扉を開ける前、私は一度だけ瞬きをした。
目の奥のかすかな熱を、夜の風に溶かすように。
薄暮の頃――
賀蘭狼主は静かに座り、その彫り深い顔立ちに金の縁をまとわせていた。
彼は目を伏せ、黙々と、私の草履を縫っていた。
普段は人を斬るその指先が、針を持つ姿は、まるで違和感などなかった。
「なにしてるの?」
私は思わず走り寄り、目を輝かせて訊いた。
「石榴が、三の姫のような草履が欲しいって言ってただろう?」
彼は針を置き、私をそのまま腕の中へ抱き寄せる。
耳元にそっと吐息がかかる。
「石榴のために、縫ってるんだ」
「狼、最高!」
私は首に腕を回し、頬にちゅっと口づけし、さらに図々しくも言った。
「じゃあ、鳳凰の刺繍も欲しいな! 金糸の鳳凰、きれいだから!」
彼の褐色の頬が少し赤くなり、伏せた瞳に燭の光が揺れた。
「……よし。狼が縫うよ」
私は首を傾げ、くすくすと笑う。
「どうして、なんでもくれるの?」
彼は静かに笑い、額を私の額にそっと押し当てる。
その碧い瞳に、灯の光がきらめいた。
「狼というものは、生まれながらにして、主のためにすべてを捧げるものだから」
私は彼の胸に顔を埋め、目を閉じる。
「狼は狼じゃない。大きな犬なの」
視線を伏せたまま、彼の顔は見えなかったけれど――
声は変わらず、まっすぐだった。
「狼は、石榴の犬。石榴だけの、犬」
彼は私の頬に顔を擦り寄せ、忠犬のように静かに囁いた。
「そうだ。俺は石榴のもの。石榴も、俺だけのもの」
…………
翌日、宮中で宴が催された。
私は初めて、清涼殿の西六局を出て、大殿に足を踏み入れた。
慣れない空間に緊張して、賀蘭狼主の袖口をぎゅっと握りしめていたけれど――
ついに足を滑らせて、そのまま大殿の中央に転んでしまった。
ざわ、と起こる嗤い声。
「痴れ姫」と呼ばれた頃の名残のように、失態を笑う声が四方から降ってくる。
賀蘭狼主の瞳が、鋭く暗く光った。
御父様は慌てて声を上げ、場を鎮めた。
張り詰めた空気の中、私は彼の腕にすがりながら、席についた。
香る酒の匂いにまぎれて、
私は辺りを見回し、三の姫の姿を探した。
「三姉様は?」
御父様は穏やかに答える。
「身体の具合が悪くて、寝殿で休んでおる。
女官をつけるから、見舞ってやってくれ」
賀蘭狼主は、笑って私の背を押した。
「すぐ戻ってくるんだよ」
私は素直にうなずいた。
子どものように、純粋に。
けれど、廊を十歩ほど進んだそのとき――
背後から、甲冑がぶつかる金属音が響いた。
女官は震え上がったが、
私は歩みを止めなかった。
むしろ、いつものように笑ってこう言った。
「姉様、どうしちゃったの? 早く、三姉様に会わせてよ」
次の瞬間――
殿全体に響く、怒号と殺気。
引き返した私は、衛兵に奥書院の密室へと丁重に案内された。
そこには、賀蘭狼主がいた。
跪かされ、手も足も鎖に繋がれていた。
その目は、怒りではなく、深い悲しみに染まっていた。
「石榴……欲しいものがあったなら、言ってくれればよかったのに」
彼の声は、いつもと変わらぬ優しさだった。
だが、私は彼を見ようともせず、
くるりと振り向いて――笑顔で御父様へ頭を下げた。
「父上様、虜にした虞夷(えみし)の王を、このように生け捕りに。おめでとうございます」
御父様は大いに満足し、私の肩をぽんぽんと叩いた。
「これはすべて、お前の手柄だ。
望みのものがあれば言ってみよ。封号でも、褒美でも、なんでも叶えてやろう」
「いえ、わたくしは何も要りませぬ。
ただ、父上様のもとで、天下統一の夢をお支えしたいのです」
私はそう言って、傍らの酒壺から杯を二つ取り出した。
そのうちの一つを両手で捧げる。
「父上様、これを……どうぞ」
彼は杯を手に取ったものの、
飲まず、ただ私を見つめていた。
そして、もう一つの杯を見届けた。
私は静かに、杯を仰いで一気に飲み干した。
密室には、私たち三人だけ。
御父様は、慎重に酒を地面へとすべて注ぎ、笑って言った。
「これは天地への献杯としよう。
朕の覇業、天も見届けておるわ!」
……五、四、三――
私は心の中で、黙々と数えた。
ガシャン。
彼の目が、大きく見開かれた。
唇から、どろりと黒い血が流れ出す。
それでも、まだ死には至らなかった。
「お前……お前は……」
「父上、あなたは、どうしてそんなに愚かだったの?」
私は冷ややかな目で見下ろす。
「この宮には、あなたを憎む者がいくらでもいるのに。
なぜ、こんなにも簡単に――
後宮で生き延びた“ただの娘”の言葉を、信じてしまったの?」
残念ながら、わたしも――あなたを恨んでいた一人なのです」
私は、頭に挿していた笄(こうがい)を反して抜き、
鋭く研いでいたその先で、
彼の喉を――迷いなく、突き刺した。
返り血が、顔に、睫毛に飛び散った。
けれど、私は一度も瞬きをしなかった。
その身体に、何度も、何度も。
血に染まった着物の袖を握りしめ、
ようやく立ち上がった私は、
顔に笑みを浮かべて言った。
「父上様を、黄泉路へとお送りいたします」
…………
賀蘭狼主は、黙ってその様子を見ていた。
そして、ふと――微笑む。
「石榴……人を殺すの、手慣れてるな」
私は顔に飛び散った血を、袖でぬぐいながら、にやりと笑った。
「ありがとう。
だって、“一度目”より、“二度目”の方が簡単なんだもの」
……そう。
最初に殺したのは――
わたしの、生みの母だった。