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兆し 第3話

「父さん、出て行ったよ」


「…え?」


頬から消えていく亜蘭のぬくもり。

代わりに頭をクシャっと撫でられて、真新しいシーツに包まれたベッドに腰を下ろす。



「俺とまったく同じ日に。なんか、そういう話にでもなってたみたいにさ」



両親は、私が小学生の頃から、共働きで忙しそうな人達だった。


平日は夜まで2人共帰ってこなくて、私たちの休日とは違う両親の休みは、ただ彼らの体を癒すためだけに使われていた気がする。




………………………………


「それじゃ、お母さん仕事に行くわ。朝食は冷蔵庫にあるから」


慌ただしく出かける母。

その背中を玄関まで追いかけながら

「お父さんは?」と聞いてみる。


「わからない。部屋にいなければ、仕事に行ったんじゃない?」


両親の夫婦仲が良くないと理解したのは、中学生になってからだった。


両親にはそれぞれの部屋があって、家の中で顔を合わせることはあまりない。



「…いってらっしゃい」


いつの間にか後ろに亜蘭が立っていて、母に見送りの言葉をかけた。


「行ってきます。…今日も家の鍵は亜蘭が持ってよ?ゆりは学校帰りにそのまま塾。…いいわね?」


2人同時に頷いたのを見届けて…母は玄関の向こうに消えていった。



「…お父さんも出かけたみたいだね」


玄関に革靴がない。


「あぁ、キッチンにコーヒーの匂いがしたからな」



飲み物だけでも飲んで出かけたことを、亜蘭は少し安心したように言う。


「そう…だね。お母さんはパンも食べたみたいだけど」


この時はまだ、朝食とも言えないものを口にして、それぞれ仕事に出かける両親の姿がリアルに想像できなかった。


でもなんとなく、寂しさのようなものは感じていて…そうするといつも、私は亜蘭の腕に無邪気に腕を絡ませていた。



「…今日はどっちがパン焼く?」


「いいよ、朝食の支度は俺がやるから。ゆりはちゃんと顔を洗ってきな。…よだれの跡がついてるぞ?」


「うっそ!やだっ…!」


まだ亜蘭を意識していなかった頃。笑い声が、私たち兄妹を包み込んでくれた。



この時、私は12歳。

亜蘭は15歳だった。


…………………


家に両親が不在なのがデフォルトだった我が家。


悪天候の夜や地震があったりすれば、怖がる私を落ち着かせてくれたのは、いつも亜蘭だった。



そんな亜蘭を意識するきっかけは、中学受験を乗り切り、亜蘭と同じ中高一貫校に通い出した頃のこと。



アクシデントは、突然起きた。


ベッドに入った直後、突然大きな揺れに見舞われたのだ。


「地震っ!今すごい揺れた…」


驚いて、とっさに亜蘭の部屋に逃げ込むと、亜蘭はお風呂から出たばかりだったようで、上半身が裸…。


その姿に一瞬戸惑った。



「地震だな…おいで」


亜蘭はそんなことお構い無しに、震える私を抱き寄せる。


…入浴の後だからだろう。

ほんのり石鹸が香って、しっとり水分を含んだ肌に頬が触れて、生まれて初めて心臓が高鳴る…という経験をした。


気づけば、私より頭ひとつ分大きい亜蘭。

息遣いが聞こえるほど近い距離…



「もう…大丈夫!」


慌ててその胸を押して知る。

私より、ずっと硬い体…たくましい体。


「ん。母さんは出張で、父さんも遅いらしいから、怖かったらおいで」



半年くらい前にも、雷雨と吹き荒れる強風の轟音が怖くて…亜蘭の部屋に行った記憶がある。


その時も、嫌な顔ひとつしないで、ベッドに招き入れて一緒に寝てくれた。


「怖いのか…おいで」って、いつもみたいに優しい声で私を呼んで。



………………


亜蘭は私に徹底的に甘かったけど、歪んだ気持ちを抱いていたのは、私だけだったと思う。


日ごとに美しさを増して、違う魅力を重ねていく亜蘭。毎日顔を合わせているのに、そんな兄にときめかない日はなかった。



背の高い亜蘭は、気軽に私の頭を撫でた。そして優しい笑顔をこぼしてくれる。


でも当時の私は子供扱いされてるみたいで悔しくて、乱暴に手を払うこともあった。


それなのに、私と目を合わせた切れ長の瞳は、いつも優しく弧を描く。



「ゆり、可愛いね」


…そんなふうに言わて、私の顔が赤くなるのを面白がった亜蘭。



ずっと気持ちを隠して、自分を責めて苦しんだ。


こんな恋は異常だと。

私は狂っていると。


でも美しい男性として成長していく兄に、どうしようもなく惹かれ続ける自分を止めることはできなかった。





………………


父が出て行った背中を見届けて来たという亜蘭の話は続いた。


「なんか、事情があったんだと思う。…うちの両親」


確かに、表立って喧嘩したりしないかわりに、冷めている夫婦だという印象。


それは子供である私たちにも、早くから植え付けられた。


「じゃあ…お母さん、1人なの?亜蘭も出て来ちゃって」


「うん。でも…全然元気だよ。ゆりが家を出た時のほうがずっと寂しそうだった」



亜蘭の目が、わずかに悲しみをまとうのを見逃さなかった。

だから言ったんだ。

…笑って、欲しくて。



「今度一緒に帰ろうよ。日にちとか…合わせるから」


「珍しいじゃん。…さっさと家を出てから、俺の留守ばっか狙って帰ってたくせに」


…バレていたことにバツの悪さを覚え、慌てて取り繕う。


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