、常にひとり。

だけど、私はそんな彼を見て、なぜか安心した。

私にとって、彼の存在は拠り所だった。

いつの間にか、彼を好きになっていた。

声をかけずにはいられなくて、いつも後を追いかけた。

何度も告白して、笑われても、構わなかった。

誰かに心から尽くすことが、生きる支えになっていたから。

でも――彼は、いつも冷たかった。

その冷たさが、私は「恥ずかしがっている」と思っていた。

だからもっと情熱的に、もっと勇敢に向き合えば、

いつか彼の心も動かせると思っていた。そう、あのときまでは。


姉の新作ドラマの記者会見で――時川徹が、最前列に座っていた。

姉はマイクの前で、にっこりと微笑みながら言った。

「彼は私の恋人です。時川徹くん。とっても愛してくれてます。」

その瞬間、私は頭が真っ白になった。

まるで、自分が道化だったような気がした。

誰にも呼ばれていないのに、勝手に舞台に上がって、

勝手に恋をして、勝手に滑稽な芝居をしていた――いたたまれなくなって、私はスカートを掴んで逃げ出した。

その姿をカメラがとらえて、「逃げ出したお姫様」と報道された。

姉よりも自然体で、目が澄んでいて、ネットでは「主演にふさわしいのは彼女だ」と声が上がった。誰かが私の正体に気づいた。「鹿野遥の双子の妹だ」と。

ネット投票では、私が姉に圧勝していた。

……私は、何も望んでいなかったのに。

けれど、あの数字を見た瞬間、心がざわついた。

「もしかして、私にも価値があるのかもしれない」って。

ただ一度だけでいい。

自分の人生の主役になってみたい。そんな気持ちで、彼に会いに行った。

「もし私が主演だったら……私のこと、好きになってくれた?」

彼は鼻で笑った。

「鹿野遥が言ってたよ。あんたって、欲しがったものは全部奪うって。」

「俳優が、お姉さんの夢だったって、知ってた?」

「鹿野鳴。おまえは、自己中心的で、反吐が出る。」

言葉のひとつひとつが、心を刺し貫いた。

私はかすれ声で言った。

「じゃあ……あの夜は? 一緒にケーキ食べて、帰りに背負ってくれたじゃない……」

「……お前が、遥の妹じゃなければ、最初から相手にもしてない。」

「トラブルになったら、遥の仕事に影響するだろ。」

「鹿野鳴、お前、まさか自分が好かれてるとでも思ってるのか?」

――私は信じなかった。

あのときの笑顔も、やさしさも、ぜんぶ演技だったなんて。

私はただ、誰かに愛される感覚を知りたかっただけなのに……


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?