意識が遠のく――。身体が鉛のように重くて、指先がまったく動かない。
そのとき、視界の端に何かが光った。そこから、うんざりしたような声が聞こえてくる。
「……どっち?」
「えっ、……何が?」
「はぁ……。あなたはどっちを選ぶの?」
「いったい何の話?」
「……このまま戻る? それとも別の人生? さっさと決めてよ」
姿は見えないけど、確かに女性の声がする。何を言われているのか分からず、言葉が出ない。
「はぁ……、説明? 面倒だから省略するわ。スキルもついでにこっちで決めるから、大人しくしてて。
……さあ、いくわよ? ルーレット、スタート!!」
「は?」
カラカラカラ……。
ルーレットボールが音を立てて走る、本物のカジノのような音が辺りに響く。
「……」
「ジャ、ジャーン、決定しましたぁ。あなたはあちらの世界でーす。……えーっと、スキルは医療系。
おめでとう、これで生存確率アップ! ……まあ、もう死んでるけど? アハハハ!」
「なっ……!? 私、死んだの?」
「そうだけど? ……それじゃ私の仕事は終わったわ、じゃあね!」
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!!」
何も聞けないまま、次の瞬間視界が真っ白になった――。
◆
次に目が覚めると、いつも見慣れていた天井が違っていた。
「あれ、ここは……。病院?」
私は誰もいないオフィスを出て、自分の部屋のベッドに突っ伏したはず。
山積みの書類、ミスを責める声。
「仕事と結婚生活、両立は無理じゃないのかね?」
直属の上司にそう言われ、追い詰められて泣く泣く提出した退職届。
……私は、頑張っていたのに。
ゆっくりと視線を動かすと、見慣れない天蓋付きのベッド、カーテン、布団の模様。
異国……いや、違う。どこか、物語の世界みたいな空気が漂っている。
「それにしても、さっきのは女性は何だったのよ……」
顔にかかった髪をはらおうと、腕をそっと持ち上げると、透き通るような白い肌……。
……なぜか爪の先は緑色に少し染まっていたけど。
「まさか本当に転生、ってやつ? ハハ……、まさかね」
ぽつりとこぼした声が、自分のものとは思えないほど静かだった。思わず、乾いた笑いが出る。
そういえば……。
「君にはガッカリしたよ。まさか彼女に陰で嫌がらせをしていたなんて。……それに無愛想すぎて、可愛げがないんだよ。
ああ、いいよ。今さら言い訳しなくても。君はこの国の王子妃には相応しくない」
……そうだ。あのアホ王子に婚約を破棄されたんだった。
自分は他の女と手をつないで浮気していたくせに、全てを私のせいにして「心がない」とほざいた、あのアホ王子。
「はあ? こっちから願い下げだわ」
……あれはこの身体の持ち主の記憶なの?
考える間もなく、布団の端に小さな手が、ぽんと乗った。
見ると、ふにゃふにゃの髪の毛に寝癖をつけた幼い子どもが、じっとこちらを見上げている。
「……
今にも泣き出しそうに瞳をうるうるさせながら、子どもがそう言った。
名前も知らない、小さな子。
でも、なぜか――この子のことだけは、忘れちゃいけない気がした。
「ええ。おはよう……」
そう言って手を伸ばすと、待ちきれなかったように私の胸にすり寄ってくる。
抱き上げると、ぴとりと身体を預けて、甘えるようにぎゅうっとしがみついた。
「……母しゃま、ぎゅーちて」
かすれた声でそう
まだ温もりの残る小さな身体。ふわふわの髪。少しだけ、ミルクの甘い匂いがしたような気がした。
なぜだろう。戸惑いながらも、心の奥がじんわりと温かくなる。
「うん。ぎゅー……ね」
不器用に腕を回すと、子どもは満足そうに、すうすうと寝息を立て始める。
「……あれ? ちょっとお熱ある?」
戸惑いながら小さな額に手を当てた瞬間、数値が目の前に一気に表示された。
目の前を見たこともない言語や、数字が流れていく。
「……これが、彼女が言っていたスキルってやつ? それに、日本語じゃないわけ?」
新たな情報が浮かび上がっては消え、先ほどの数値と合わせて、何度も同じ表示を繰り返している。
「うわ……。これ、さすがに見づらいんだけど?」
……こんな時は、たいてい何か叫ぶと良いんじゃなかったっけ?
「わ、分かりやすくまとめて、小さく表示してよ!」
私が子どもを起こさないよう最小限の声で叫ぶと、点滅していた情報がぴたりと止まった。
しばらく待っても消えない。
(フリーズ……した?)
『白き手……。それは神に選ばれし癒し手に宿る力。触れた相手の身体から、人には分からない僅かな異常を察知できる』
「いや、急に日本語かい……」
どうやら、さっきの情報はこの子の身体についてのことらしい。
説明が終わると画面は落ち着き、小さく整理された表示に切り替わった。
……これならなんとか見られそう。
それにしても……。私、さっき自然にこの子を抱き上げた。
この子がどこの誰かなんて、今はわからない。
だけど――、この子だけは絶対に泣かせたくない。……そんな気がする。
少しずつ、彼女の記憶が私を満たしていく。
「はあ? ……マジで? こんな最悪な人生背負えって? ……ったく、どうせなら盛大にやってやるわよ」
この世界で『私』と呼ばれる女性は──。王子に捨てられた後、貴族の後妻として嫁いだ人間だったのだ。