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第3話

奥州は、敗れた。


かつて大和に人質として滞在していた蝦夷の若き首領は、この国で受けた辱めを忘れていなかった。

恨みを胸に、彼は父を討ち、蝦夷を掌握し、軍を率いて戻ってきた。

その姿はまるで、血に飢えた獣のようだった。


五十八もの城が陥ち、いまや矛先は平安京。


「皇位などいらぬ。ただ一人、姫君を差し出せ」――そう叫んだという。


朝廷は震え上がり、

「三の姫様を嫁がせよ」という声が広まった。


中宮様は言った。

三姉様はその知らせを聞いて以来、食も喉を通らず、床に伏していると。


御父様は三日三晩、朝臣たちと議論を重ねたが、勇将はみな討たれ、残る者たちは誰ひとり前に出ようとはしなかった。


……結局、嫁ぐしかなかった。三姉様が。


それだけはどうしても避けたい――そう思われた中宮様は、桜餅を持って私のもとを訪れ、深く頭を下げられた。


「どうか、あの子の代わりに嫁いでいただけませんか」


私は訊いた。


「嫁いだら、美味しいもの……あります?」


一瞬、中宮様は黙られた。けれど、やがてこう答えた。


「ええ。美味しいものも、綺麗な服も、宝石も、全部、揃っています」


それは、私にはもったいないくらい、素晴らしい話だった。

唇の桜餅をぬぐい、私は胸をぽんと叩いて言った。


「ご安心くださいまし! 嫁ぐだけでしょう? 姉上が嫌なら、十六が行きます!」


……けれど、父上が「白鏡に嫁げ」と?

それでは私、嘘つきになってしまう。

あわてて手を振った。


「ちがいますちがいます、十六は少傅様には嫁ぎません!嫁ぎたいのは、えっと、蝦夷の首領……がらん……」



あれ? 中宮様は何とおっしゃってたかしら?

傍らの老女官が小声で教えてくれた。


「賀蘭狼主(がらんろうしゅ)様にございます」

「そう、それです!」


私は元気よく、声を張り上げた。


「十六は、賀蘭狼主様に嫁ぎたいのです!」


その声は殿の屋根まで響いた。


「なりませぬ!」


突然、白鏡が膝をつき、額を地にすりつけた。

顔は蒼白で、声は必死だった。


「姫君はまだ幼く、婚姻の意味もご存じではございません。どうか、どうか陛下におかれましては、よくお考えのうえ――!」


御父様は指で印籠をまわしながら、黙って白鏡を見つめていた。

やがて、ゆっくりと口を開かれた。


「白卿――十六は見た目こそ幼いが、賢くまっすぐな娘よ。朕はこの子を愛しておる。ゆえに、この子の願いを叶えてやりたい」


そうおっしゃって、御袍の袖を払うと、高らかに御旨を下された。


「聞け!十六姫はその徳と容姿において端正なり。これに内親王の位を与え、号を“朝陽院”とす。今後、賀蘭狼主との和親を以て、蝦夷との邦交を永く保つこととせよ」


さらに――

「白鏡を駙馬とし、来月、三の姫との婚儀を結ばせる」と。


白鏡の顔は死人のように青ざめていたが、公の場で逆らうことなどできるはずもなく、ひれ伏して言った。


「謹んで、拝命つかまつります……」


私はというと、新しい寝殿が気になって仕方がなかった。

ふかふかの布団や、美味しい料理や、宝石……全部、見てみたくて。


和親って、なんて素敵!


敕旨を抱えて御学問所を出る頃には、顔がにやけて止まらなかった。


廊下を歩いていると、桜の木の下に白鏡の姿が見えた。

その顔は冷たく、怒りに染まっていた。


怖くなって逃げようとしたとき、手首を掴まれた。


「……和親が、どういう意味かわかっているのか?」

「誰にも顧みられていなかったくせに、なぜそこまで強がる?婚姻を……政(まつりごと)を、遊びだと思っているのか――!」


彼は私の腕を強く引き、子どものように叫んだ。


「来い! 陛下の御前で言え! 和親など、したくないと!」

「嫌よ!」


私は手を振り払って叫んだ。


「和親するの! こんな場所、もう大嫌い! あなたも大嫌い!三姉様と婚約するくせに、私に口出しするなんて、おかしいわ!」


涙が、ぽろぽろと頬を伝った。


「ここには……十六を気にかけてくれる人なんて、誰もいない。

だったら――遠くへ行く。もう、二度と戻ってこない!」


白鏡は呆然と立ち尽くし、唇を動かしても何も言えなかった。

その隙に、私は走り出した。


走って、走って、やっとたどり着いた新しい寝殿には、


風も入らず、ネズミも蛇もおらず、机の上には柏餅が置かれていた。

ふわふわの布団にもぐり込みながら、私はぽつりとつぶやいた。


――和親って、本当に、最高……!


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