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第7話


扉を開ける前、私は一度だけ瞬きをした。


目の奥のかすかな熱を、夜の風に溶かすように。




薄暮の頃――


賀蘭狼主は静かに座り、その彫り深い顔立ちに金の縁をまとわせていた。




彼は目を伏せ、黙々と、私の草履を縫っていた。


普段は人を斬るその指先が、針を持つ姿は、まるで違和感などなかった。




「なにしてるの?」




私は思わず走り寄り、目を輝かせて訊いた。




「石榴が、三の姫のような草履が欲しいって言ってただろう?」




彼は針を置き、私をそのまま腕の中へ抱き寄せる。


耳元にそっと吐息がかかる。




「石榴のために、縫ってるんだ」


「狼、最高!」




私は首に腕を回し、頬にちゅっと口づけし、さらに図々しくも言った。




「じゃあ、鳳凰の刺繍も欲しいな! 金糸の鳳凰、きれいだから!」




彼の褐色の頬が少し赤くなり、伏せた瞳に燭の光が揺れた。




「……よし。狼が縫うよ」




私は首を傾げ、くすくすと笑う。




「どうして、なんでもくれるの?」




彼は静かに笑い、額を私の額にそっと押し当てる。


その碧い瞳に、灯の光がきらめいた。




「狼というものは、生まれながらにして、主のためにすべてを捧げるものだから」




私は彼の胸に顔を埋め、目を閉じる。




「狼は狼じゃない。大きな犬なの」




視線を伏せたまま、彼の顔は見えなかったけれど――


声は変わらず、まっすぐだった。




「狼は、石榴の犬。石榴だけの、犬」




彼は私の頬に顔を擦り寄せ、忠犬のように静かに囁いた。




「そうだ。俺は石榴のもの。石榴も、俺だけのもの」



…………



翌日、宮中で宴が催された。




私は初めて、清涼殿の西六局を出て、大殿に足を踏み入れた。




慣れない空間に緊張して、賀蘭狼主の袖口をぎゅっと握りしめていたけれど――


ついに足を滑らせて、そのまま大殿の中央に転んでしまった。




ざわ、と起こる嗤い声。


「痴れ姫」と呼ばれた頃の名残のように、失態を笑う声が四方から降ってくる。




賀蘭狼主の瞳が、鋭く暗く光った。


御父様は慌てて声を上げ、場を鎮めた。




張り詰めた空気の中、私は彼の腕にすがりながら、席についた。




香る酒の匂いにまぎれて、


私は辺りを見回し、三の姫の姿を探した。




「三姉様は?」




御父様は穏やかに答える。




「身体の具合が悪くて、寝殿で休んでおる。


女官をつけるから、見舞ってやってくれ」




賀蘭狼主は、笑って私の背を押した。




「すぐ戻ってくるんだよ」




私は素直にうなずいた。


子どものように、純粋に。




けれど、廊を十歩ほど進んだそのとき――




背後から、甲冑がぶつかる金属音が響いた。




女官は震え上がったが、


私は歩みを止めなかった。




むしろ、いつものように笑ってこう言った。




「姉様、どうしちゃったの? 早く、三姉様に会わせてよ」




次の瞬間――


殿全体に響く、怒号と殺気。




引き返した私は、衛兵に奥書院の密室へと丁重に案内された。




そこには、賀蘭狼主がいた。




跪かされ、手も足も鎖に繋がれていた。




その目は、怒りではなく、深い悲しみに染まっていた。




「石榴……欲しいものがあったなら、言ってくれればよかったのに」




彼の声は、いつもと変わらぬ優しさだった。




だが、私は彼を見ようともせず、


くるりと振り向いて――笑顔で御父様へ頭を下げた。




「父上様、虜にした虞夷(えみし)の王を、このように生け捕りに。おめでとうございます」




御父様は大いに満足し、私の肩をぽんぽんと叩いた。




「これはすべて、お前の手柄だ。


望みのものがあれば言ってみよ。封号でも、褒美でも、なんでも叶えてやろう」




「いえ、わたくしは何も要りませぬ。


ただ、父上様のもとで、天下統一の夢をお支えしたいのです」




私はそう言って、傍らの酒壺から杯を二つ取り出した。


そのうちの一つを両手で捧げる。




「父上様、これを……どうぞ」




彼は杯を手に取ったものの、


飲まず、ただ私を見つめていた。




そして、もう一つの杯を見届けた。


私は静かに、杯を仰いで一気に飲み干した。




密室には、私たち三人だけ。




御父様は、慎重に酒を地面へとすべて注ぎ、笑って言った。




「これは天地への献杯としよう。


朕の覇業、天も見届けておるわ!」




……五、四、三――




私は心の中で、黙々と数えた。




ガシャン。




彼の目が、大きく見開かれた。




唇から、どろりと黒い血が流れ出す。




それでも、まだ死には至らなかった。




「お前……お前は……」




「父上、あなたは、どうしてそんなに愚かだったの?」




私は冷ややかな目で見下ろす。




「この宮には、あなたを憎む者がいくらでもいるのに。


なぜ、こんなにも簡単に――


後宮で生き延びた“ただの娘”の言葉を、信じてしまったの?」

残念ながら、わたしも――あなたを恨んでいた一人なのです」




私は、頭に挿していた笄(こうがい)を反して抜き、


鋭く研いでいたその先で、


彼の喉を――迷いなく、突き刺した。




返り血が、顔に、睫毛に飛び散った。


けれど、私は一度も瞬きをしなかった。




その身体に、何度も、何度も。




血に染まった着物の袖を握りしめ、


ようやく立ち上がった私は、


顔に笑みを浮かべて言った。




「父上様を、黄泉路へとお送りいたします」



…………



賀蘭狼主は、黙ってその様子を見ていた。


そして、ふと――微笑む。




「石榴……人を殺すの、手慣れてるな」




私は顔に飛び散った血を、袖でぬぐいながら、にやりと笑った。




「ありがとう。


だって、“一度目”より、“二度目”の方が簡単なんだもの」




……そう。


最初に殺したのは――




わたしの、生みの母だった。



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