春の雨は、絹の糸のように細く――
白家の祠堂を包む青石の床には、静かに血が滲んでいた。
白鏡は膝をつき、無言でうなだれている。
薄衣は真紅に染まり、長い睫毛の先には、赤い雫が一粒。
まるで――血の涙。
裂帛の音を立てて、鞭が雨を裂いた。
白い背に無慈悲な軌跡を残しながら、鋭い音が石壁に響き渡る。
顔は紙のように青ざめ、それでも白鏡は背筋を折らない。
まるで松のように、まっすぐに立ち尽くしていた。
「父上! 兄様は反省しております、どうかお許しを――!」
末の妹が、涙に濡れた顔で父の足元に縋りつく。
白父は怒りに震え、鞭を握る腕に浮かぶ筋が盛り上がっていた。
「この期に及んで、まだ婚姻を拒み、戦地へ行くつもりか!」
白鏡はゆっくりと顔を上げた。
その声は、低く、静かに――けれど、凛としていた。
「はい。奥州へ参ります。かつて大和に膝を屈した蝦夷が、今いかにして朝廷を翻弄しているか。
それを、この目で確かめるために――」
「不孝者がッ!」
怒声と共に、白父の蹴りが白鏡の胸を直撃した。
彼の身体はよろめき、青石の床に崩れ落ちる。
霞む視界の奥――
あの日、笑顔で菓子を差し出してくれた、小さな姫の姿がふと浮かんだ。
何も知らぬ娘だった。
たった一つの菓子で、あっさり心を奪われる、純真で愚かな子。
姫君としての誇りも、名すら持たぬその子が――
どうして命を賭す役割を担わねばならぬのか。
白鏡は、静かに目を閉じた。
雨と涙が、頬を伝って混ざり合う。
………………
馬車に揺られて十六日。
私はずっと、自分にふさわしい名前を考えていた。
けれど、ろくに字も知らず、結局ひとつも思いつかないまま――
そのまま、蝦夷の地へと辿り着いてしまった。
暮色のなか、城門の前に現れたのは、背の高い、獣のような男。
馬上で砂塵を巻き上げながら、私の輿の帷を、ばさりと払いのける。
(ま、まさか……この人が、狼主……?)
乱れた髪に、ぼうぼうの髭。まるで山犬。
私は青ざめながら、心の中で悲鳴をあげた。
――和親なんて、もう最悪!!
随行してきた大和の侍たちも、みな顔を引きつらせていた。
私の指先も、知らぬ間に震えていた。
「名は?」
武士の視線が、槍のように突き刺さる。
私は唇を噛み、震えながら答えた。
「な、名は……ございません」
「名無し……だと?」
男は眉をひそめ、後ろへ向かって怒鳴った。
「狼主ーッ! 天皇め、ふざけおって!送りつけてきたのは、名前も持たぬガキだぞ!」
私の腕を引きつかみ、殿内へと乱暴に引きずり込む。
あまりの恐怖に、声も涙も凍りついてしまった。
床に投げ出され、膝を打っても、叫ぶことすらできない。
「狼主! こやつ、姫君などではありません!」
反論の暇もなく、玉座にいた男が立ち上がる。
そして――その手が、私の首を締め上げた。
「姫君でないなら……殺して、代わりを寄越せ」
その声は、地獄の鬼のようだった。
私は嗚咽まじりに叫んだ。
「姫君ですっ! ただ、お名前が……ないだけで!」
男の顔を見た瞬間、言葉が喉で止まった。
「…狼……?」
艶やかな黒髪、肩まで流れる巻き髪。
褐色の肌に浮かぶ、きつく整った目鼻立ち。
碧い瞳に怒りが宿り、手に込めた力が増す。
「偽物なら、なおさら生かしてはおけん」
宙に浮かされたまま、私はもがきながら叫んだ。
「狼っ……! 私だよ、石榴だよ!一緒に骨付き肉を分けた、あの石榴――!」
狼主の目が、かすかに揺れた。
「……石榴って、こんなに太ってたか?」
「最近、いっぱい食べたのっ!」
私は泣きそうな声で訴えた。
「狼、石榴のこと、忘れちゃったの?」
「……いや、俺が悪かった」
彼は膝をつき、私を抱きしめた。
毛皮の襟が頬に触れ、大きな犬に包まれているようなぬくもり。
そのまま、喉の奥から、幼獣のような低いうなり声を洩らした。
「何も言わずに去って、すまなかった」
私は毛皮に顔をうずめ、静かに目を細めた。
「ううん、いいの。だって私たち――一番の友だちだもん」
狼は昔のように、額をこすりつけ、鼻先で私に触れた。
その瞳は潤み、震えた声が胸に響いた。
「石榴……」
………………
狼と初めて出会ったのは――
まだ私が、大和の宮中にいた頃のこと。
あのとき、私は二の姫の忍犬に追われていた。
追われて、逃げて、逃げて……ようやく辿り着いた裏の納屋で、
私は、ひとりの少年に出会った。
乞食のようなその少年は、首に鉄の鎖を巻かれ、肌は裂けて膿んでいた。
巻き髪の下――彼の瞳は、獣のように光っていた。
私を睨み、牙を剥き、喉の奥から遠吠えをあげる。
……まるで、獣舎の狼のようだった。
私は、そっと問いかけた。
「……人、なの?」
当然、返事はなかった。
それでも私は、その場を離れることができなかった。
懐の中で、盗んだ塩鮭を握りしめ、しばらく迷って……
ぽん、と、それを彼の足元に投げた。
少年は、魚の匂いを嗅ぐと、次の瞬間――
がつがつと、まるで生きるために食らいつくように食べ始めた。
「……食べるの、早いね」
私のお腹も、ぐぅ、と鳴っていたけれど――
「大丈夫。二の姫の犬たちは、毎日ごはんもらってるもん。
また盗めば、いいだけだもんね」
でも――それ以来、私はもう魚を盗めなかった。
あの少年のことが、ずっと気がかりだった。
母も、名前もないその姿が――
まるで、幽宮に生きる私自身のように思えたから。
それから私は、毎日のように彼のもとへ通った。
食べ物を分け与え、話しかけ、名前を考えた。
「狼(ろう)」
それが、彼の名前になった。
狼は、私に懐いた。
耳を垂らして鼻を鳴らし、ときにはじゃれついてきた。
私の匂いを嗅ぎ、怒れば耳を伏せてうなだれる。
まるで、忠実な犬のようだった。
やがて季節が巡り、私は彼に、言葉を教え始めた。
狼はゆっくり、ゆっくり、人間らしくなっていった。
けれど少しおバカで――
私の名前「十六(とろく)」を、いつも「石榴(ざくろ)」と間違えて呼んだ。
私は訂正したけど、狼は頑として譲らなかった。
「ざくろのほうが、甘くて美味そうだ」と。
それでも、あの頃の時間は――宝物のようだった。
けれどやがて、御父様が将門の娘である中宮様を寵愛され、
後宮には、倹約の命が下った。
女官や宮人たちは食事を減らされ、
炭の配給も切り詰められ、
そして――ある日、狼は忽然と姿を消した。
けやきの木の下に、錆びた鎖だけを残して。
誰にも何も告げず、ただ静かにいなくなった。
私は、ただただ呆然と立ち尽くした。
泣くことも、叫ぶこともできなかった。
……だって、この宮では、誰もがある日、突然いなくなる。
それは、あまりにも、よくあることだったから。
だから私は、その記憶さえ、
やがてぼんやりと、霞んでいったのだった。