海外へ調査に出ていた人が、ようやく戻ってきた。
時川徹は何日も、私の病室から一歩も離れずにいた。
「……ここでいい。話してくれ」
そう言って、彼は椅子に腰かけた。
秘書は、私を一瞥してから不安げに眉をひそめる。
けれど、時川徹は私の頬を撫でながら、低く言った。
「彼女はもう長く昏睡状態が続いてる。お前の話は聞こえやしない」
「もし聞こえたとしても……逆にそれで怒って目を覚ましてくれるなら、それはそれでいいさ」
秘書は黙って資料を広げ、深いため息をついた。
「……時川様。鹿野鳴小姐が海外に渡っていた間、実は……ご連絡されていた権威ある精神科医の元には、一切通っていませんでした」
「彼女を送ったのは鹿野遥さん――行き先は、ニューヨークにある個人診療所です」
「そこの医者は……反社会的な変質者といって差し支えない人物です」
「彼は、
「患者の精神世界を完全にバラバラにし、再構築しようと試みる。結果、多くの人間が発狂して、廃人になっています」
「……鹿野鳴小姐の現在の精神状態も、その崩壊の一歩手前です」
――ミシッ、と。
時川徹の拳が、音を立てて強く握り締められた。
彼は息を詰まらせたように胸を上下させながら、必死で呼吸を整えている。
長い沈黙の末、ようやく、かすれた声で問いかけた。
「……鹿野家は、それを知っていたのか?」
「鹿野遥は……なぜ、妹がそんな目に遭うのを、黙って見ていられた?」
秘書は、しばらく口を開けたまま、答えられずにいた。
時川徹の声が、氷のように鋭くなる。
「言え」
やがて秘書は、もう一冊の資料を差し出した。
「……調査の結果によれば、あの診療所を選んだのは、鹿野遥小姐本人です」
「治療方法に不安を覚えた医師もいたようですが……鹿野遥小姐がすべての手段に同意し、署名した記録があります」
「そして……何度も逃げ出した鹿野鳴小姐を、
毎回見つけ出して連れ戻したのも、鹿野遥小姐でした」
静寂――
空間を満たす、重く沈んだ静けさ。
誰もが言葉を失っていた。
シャンデリアの灯りが落ちる室内で、乱れた光が、空気の中を舞う。その光のなか、私の目尻から、一筋の涙がつっと流れ落ちた。
――ただ、思い出しただけなのに。
あの三年間の記憶を、少しなぞっただけで。私は、これほどまでに怯えている。
孤独と絶望に包まれ、もう一度、生きたまま地獄を体験したようだった。
秘書が、一冊のノートを時川徹に手渡した。
「……鹿野鳴小姐は、記憶が曖昧になっていく自覚があったようで、
思い出を残すために手帳をつけていたようです」
「ただし、最後の方では、その
時川徹は震える手で、手帳を受け取った。
一字一字、目を通していく。
そして――
あの、どんなときも感情を表に出さない時川財閥の御曹司が――
私の布団の上に突っ伏して、声を押し殺して泣いた。
この世の誰よりも、取り乱し、苦しむように。