【2021年9月18日】
今日は何度も、自分がご飯を食べたかどうか忘れてしまった。
どうしてここに連れて来られたのかも、思い出せない。
記憶が、日に日に悪くなっていく。こっそり手帳を見つけて、今日起きたことを書き留めることにした。
これからは毎朝、目が覚めたらこれを読む。
そうすれば、忘れずにいられる気がするから。
【2021年9月20日】
主治医が時川徹の写真を持ってきて、「この人は誰?」と尋ねてきた。
写真の中の時川徹は、ピシッとしたスーツに身を包み、気品と美しさを纏い、所作ひとつにも目を奪われるような男だった。
私は恥ずかしそうに答えた。
「……時川徹。私が四年間、ずっと好きだった人です」
その日、主治医は私に最も重い罰を与えた。
ほんの少しでも時川徹に想いを向けた瞬間、
鋭い電流が、全身を駆け抜ける。苦しみに顔を歪めても、どうしても彼を想わずにはいられない。
「忘れろ」と主治医は言う。
でも――あの人は時川徹だよ?
そんな簡単に、忘れられるわけないじゃない。
【2021年12月24日】
今日もまた主治医が写真を見せてきて、「これは誰?」と訊かれた。
私は少し戸惑いながら、「時川徹……」と答えた。夜になって、こっそり布団の中で手帳を読み返した。
ああ、そうだった。
私は、彼のことが大好きだったんだ。
思い出せてよかった。この手帳がなければ、
あの胸が熱くなるような恋心を、本当に忘れてしまっていたかもしれない。
【2022年5月3日】
今日は、時川徹とお姉ちゃんがキスしている写真を見せられた。
私は怯えて思わず後ずさった。あの人の写真を見るたび、耐え難い苦痛が待っている。
いつからか、彼は私にとって災厄の象徴になっていた。
主治医は首を振る。
「まだ感情の反応があるね、鹿野鳴。これじゃダメだ。次の治療段階に進もう」夜、私は手帳を開く。
そこにはこう書かれていた――
私は時川徹を、どうしようもなく愛していた。
自尊心を捨てても、何もかも犠牲にしてでも、彼のためなら――私は呆然と、それらの文字を見つめた。
……怖い。
あんなに恐ろしい人を、私は本当に好きだったの?この文字、本当に私が書いたの?
【2022年11月7日】
今日はお姉ちゃんが来た。私は、ここで受けている拷問のような治療について話した。
「お願い、連れて帰って……」
そう縋った。でもお姉ちゃんは、きれいなスチール写真を差し出して、こう言った。
「ねえ、鳴。私、綺麗?」
私は羨ましそうに頷いた。
「すごく綺麗。私もお姉ちゃんみたいだったらな……今の私は全身傷だらけで、いつも元気もなくて、おばあさんみたい」
お姉ちゃんは目を細めて、静かに言った。
「俳優になりたい?」
私は、うっとりと夢見るように頷いた。
――その瞬間、姉の顔色が変わった。
「鹿野鳴、おまえって本当に懲りないんだね」
「……まだ、足りないってことね」
その日から、私は暗く狭い物置に五日間閉じ込められた。
出てきたとき、全身が震えて、泡を吹いていた。
お姉ちゃんは高みから見下ろすように言った。
「鳴、まだお姉ちゃんのものを欲しがるの?」
私は激しく首を振った。
恐怖のあまり、失禁までしていた。
「……もう、ほしくないです」
「何でも言う通りにします。だからお願い、もういじめないで」
「死なせてください……これ以上、耐えられない……」
お姉ちゃんはにこりと笑った。
「なに言ってるの、妹ちゃん?」
「人殺しなんて、犯罪だよ?」
「私は芸能人なんだから、そんなことするわけないでしょ?」……
手帳は、そこからしばらく空白が続き、
最後の記述は去年のお正月の夜で止まっていた。
【2024年1月1日】
私は屋上の物置に閉じ込められていた。
窓の外で、小さな花火がちらほらと上がっていた。なんだか、訳もわからず胸がざわついた。
……私は、最初から物置で育ったんだっけ?
あの人たちは、なんで花火をしてるんだろう?
どうして、物置に住んでないんだろう?
どうして、あんなに楽しそうに笑ってるの?――おかしいな。
この手帳、誰が書いたんだろう?
この作者、ちょっと変な人だ。
だって、あんなに時川徹のこと、好きだったんでしょ?彼のために泣いて、彼のために笑って……
バカみたい。きっと頭がおかしい人だ。
でも、かわいそうな人でもある。
もし会えるなら、教えてあげたい。
「感情を出したらダメだよ。注射されるし、薬も飲まされるし、殴られるし、蹴られるんだから」