お金がなくなり、ホテルに泊まることもできなくなった私は、仕方なくバスターミナルの長椅子で夜を明かした。春の冷たい雨が吹き抜ける廊下は、想像以上に寒かった。
その夜、私は熱を出したみたいで、うとうとしながら、長い夢を見た。夢の中の私は、18歳だった。その日、国語の先生が、私の作文を全校生徒の前で読み上げてくれた。
「鹿野さんの文章には、特別な感性がある」と。
そんなふうに褒められたのは、生まれて初めてだった。
しかもその日は、私の誕生日だった。
嬉しくて嬉しくて、家に帰る足取りも自然と弾んでいた。
自分への誕生日プレゼントとして、小さなケーキを買っていた。
「お姉ちゃんと一緒にろうそくを吹こう」
彼女が大きい方、私は小さい方でいい。
それだけで、十分幸せだと思った。胸を躍らせて玄関を開けると、家の中は、真っ暗だった。
誰も、いなかった。
その夜、小さなケーキを前にぽつんと座っていた私。
テレビでは、お姉ちゃんのドラマの打ち上げが生中継されていた。
新作の撮影が終わって、家族みんなで東京へ行っていたのだ。
あの賑やかな打ち上げ会場で――
両親は、お姉ちゃんにとって特別な意味を持つ誕生日を祝っていた。私のことなんて、誰も覚えていなかった。
涙も出なかった。
ケーキを持って街をさまよい歩いた。
誰か一人でも、私に「お誕生日おめでとう」って言ってくれたら、
――それだけで、生きようと思えた。でも、街行く人はみんな忙しそうで、誰ひとり、私に気づかなかった。
失望のあまり、隅田川の方へふらふらと歩いていった。
そこで、彼に出会った。
堤防の上に立つ、背の高い青年。
風に揺れる白いシャツの裾。
今にも飛び降りそうなその姿を見て、私は声をかけた。
「ねえ、そっちも死にたいの?だったら、一緒にケーキ食べてから死のうよ。」
彼――時川徹は、無表情のまま私を見つめた。
しばらくして、彼は堤防を降りて、私の隣に座った。
その夜が、私にとって初めて
私はとても丁寧に願いを込めて、ろうそくを吹き、ケーキを切り分け、彼にも一切れ渡した。彼は大量のビールを持っていて、私はつい飲みすぎてしまった。
酔って笑って泣いて、挙句、彼の手を引っ張って「川に飛び込もう」なんて言った。
「今がチャンス!朝になったら散歩の人でいっぱいになるから!」
すると、彼がふっと笑った。
「今日は……あんまり死にたい気分じゃなくなった。また今度にする。まずは、君を家に送るよ。」
帰り道、私は彼の背中におぶさって、夢みたいなことを口走っていた。
家の前に着いたとき、彼がそっと言った。
「……おかしな子。誕生日、おめでとう。」
それが、時川徹との始まりだった。
後から知った。
彼は、横浜の財閥・時川家の跡取り息子。
その日は、亡くなったお母さんの命日だった。
そしてその日に、父親が連れて帰ったのは――
彼と同じ年頃の、隠し子だったという。
彼は裏切りに耐えられず、自ら命を絶とうとしていた。
いつも、深い陰を抱えたような目をしていた。
口数が少なく、友達もいなくて、常にひとり。
だけど、私はそんな彼を見て、なぜか安心した。
私にとって、彼の存在は拠り所だった。
いつの間にか、彼を好きになっていた。
声をかけずにはいられなくて、いつも後を追いかけた。
何度も告白して、笑われても、構わなかった。
誰かに心から尽くすことが、生きる支えになっていたから。
でも――彼は、いつも冷たかった。
その冷たさが、私は「恥ずかしがっている」と思っていた。
だからもっと情熱的に、もっと勇敢に向き合えば、
いつか彼の心も動かせると思っていた。そう、あのときまでは。
姉の新作ドラマの記者会見で――時川徹が、最前列に座っていた。
姉はマイクの前で、にっこりと微笑みながら言った。
「彼は私の恋人です。時川徹くん。とっても愛してくれてます。」
その瞬間、私は頭が真っ白になった。
まるで、自分が道化だったような気がした。
誰にも呼ばれていないのに、勝手に舞台に上がって、
勝手に恋をして、勝手に滑稽な芝居をしていた――いたたまれなくなって、私はスカートを掴んで逃げ出した。
その姿をカメラがとらえて、「逃げ出したお姫様」と報道された。
姉よりも自然体で、目が澄んでいて、ネットでは「主演にふさわしいのは彼女だ」と声が上がった。誰かが私の正体に気づいた。「鹿野遥の双子の妹だ」と。
ネット投票では、私が姉に圧勝していた。
……私は、何も望んでいなかったのに。
けれど、あの数字を見た瞬間、心がざわついた。
「もしかして、私にも価値があるのかもしれない」って。
ただ一度だけでいい。
自分の人生の主役になってみたい。そんな気持ちで、彼に会いに行った。
「もし私が主演だったら……私のこと、好きになってくれた?」
彼は鼻で笑った。
「鹿野遥が言ってたよ。あんたって、欲しがったものは全部奪うって。」
「俳優が、お姉さんの夢だったって、知ってた?」
「鹿野鳴。おまえは、自己中心的で、反吐が出る。」
言葉のひとつひとつが、心を刺し貫いた。
私はかすれ声で言った。
「じゃあ……あの夜は? 一緒にケーキ食べて、帰りに背負ってくれたじゃない……」
「……お前が、遥の妹じゃなければ、最初から相手にもしてない。」
「トラブルになったら、遥の仕事に影響するだろ。」
「鹿野鳴、お前、まさか自分が好かれてるとでも思ってるのか?」
――私は信じなかった。
あのときの笑顔も、やさしさも、ぜんぶ演技だったなんて。
私はただ、誰かに愛される感覚を知りたかっただけなのに……