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第1章 第1話 後妻になった私に、彼がくれた『ぎゅー』

 私が目を覚ました翌朝、屋敷には微妙な緊張が漂っていた。

 理由は簡単で、昨日倒れていたはずの『後妻』が、まるで別人のように振る舞ったからだ。


「お加減はいかがでしょうか、奥様」


 声をかけてきたのは、控えめな年配の女性だった。

 灰色混じりの髪を後ろでまとめた、穏やかな表情の人。


「……大丈夫そう、ありがと。……あなた、名前は?」


 我ながらよく返したものだと思う。名前も知らないどころか、自分の立場すらわかっていないのに。

 でも、『奥様』と呼ばれるたびに、ぼんやりと記憶がよみがえる。


「倒れられた時に、頭を打たれたのかもしれませんね……。まだ記憶が曖昧なのでしょう。

私はマリネと申します。この屋敷に仕えており、坊ちゃまの乳母をしております。」


 坊ちゃま――。

 あの小さな男の子、リオンのことだ。


 そっと隣を見ると、彼は布団に潜り込み、私の袖をぎゅっとつまんでいた。


「……母しゃま、きょうもいてくれる?」


 その言葉になぜか胸がぎゅっと締め付けられる。不安そうな、小さくつぶやくような声だった。


 私は、そっと手を伸ばしてリオンの髪をなでた。


「うん。いるでしょ、ちゃんとここに」


 私は子どもを産んだことも、ましてや結婚さえもしていないのに……?

 言葉にして初めて、自分の声がほんの少し震えているのに気づいた。


 彼はほっとしたようにふにゃっと笑うと、腕にしがみついてくる。


「ぎゅー、ちてもいい?」

「うん、ぎゅーってしよっか」


 優しく抱きしめると、小さな手が一生懸命ぎゅっと返してくる。その感触に、自然と頬がゆるんだ。


 朝食の時間になるとテーブルには、小さな子ども用の椅子と食器が用意されていた。


 朝食の席で出されたスープの、ほんのりとした香草の匂いが鼻をつく。

 スプーンの持ち方も椅子の座り方も、この身体が覚えている。けれど、心はちっとも馴染まない。


 リオンはスプーンを持って、一生懸命スープをすくおうと奮闘している。

 でもなかなかうまくいかず、眉をひそめた。


「……母しゃま、しゅくえない」

「じゃあ、一緒にやってみよっか?」


 私が声をかけると、リオンはぱあっと顔を輝かせる。


「うん!」


 私はスプーンを取って器からスープをすくい、そっとリオンの口元へ。


「はい、あーん」

「んー!」


 ぱくっと食べるリオン。もぐもぐ頬を動かす姿に、思わずふふっと笑ってしまった。


(……もぐもぐしてる。かわいい)


 ふと、背後からひそひそ声が聞こえる。


「あの、奥様が……」

「……リオン様に、スープを飲ませてあげているわ」


(えっ、何? そんなに珍しいことなの?)


 リオンが口の端にスープをつけたので、慌ててハンカチで拭いてやる。彼はまた、ふにゃっと笑った。


「おいちい!」

「そう、よかった」


 自然に、そんな言葉が出た。それだけで、また後ろの使用人たちがざわつく。


(……いや、これ普通じゃないの?)


 思わず苦笑しながら、リオンの頭をなでる。


 朝食を終えると、リオンはおとなしく膝の上にちょこんと座り、指をくわえながら見上げてきた。


「……母しゃまのおひざ、だいしゅき」


 ああ、もう可愛い。なんなのこの生き物は。

 社畜時代乗ってきたのは、机いっぱいの上司からの無理難題だけだったというのに──。

 プニプニほっぺをツンツンしたくなるじゃない。


「そう? じゃあ今日は、おひざで絵本読もうか?」

「うん!」


 軽く声をかけると、リオンはぱあっと顔を輝かせ、ちっちゃな手で絵本を取りに行こうとする。

 よろよろとした足取りに慌てて抱き上げた。


「母しゃま、キラキラおひめしゃまみたい! かわい~!」

「……可愛いのはリオンのほうでしょ? こんなにふわふわして、天使みたい」


 彼は嬉しそうに笑った。

 そんなやりとりをしていると、扉の隙間から覗いていた若い侍女が、ぽかんと口を開けて固まっていた。


「お、奥様が……。笑ってらっしゃるわ……」

「しかも、リオン様を自ら『だっこ』して……」


 どよめきとも、感嘆ともつかないひそひそ声。


……えっ、そんなに珍しいの? この人どんだけ無愛想だったのかしら、以前は。


 マリネがそっと膝を折り、微笑んで言った。


「坊ちゃまも、とても嬉しそうでございますね。……ずっと、奥様にこうしていただきたかったのだと思います」

「そう……。リオン」


 名前を呼ぶと、リオンはうれしそうに私の腕にぎゅっと縋り付いた。

 ちいさな体から、じんわりとあたたかい体温が伝わってくる。可愛すぎる……!


「きょうは、てあそびも、しゅるの!」

「いいわよ。あとで一緒にしようね」


 私の記憶はまだぼんやりしている。でもこの子を可愛がることだけは、何故かなんのためらいもなかった。


 ◆


 部屋を出て、廊下を歩くだけでなんとなく理解した。この屋敷の空気は、どこかおかしいことに。


 すれ違う使用人たちは数歩手前で立ち止まり、深々と頭を下げた。

 けれど、私と目を合わせる者はほとんどいない。


(……そんなに怖がられてたの? この女性は)


 足を止め、大きな鏡をのぞき込む。


 映ったのは、長いまつげと透き通るような肌。……でも瞳に影があった。

 凛とした美しさをたたえた――でも、どこか冷たい女。


 笑ってみても、その顔は仮面のようにしか見えなかった。そりゃあ、子どもにも使用人にも避けられるわけだわ。


「……笑顔の練習も、しておいたほうがいいかもね」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。独り言にしては、自分でも少し笑えてくる。


 でも、そんな私をリオンはちゃんと見てくれる。この子だけは、今の『私』を、ちゃんと受け入れてくれている。

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