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君のとなりに夏がいた
君のとなりに夏がいた
ゆうき かえで
恋愛現代恋愛
2025年06月05日
公開日
4,291字
連載中
――君の声は、なぜか僕だけに届いた。 東京郊外の高校に通う高橋悠真は、静かに日々を過ごす写真部の高校二年生。 新学期のある日、放課後の音楽室で出会ったのは、耳に秘密を抱える少女・篠崎美羽。 彼女は、近くの音しか聴こえない。 だから、誰にも気づかれず、誰の言葉にも反応しない。 だけど—— なぜか、僕の声だけは届いた。 放課後の教室、夏の海辺、文化祭の夜。 彼女と過ごす時間が、僕の季節を塗り替えていく。 これは、ひとりの少女に恋をした少年が、彼女の“沈黙”を音に変えていく物語。 そして、いつか“その声”が届かなくなることを、まだ知らない僕らの、短くて永遠の夏。

第1話 春の調律

四月の東京郊外、雪乃坂高校。

 始業式を終えた校舎には、春の光が斜めに差し込み、廊下の床に窓枠の影をくっきりと落としていた。


 新しいクラス、新しい席、新しい顔ぶれ。

 けれど、教室の空気はまだどこかぎこちなくて、どのグループも遠慮がちに会話をしていた。


 高橋悠真は、教室の窓際の席で、手持ち無沙汰に机の角を指先でなぞっていた。

 桜の花びらが、風に吹かれて窓から差し込んでくるたびに、それを目で追うことしかできなかった。


 隣の席では、初対面の男子がスマホをいじっている。

 前の席では、女子二人が小声でプロフィール帳のようなものを交換している。


 (春って、なんか、うるさいのに静かだな……)


 内心でそう思いながらも、声に出すことはなかった。

 悠真は元々、積極的に誰かと打ち解けるタイプではない。

 友達がいないわけではないが、自分から踏み込むのが苦手だった。


 そんな彼が唯一、落ち着ける場所が写真部だった。


 レンズ越しなら、人の表情も、風景も、音も、静かに見つめることができた。

 だから今日も、昼休みになった瞬間、カメラを肩にかけて校舎の裏へと歩き出した。




 校庭の隅、人気の少ない通用口を抜けると、小さな木造の建物が見えてくる。

 旧音楽室。

 数年前まで使われていたが、今では誰も訪れない忘れられた空間。


 「今日も、誰もいないか……」


 呟いたとき、ふと、建物の中から微かに音が聞こえた。

 ピアノの音だった。


 弱く、たどたどしく、それでもまっすぐに響く旋律。

 風に混じって耳に届いたその音に、なぜか胸の奥がざわめいた。


 悠真はそっと歩を進め、ドアの前に立った。

 古びた木製のドアの隙間からは、淡い光が漏れている。

 静かにノブに手をかけて、迷いながらもドアを開けた。


 ギィ……という音と共に、音が止んだ。


 教室の奥、窓際のピアノの前に、一人の少女が座っていた。


 制服のブラウスに、肩まで伸びた黒髪。

 首元には紅いリボンが揺れている。

 逆光の中で、彼女の輪郭はどこかぼんやりと滲んでいた。


 「……あの、ごめん。驚かせた?」


 声をかけると、少女はほんのわずかに眉を動かした。

 そして、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書いた。


 《大丈夫です。こちらこそ、勝手に使っていてごめんなさい。》


 悠真は目を瞬き、メモを受け取って読みながら小さく笑った。


 「いや……むしろ、すごくよかったよ。音、綺麗だった。」


 そう言うと、彼女は目を見開き、そして恥ずかしそうに視線を逸らした。


 もう一度、メモ帳が差し出される。


 《耳があまり良くなくて……自分で音がずれてるの、分からないときがあるの。》


 「えっ……そうなんだ。」


 彼女は胸元の髪をかき分け、そこに小さな補聴器がついているのを見せた。

 補聴器を使っている——それだけで、彼女の演奏がなぜあんなに繊細だったのかが、少しだけ理解できた気がした。


 「それでも、ちゃんと届いてたよ。僕には。」


 彼女は、驚いたようにまたこちらを見た。

 そして、ふっと微笑んだ。


 その笑顔は、音よりも柔らかく、春の光よりも温かかった。




 翌日。

 放課後、悠真はまた旧音楽室を訪れた。


 ドアを開けると、彼女はすでにピアノの前に座っていた。

 昨日と同じように、鍵盤に手を置いたまま、静かに窓の外を見つめていた。


 「……来ても、よかった?」


 彼女は、うなずいた。

 それだけで、空気がふっとほどける。


 悠真は部屋の隅にある椅子を引いて、少し離れた場所に座った。

 そして、カメラを取り出す。


 シャッターを切る音が一度だけ響く。

 彼女の横顔を撮ったのだ。


 「……ごめん。勝手に。なんか……音を写真にしたくなった。」


 彼女は少し驚いたようにこちらを見て、そしてまたメモ帳に何かを書いた。


 《写真って、音も撮れるの?》


 「……気持ちがこもってれば、たぶん。」


 その言葉に、彼女はほんの少しだけ笑った。

 前よりも、確かに長く、そして優しく。




 数日後の放課後。

 窓の外では、春の雨がしとしとと降っていた。


 悠真が教室を出るとき、誰かに呼び止められた。


 「おい、高橋ー。またカメラかよ。あの変な古い部屋、まだ行ってんの?」


 クラスの男子が軽口を叩く。

 悠真は苦笑して、はぐらかした。


 (変じゃないし……あそこは、別に“誰かの場所”じゃなくてもいいだろ)


 それは、自分にも言い聞かせるような言葉だった。

 でも、その日の音楽室には、彼女の姿はなかった。


 雨音だけが、部屋の壁にやさしく響いていた。


 椅子に座り、しばらくのあいだ窓を眺めていた。


 やがて、ドアが静かに開く音。


 振り返ると、彼女が立っていた。


 濡れた髪をタオルで拭きながら、少し息を弾ませている。

 それでも、手にはあのメモ帳をしっかりと握っていた。


 《遅れてごめん。雨、嫌いじゃないけど、走るのは苦手。》


 「……大丈夫。間に合った。」


 彼女は、また笑った。


 その笑顔を見たとき、悠真は気づいた。

 この春、何かが始まろうとしている。


 音のない彼女と、音に名前を与えられない僕。

 その“間”に生まれるものが、たぶん、恋なのだと思った。

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