リオンがお昼寝に入ったタイミングで、マリネがそっとお茶を運んできてくれた。
窓辺には柔らかな日差しが差し込んでいて、どこか現実味のない静けさが満ちている。
「坊ちゃまは、よく眠っておられますね。昨日より表情も穏やかでいらっしゃいます」
「そうね。寝るときまでぎゅっと、私の手を握っていたもの」
ふっと笑いながらカップに口をつけると、ほんのり甘い茶葉の香りが鼻をくすぐる。
(大事なことは、早めに彼女に聞いておかないと……)
「……それで、マリネ」
私は一呼吸おいてから尋ねた。
「……この家の主人は、今は戦地にいるのね? どこなの?」
一瞬、マリネの動きが止まる。けれど彼女はすぐに、静かに口を開いた。
「旦那様は、王命により北の戦地にいらっしゃいます。軍の指揮を執っておられるのです」
「そう、戦地に……」
その言葉が、ひどく遠く感じられた。私が来てから一度も姿を見せないのは、そういうことだったのか。
「……帰ってこられないの? いえ、帰る気がないということ……?」
自分でも、どうしてそんな風に聞いたのかわからなかった。でも、マリネは答えを否定しない。
「もう随分と長い間……、ほとんど不在でございます。奥様が屋敷においでになる前から」
マリネの声はいつもと変わらない穏やかさだったのに、その柔らかさがかえって胸に痛かった。
「……前の奥様とのご関係は、あまり良くなかったの?」
「はい……。政略で結ばれたご縁と伺っております。おふたりはお心を通わせる前に、すれ違ってしまわれたようです」
そこまで言って、マリネははっとしたように口をつぐむ。私は首を横に振って、促すように微笑んだ。
「大丈夫よ、続けて」
少しだけ肩の力を抜いたマリネは、申し訳なさそうに続ける。
「坊ちゃまのお姿を見ていると……」
マリネは、そっと手元のカップに指を添えた。
「旦那様には、お辛いこともあったのでしょう。……ですから、少し距離を。いえ、すべてがそうとは申しませんが」
彼女の言葉は淡々としているのに、なぜか胸がきゅっと痛くなる。
ふ、とリオンの寝顔に目をやる。
頬にかかるやわらかい髪。小さな寝息。そしてどこかこの家に似合わない、まっすぐな無垢さ。
──この子は、そんなつもりで生まれてきたわけじゃないのに。
けれど何も言わずとも、マリネがすべてをわかっているように、お茶を静かに差し出してくれた。
「この子のこと……。彼にとっては辛かったのかしら?」
マリネは何も言わなかった。でもその表情に、すべてが滲んでいた。
肯定でも否定でもない……、でもきっと正直な気持ちだった。
「坊ちゃまの瞳が、亡くなられた先妻様にとてもよく似ておられるのです……」
「……そう」
この子が生まれたことすら、誰かにとっては『痛み』になる──。そんなの、どうして。
「……でも、そんなことわたしには関係ないわよね?」
思わず出た言葉に、マリネが小さく目を見開く。けれどすぐに微笑んでくれた。
「はい。坊ちゃまは奥様といらっしゃる時は、本当に幸せそうに見えますから。
……今、とてもよく笑っておられます。奥様がいてくださって、本当に嬉しそうで」
「そう……。なら、良かったわ」
私はリオンの寝顔を見ながら、そっとその言葉を噛みしめた。
まだうまくは思い出せないけれど──この子のために、もう少し側にいたい。
自分でも気づかないほど静かな決意が、胸の奥でじわっと広がっていく。向き合っていける気がした。
──けれど私は覚えている、途切れ途切れの記憶の中で。この子の父親が、どんな人だったのかを。
『エリシア』という名前のこの女性が、どんな風に扱われてきたのかを。
最後にあの人と顔を合わせたのは、まだ寒さの残る春先だった。
◆
「これから先もずっと、君を愛することはないだろう。……期待するだけ無駄だと思ってくれ」
そう言った彼の声は、冷たくもなく熱もなかった。ただ、義務を読み上げるような口調だった。
「問題さえ起こさなければ、好きに過ごして構わない。公爵夫人としての経費も潤沢に用意するよう、執事に言ってある。
お互いに干渉せずにいれば、平穏に過ごせるはずだ」
そのときの私は──。おそらく『彼女』は、何も言わなかったのだろう。
ただ俯いて、震えるように頭を下げた。
「……承知致しました。いってらっしゃいませ」
小さな声でそう言ったとき、彼は一度も振り返らずに背を向けた。
「……エリシア」
名前を呼ばれたのは、そのときが初めてだった。
けれどそれは、愛しさを含んだ声ではなかった。
ただ、政略で押しつけられた『後妻』を確認するためのような──そんな、音だった。