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第4話

春の雨は、絹の糸のように細く――

白家の祠堂を包む青石の床には、静かに血が滲んでいた。


白鏡は膝をつき、無言でうなだれている。

薄衣は真紅に染まり、長い睫毛の先には、赤い雫が一粒。

まるで――血の涙。


裂帛の音を立てて、鞭が雨を裂いた。

白い背に無慈悲な軌跡を残しながら、鋭い音が石壁に響き渡る。


顔は紙のように青ざめ、それでも白鏡は背筋を折らない。

まるで松のように、まっすぐに立ち尽くしていた。


「父上! 兄様は反省しております、どうかお許しを――!」


末の妹が、涙に濡れた顔で父の足元に縋りつく。

白父は怒りに震え、鞭を握る腕に浮かぶ筋が盛り上がっていた。


「この期に及んで、まだ婚姻を拒み、戦地へ行くつもりか!」


白鏡はゆっくりと顔を上げた。

その声は、低く、静かに――けれど、凛としていた。


「はい。奥州へ参ります。かつて大和に膝を屈した蝦夷が、今いかにして朝廷を翻弄しているか。

それを、この目で確かめるために――」


「不孝者がッ!」


怒声と共に、白父の蹴りが白鏡の胸を直撃した。

彼の身体はよろめき、青石の床に崩れ落ちる。


霞む視界の奥――

あの日、笑顔で菓子を差し出してくれた、小さな姫の姿がふと浮かんだ。


何も知らぬ娘だった。

たった一つの菓子で、あっさり心を奪われる、純真で愚かな子。


姫君としての誇りも、名すら持たぬその子が――

どうして命を賭す役割を担わねばならぬのか。


白鏡は、静かに目を閉じた。

雨と涙が、頬を伝って混ざり合う。



……………… 


馬車に揺られて十六日。

私はずっと、自分にふさわしい名前を考えていた。


けれど、ろくに字も知らず、結局ひとつも思いつかないまま――

そのまま、蝦夷の地へと辿り着いてしまった。


暮色のなか、城門の前に現れたのは、背の高い、獣のような男。


馬上で砂塵を巻き上げながら、私の輿の帷を、ばさりと払いのける。


(ま、まさか……この人が、狼主……?)


乱れた髪に、ぼうぼうの髭。まるで山犬。


私は青ざめながら、心の中で悲鳴をあげた。

――和親なんて、もう最悪!!


随行してきた大和の侍たちも、みな顔を引きつらせていた。

私の指先も、知らぬ間に震えていた。


「名は?」


武士の視線が、槍のように突き刺さる。


私は唇を噛み、震えながら答えた。


「な、名は……ございません」


「名無し……だと?」


男は眉をひそめ、後ろへ向かって怒鳴った。


「狼主ーッ! 天皇め、ふざけおって!送りつけてきたのは、名前も持たぬガキだぞ!」


私の腕を引きつかみ、殿内へと乱暴に引きずり込む。

あまりの恐怖に、声も涙も凍りついてしまった。

床に投げ出され、膝を打っても、叫ぶことすらできない。


「狼主! こやつ、姫君などではありません!」


反論の暇もなく、玉座にいた男が立ち上がる。

そして――その手が、私の首を締め上げた。


「姫君でないなら……殺して、代わりを寄越せ」


その声は、地獄の鬼のようだった。

私は嗚咽まじりに叫んだ。


「姫君ですっ! ただ、お名前が……ないだけで!」


男の顔を見た瞬間、言葉が喉で止まった。


「…狼……?」


艶やかな黒髪、肩まで流れる巻き髪。

褐色の肌に浮かぶ、きつく整った目鼻立ち。


碧い瞳に怒りが宿り、手に込めた力が増す。


「偽物なら、なおさら生かしてはおけん」


宙に浮かされたまま、私はもがきながら叫んだ。


「狼っ……! 私だよ、石榴だよ!一緒に骨付き肉を分けた、あの石榴――!」


狼主の目が、かすかに揺れた。


「……石榴って、こんなに太ってたか?」

「最近、いっぱい食べたのっ!」


私は泣きそうな声で訴えた。


「狼、石榴のこと、忘れちゃったの?」

「……いや、俺が悪かった」


彼は膝をつき、私を抱きしめた。

毛皮の襟が頬に触れ、大きな犬に包まれているようなぬくもり。

そのまま、喉の奥から、幼獣のような低いうなり声を洩らした。


「何も言わずに去って、すまなかった」


私は毛皮に顔をうずめ、静かに目を細めた。


「ううん、いいの。だって私たち――一番の友だちだもん」


狼は昔のように、額をこすりつけ、鼻先で私に触れた。

その瞳は潤み、震えた声が胸に響いた。


「石榴……」


……………… 


狼と初めて出会ったのは――

まだ私が、大和の宮中にいた頃のこと。


あのとき、私は二の姫の忍犬に追われていた。

追われて、逃げて、逃げて……ようやく辿り着いた裏の納屋で、

私は、ひとりの少年に出会った。


乞食のようなその少年は、首に鉄の鎖を巻かれ、肌は裂けて膿んでいた。


巻き髪の下――彼の瞳は、獣のように光っていた。

私を睨み、牙を剥き、喉の奥から遠吠えをあげる。


……まるで、獣舎の狼のようだった。


私は、そっと問いかけた。


「……人、なの?」


当然、返事はなかった。

それでも私は、その場を離れることができなかった。


懐の中で、盗んだ塩鮭を握りしめ、しばらく迷って……

ぽん、と、それを彼の足元に投げた。


少年は、魚の匂いを嗅ぐと、次の瞬間――

がつがつと、まるで生きるために食らいつくように食べ始めた。


「……食べるの、早いね」


私のお腹も、ぐぅ、と鳴っていたけれど――


「大丈夫。二の姫の犬たちは、毎日ごはんもらってるもん。

また盗めば、いいだけだもんね」


でも――それ以来、私はもう魚を盗めなかった。


あの少年のことが、ずっと気がかりだった。

母も、名前もないその姿が――

まるで、幽宮に生きる私自身のように思えたから。


それから私は、毎日のように彼のもとへ通った。

食べ物を分け与え、話しかけ、名前を考えた。


「狼(ろう)」


それが、彼の名前になった。


狼は、私に懐いた。

耳を垂らして鼻を鳴らし、ときにはじゃれついてきた。


私の匂いを嗅ぎ、怒れば耳を伏せてうなだれる。

まるで、忠実な犬のようだった。


やがて季節が巡り、私は彼に、言葉を教え始めた。


狼はゆっくり、ゆっくり、人間らしくなっていった。

けれど少しおバカで――


私の名前「十六(とろく)」を、いつも「石榴(ざくろ)」と間違えて呼んだ。


私は訂正したけど、狼は頑として譲らなかった。

「ざくろのほうが、甘くて美味そうだ」と。


それでも、あの頃の時間は――宝物のようだった。


けれどやがて、御父様が将門の娘である中宮様を寵愛され、

後宮には、倹約の命が下った。


女官や宮人たちは食事を減らされ、

炭の配給も切り詰められ、


そして――ある日、狼は忽然と姿を消した。


けやきの木の下に、錆びた鎖だけを残して。


誰にも何も告げず、ただ静かにいなくなった。


私は、ただただ呆然と立ち尽くした。

泣くことも、叫ぶこともできなかった。


……だって、この宮では、誰もがある日、突然いなくなる。

それは、あまりにも、よくあることだったから。


だから私は、その記憶さえ、

やがてぼんやりと、霞んでいったのだった。


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