清涼殿の西の間にいた采女が、かつてひそひそと教えてくれた。
――あなたの母上は、もとは紫宸殿の灯火を司る女官だった、と。
その頃、皇后様のご体調がすぐれず、御父様は夜ごと女官の中から気まぐれにひとりを選んでは、寝殿へお召しになっていた。
選ばれたのが、私の母だった。
あと一年で宮中を出られるはずだったのに。
許嫁もいた。宮中で衛士を務める、真面目な若者だったそうだ。
ふたりは退宮したら祝言を挙げると、約束していたらしい。
けれど、そんな願いは、叶わなかった。
母は「陛下の天顔を損ねた」とされ、冷え冷えとした清涼殿へと追いやられた。
そして、私を身ごもり、ひとりで産んだ。
それでも、御父様は一度として会いに来なかった。
名すら、与えてはくださらなかったのだ。
……そして今もなお、父上は私を思い出してはくださらなかった。
母のことも、十六姫のことも。
それでも――笑って、こうおっしゃったのだ。
「十六、朕に何の用かな?」
「嫁ぎとうございます!」
私は顔を上げ、にこりと笑った。
「十六も、もうお年頃です。お嫁に行かなくては!」
公卿たちがどっと笑い、空気が緩んだ。
御父様は私を起こして頭を撫で、まるで本当の姫君のように、やさしく問いかけてくださった。
「十六は、誰に嫁ぎたいのだ? 朕が婚儀を取り持ってやろうぞ」
そのとき、傍らの老女官が、くすっと笑いながら進言した。
「どうやら十六姫と白少傅様とは、親しゅうございますようで――」
「ほう。十六は、白少傅が好きか?」
御父様が興味深げに眉を上げた瞬間、人垣の中にいた白鏡の顔が、みるみる青ざめていくのが見えた。
唇を固く閉じ、私をじっと見つめる――まるで私が「嫁ぎたい」と言うのを恐れているかのように。
……彼が私を嫌っていることなんて、ずっと前からわかっていた。
彼と初めて出会ったのは、雪の降る日だった。
私は炭をもらおうとして、小姓たちに犬の真似をさせられていた。
そこへ彼が通りかかり、厳しい顔で小姓たちを叱り、自分の懐から金を取り出して、私のために置いていった。
私は、彼が誰かを知っていた。
白鏡は、東宮殿下と姉上の教育係――誉れ高き少傅様だった。
人々は、私を「痴れ者の姫」と呼んだ。
その名が、悔しくて。
盲目の洗濯婆から「本を読めば利口になれる」と聞いてからは、犬のように穴をくぐり抜けて、御学問所の壁際に張りつき、講義を盗み聞きしていた。
彼の声は柔らかく、澄んでいた。
けれど、私の頭では、なかなか内容が理解できず、唯一覚えたのは――
「露の世は 露の世ながら さりながら」
忘れぬよう、いちばん暖かい服の裏地に縫いとめて、折に触れては見返していた。
いつか、この句の意味を白鏡に教えてもらいたくて。
……それなのに。
ある日を境に、白鏡は私を強く拒むようになった。
あれは、宮中の宴の夜だった。
庭で数人の貴族の若者たちに出くわした。
彼らは、きっと私を幼い下女か何かだと思ったのだろう。
甘味を差し出し、「艶やかな歌をうたえ」と命じ、ある者は「自分の遊女にならぬか」と囁いた。
「遊女」が何なのか、私は知らなかった。
けれど――「飢えない」「寒くない」という言葉に、心が揺れた。
それは、ずっと私が夢見ていたことだったから。
目を輝かせて訊ねた。
「いつ連れてってくれるの?」と。
……そのとき、白鏡が、そこにいた。
彼は私の腕を乱暴に掴み、そのまま力任せに引きずった。
骨が砕けるかと思うほど、強い力で。
「貴女は――大和の姫君であろう!男を見れば媚び、枕を抱えて寄って行くとは……何たる恥知らず! 姫君たる者、誇り高く、毅然として、男にも劣らぬ気骨を持つべきだ!」
私は呆然と立ち尽くしていた。
涙が止まらず、どうしてよいのかもわからなかった。
白鏡様がなぜそこまで怒られたのか、私にはわからなかった。
母は、こうして私を育ててくれたのだ。
母が亡くなった後も、私はただ、それをなぞるように生きてきた。
それが、そんなに悪いことだなんて――思ってもいなかった。
戦が始まってからは、私たちの境遇はますます厳しくなった。
身を落とすようなことも、日に日に増えていった。
皇后陛下は後宮の倹約を命じられたが、切り詰められるのはいつも、寵のない者たちの取り分ばかり。
月々の俸禄も中間に吸い上げられて、手元に残るのはほんのわずか。
どこぞの妃が炭を切らせば、その不足分は我らのもとへ回ってくる。
冷えに凍え、空腹に堪える日々。
歌をうたおうが、笑いものになろうが、衣食を得られるのなら、私は一日に千度でも唱えてみせようと思っていた。
――けれど、白鏡様の今日の叱責は、私の在り方そのものが「間違いだ」と言っていた。
どう言い返せばよいのかわからず、私はただ、袖で涙を拭い続けた。
黙ったままの私を見て、白鏡様は落胆の色を浮かべ、袖を払って背を向けた。
それきり、二度と私に何かを与えてくださることはなかった。
私はその後も、清涼殿で身を縮めながら生き続けた。
下働きの者たちにからかわれ、犬の餌鉢に残った笹団子のかけらを拾っただけで、胸が跳ねるほど嬉しかった。
ある日、また御学問所の壁際で講義を盗み聞いていたときのこと。
衛士に見つかり、殴られた。
そのまま地面に倒れ、意識が遠のいていくなか――
三番姉様が、私を抱き起こしてくださった。
薬を与え、手当てまでしてくださった。
命の恩人。
――だからこそ、絶対に、報いなければならない。