私が目を覚ました翌朝、屋敷には微妙な緊張が漂っていた。
理由は簡単で、昨日倒れていたはずの『後妻』が、まるで別人のように振る舞ったからだ。
「お加減はいかがでしょうか、奥様」
声をかけてきたのは、控えめな年配の女性だった。
灰色混じりの髪を後ろでまとめた、穏やかな表情の人。
「……大丈夫そう、ありがと。……あなた、名前は?」
我ながらよく返したものだと思う。名前も知らないどころか、自分の立場すらわかっていないのに。
でも、『奥様』と呼ばれるたびに、ぼんやりと記憶がよみがえる。
「倒れられた時に、頭を打たれたのかもしれませんね……。まだ記憶が曖昧なのでしょう。
私はマリネと申します。この屋敷に仕えており、坊ちゃまの乳母をしております。」
坊ちゃま――。
あの小さな男の子、リオンのことだ。
そっと隣を見ると、彼は布団に潜り込み、私の袖をぎゅっとつまんでいた。
「……母しゃま、きょうもいてくれる?」
その言葉になぜか胸がぎゅっと締め付けられる。不安そうな、小さくつぶやくような声だった。
私は、そっと手を伸ばしてリオンの髪をなでた。
「うん。いるでしょ、ちゃんとここに」
私は子どもを産んだことも、ましてや結婚さえもしていないのに……?
言葉にして初めて、自分の声がほんの少し震えているのに気づいた。
彼はほっとしたようにふにゃっと笑うと、腕にしがみついてくる。
「ぎゅー、ちてもいい?」
「うん、ぎゅーってしよっか」
優しく抱きしめると、小さな手が一生懸命ぎゅっと返してくる。その感触に、自然と頬がゆるんだ。
朝食の時間になるとテーブルには、小さな子ども用の椅子と食器が用意されていた。
朝食の席で出されたスープの、ほんのりとした香草の匂いが鼻をつく。
スプーンの持ち方も椅子の座り方も、この身体が覚えている。けれど、心はちっとも馴染まない。
リオンはスプーンを持って、一生懸命スープをすくおうと奮闘している。
でもなかなかうまくいかず、眉をひそめた。
「……母しゃま、しゅくえない」
「じゃあ、一緒にやってみよっか?」
私が声をかけると、リオンはぱあっと顔を輝かせる。
「うん!」
私はスプーンを取って器からスープをすくい、そっとリオンの口元へ。
「はい、あーん」
「んー!」
ぱくっと食べるリオン。もぐもぐ頬を動かす姿に、思わずふふっと笑ってしまった。
(……もぐもぐしてる。かわいい)
ふと、背後からひそひそ声が聞こえる。
「あの、奥様が……」
「……リオン様に、スープを飲ませてあげているわ」
(えっ、何? そんなに珍しいことなの?)
リオンが口の端にスープをつけたので、慌ててハンカチで拭いてやる。彼はまた、ふにゃっと笑った。
「おいちい!」
「そう、よかった」
自然に、そんな言葉が出た。それだけで、また後ろの使用人たちがざわつく。
(……いや、これ普通じゃないの?)
思わず苦笑しながら、リオンの頭をなでる。
朝食を終えると、リオンはおとなしく膝の上にちょこんと座り、指をくわえながら見上げてきた。
「……母しゃまのおひざ、だいしゅき」
ああ、もう可愛い。なんなのこの生き物は。
社畜時代乗ってきたのは、机いっぱいの上司からの無理難題だけだったというのに──。
プニプニほっぺをツンツンしたくなるじゃない。
「そう? じゃあ今日は、おひざで絵本読もうか?」
「うん!」
軽く声をかけると、リオンはぱあっと顔を輝かせ、ちっちゃな手で絵本を取りに行こうとする。
よろよろとした足取りに慌てて抱き上げた。
「母しゃま、キラキラおひめしゃまみたい! かわい~!」
「……可愛いのはリオンのほうでしょ? こんなにふわふわして、天使みたい」
彼は嬉しそうに笑った。
そんなやりとりをしていると、扉の隙間から覗いていた若い侍女が、ぽかんと口を開けて固まっていた。
「お、奥様が……。笑ってらっしゃるわ……」
「しかも、リオン様を自ら『だっこ』して……」
どよめきとも、感嘆ともつかないひそひそ声。
……えっ、そんなに珍しいの? この人どんだけ無愛想だったのかしら、以前は。
マリネがそっと膝を折り、微笑んで言った。
「坊ちゃまも、とても嬉しそうでございますね。……ずっと、奥様にこうしていただきたかったのだと思います」
「そう……。リオン」
名前を呼ぶと、リオンはうれしそうに私の腕にぎゅっと縋り付いた。
ちいさな体から、じんわりとあたたかい体温が伝わってくる。可愛すぎる……!
「きょうは、てあそびも、しゅるの!」
「いいわよ。あとで一緒にしようね」
私の記憶はまだぼんやりしている。でもこの子を可愛がることだけは、何故かなんのためらいもなかった。
◆
部屋を出て、廊下を歩くだけでなんとなく理解した。この屋敷の空気は、どこかおかしいことに。
すれ違う使用人たちは数歩手前で立ち止まり、深々と頭を下げた。
けれど、私と目を合わせる者はほとんどいない。
(……そんなに怖がられてたの? この女性は)
足を止め、大きな鏡をのぞき込む。
映ったのは、長いまつげと透き通るような肌。……でも瞳に影があった。
凛とした美しさをたたえた――でも、どこか冷たい女。
笑ってみても、その顔は仮面のようにしか見えなかった。そりゃあ、子どもにも使用人にも避けられるわけだわ。
「……笑顔の練習も、しておいたほうがいいかもね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。独り言にしては、自分でも少し笑えてくる。
でも、そんな私をリオンはちゃんと見てくれる。この子だけは、今の『私』を、ちゃんと受け入れてくれている。