奥州は、敗れた。
かつて大和に人質として滞在していた蝦夷の若き首領は、この国で受けた辱めを忘れていなかった。
恨みを胸に、彼は父を討ち、蝦夷を掌握し、軍を率いて戻ってきた。
その姿はまるで、血に飢えた獣のようだった。
五十八もの城が陥ち、いまや矛先は平安京。
「皇位などいらぬ。ただ一人、姫君を差し出せ」――そう叫んだという。
朝廷は震え上がり、
「三の姫様を嫁がせよ」という声が広まった。
中宮様は言った。
三姉様はその知らせを聞いて以来、食も喉を通らず、床に伏していると。
御父様は三日三晩、朝臣たちと議論を重ねたが、勇将はみな討たれ、残る者たちは誰ひとり前に出ようとはしなかった。
……結局、嫁ぐしかなかった。三姉様が。
それだけはどうしても避けたい――そう思われた中宮様は、桜餅を持って私のもとを訪れ、深く頭を下げられた。
「どうか、あの子の代わりに嫁いでいただけませんか」
私は訊いた。
「嫁いだら、美味しいもの……あります?」
一瞬、中宮様は黙られた。けれど、やがてこう答えた。
「ええ。美味しいものも、綺麗な服も、宝石も、全部、揃っています」
それは、私にはもったいないくらい、素晴らしい話だった。
唇の桜餅をぬぐい、私は胸をぽんと叩いて言った。
「ご安心くださいまし! 嫁ぐだけでしょう? 姉上が嫌なら、十六が行きます!」
……けれど、父上が「白鏡に嫁げ」と?
それでは私、嘘つきになってしまう。
あわてて手を振った。
「ちがいますちがいます、十六は少傅様には嫁ぎません!嫁ぎたいのは、えっと、蝦夷の首領……がらん……」
あれ? 中宮様は何とおっしゃってたかしら?
傍らの老女官が小声で教えてくれた。
「賀蘭狼主(がらんろうしゅ)様にございます」
「そう、それです!」
私は元気よく、声を張り上げた。
「十六は、賀蘭狼主様に嫁ぎたいのです!」
その声は殿の屋根まで響いた。
「なりませぬ!」
突然、白鏡が膝をつき、額を地にすりつけた。
顔は蒼白で、声は必死だった。
「姫君はまだ幼く、婚姻の意味もご存じではございません。どうか、どうか陛下におかれましては、よくお考えのうえ――!」
御父様は指で印籠をまわしながら、黙って白鏡を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開かれた。
「白卿――十六は見た目こそ幼いが、賢くまっすぐな娘よ。朕はこの子を愛しておる。ゆえに、この子の願いを叶えてやりたい」
そうおっしゃって、御袍の袖を払うと、高らかに御旨を下された。
「聞け!十六姫はその徳と容姿において端正なり。これに内親王の位を与え、号を“朝陽院”とす。今後、賀蘭狼主との和親を以て、蝦夷との邦交を永く保つこととせよ」
さらに――
「白鏡を駙馬とし、来月、三の姫との婚儀を結ばせる」と。
白鏡の顔は死人のように青ざめていたが、公の場で逆らうことなどできるはずもなく、ひれ伏して言った。
「謹んで、拝命つかまつります……」
私はというと、新しい寝殿が気になって仕方がなかった。
ふかふかの布団や、美味しい料理や、宝石……全部、見てみたくて。
和親って、なんて素敵!
敕旨を抱えて御学問所を出る頃には、顔がにやけて止まらなかった。
廊下を歩いていると、桜の木の下に白鏡の姿が見えた。
その顔は冷たく、怒りに染まっていた。
怖くなって逃げようとしたとき、手首を掴まれた。
「……和親が、どういう意味かわかっているのか?」
「誰にも顧みられていなかったくせに、なぜそこまで強がる?婚姻を……政(まつりごと)を、遊びだと思っているのか――!」
彼は私の腕を強く引き、子どものように叫んだ。
「来い! 陛下の御前で言え! 和親など、したくないと!」
「嫌よ!」
私は手を振り払って叫んだ。
「和親するの! こんな場所、もう大嫌い! あなたも大嫌い!三姉様と婚約するくせに、私に口出しするなんて、おかしいわ!」
涙が、ぽろぽろと頬を伝った。
「ここには……十六を気にかけてくれる人なんて、誰もいない。
だったら――遠くへ行く。もう、二度と戻ってこない!」
白鏡は呆然と立ち尽くし、唇を動かしても何も言えなかった。
その隙に、私は走り出した。
走って、走って、やっとたどり着いた新しい寝殿には、
風も入らず、ネズミも蛇もおらず、机の上には柏餅が置かれていた。
ふわふわの布団にもぐり込みながら、私はぽつりとつぶやいた。
――和親って、本当に、最高……!