四月の東京郊外、雪乃坂高校。
始業式を終えた校舎には、春の光が斜めに差し込み、廊下の床に窓枠の影をくっきりと落としていた。
新しいクラス、新しい席、新しい顔ぶれ。
けれど、教室の空気はまだどこかぎこちなくて、どのグループも遠慮がちに会話をしていた。
高橋悠真は、教室の窓際の席で、手持ち無沙汰に机の角を指先でなぞっていた。
桜の花びらが、風に吹かれて窓から差し込んでくるたびに、それを目で追うことしかできなかった。
隣の席では、初対面の男子がスマホをいじっている。
前の席では、女子二人が小声でプロフィール帳のようなものを交換している。
(春って、なんか、うるさいのに静かだな……)
内心でそう思いながらも、声に出すことはなかった。
悠真は元々、積極的に誰かと打ち解けるタイプではない。
友達がいないわけではないが、自分から踏み込むのが苦手だった。
そんな彼が唯一、落ち着ける場所が写真部だった。
レンズ越しなら、人の表情も、風景も、音も、静かに見つめることができた。
だから今日も、昼休みになった瞬間、カメラを肩にかけて校舎の裏へと歩き出した。
校庭の隅、人気の少ない通用口を抜けると、小さな木造の建物が見えてくる。
旧音楽室。
数年前まで使われていたが、今では誰も訪れない忘れられた空間。
「今日も、誰もいないか……」
呟いたとき、ふと、建物の中から微かに音が聞こえた。
ピアノの音だった。
弱く、たどたどしく、それでもまっすぐに響く旋律。
風に混じって耳に届いたその音に、なぜか胸の奥がざわめいた。
悠真はそっと歩を進め、ドアの前に立った。
古びた木製のドアの隙間からは、淡い光が漏れている。
静かにノブに手をかけて、迷いながらもドアを開けた。
ギィ……という音と共に、音が止んだ。
教室の奥、窓際のピアノの前に、一人の少女が座っていた。
制服のブラウスに、肩まで伸びた黒髪。
首元には紅いリボンが揺れている。
逆光の中で、彼女の輪郭はどこかぼんやりと滲んでいた。
「……あの、ごめん。驚かせた?」
声をかけると、少女はほんのわずかに眉を動かした。
そして、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書いた。
《大丈夫です。こちらこそ、勝手に使っていてごめんなさい。》
悠真は目を瞬き、メモを受け取って読みながら小さく笑った。
「いや……むしろ、すごくよかったよ。音、綺麗だった。」
そう言うと、彼女は目を見開き、そして恥ずかしそうに視線を逸らした。
もう一度、メモ帳が差し出される。
《耳があまり良くなくて……自分で音がずれてるの、分からないときがあるの。》
「えっ……そうなんだ。」
彼女は胸元の髪をかき分け、そこに小さな補聴器がついているのを見せた。
補聴器を使っている——それだけで、彼女の演奏がなぜあんなに繊細だったのかが、少しだけ理解できた気がした。
「それでも、ちゃんと届いてたよ。僕には。」
彼女は、驚いたようにまたこちらを見た。
そして、ふっと微笑んだ。
その笑顔は、音よりも柔らかく、春の光よりも温かかった。
翌日。
放課後、悠真はまた旧音楽室を訪れた。
ドアを開けると、彼女はすでにピアノの前に座っていた。
昨日と同じように、鍵盤に手を置いたまま、静かに窓の外を見つめていた。
「……来ても、よかった?」
彼女は、うなずいた。
それだけで、空気がふっとほどける。
悠真は部屋の隅にある椅子を引いて、少し離れた場所に座った。
そして、カメラを取り出す。
シャッターを切る音が一度だけ響く。
彼女の横顔を撮ったのだ。
「……ごめん。勝手に。なんか……音を写真にしたくなった。」
彼女は少し驚いたようにこちらを見て、そしてまたメモ帳に何かを書いた。
《写真って、音も撮れるの?》
「……気持ちがこもってれば、たぶん。」
その言葉に、彼女はほんの少しだけ笑った。
前よりも、確かに長く、そして優しく。
数日後の放課後。
窓の外では、春の雨がしとしとと降っていた。
悠真が教室を出るとき、誰かに呼び止められた。
「おい、高橋ー。またカメラかよ。あの変な古い部屋、まだ行ってんの?」
クラスの男子が軽口を叩く。
悠真は苦笑して、はぐらかした。
(変じゃないし……あそこは、別に“誰かの場所”じゃなくてもいいだろ)
それは、自分にも言い聞かせるような言葉だった。
でも、その日の音楽室には、彼女の姿はなかった。
雨音だけが、部屋の壁にやさしく響いていた。
椅子に座り、しばらくのあいだ窓を眺めていた。
やがて、ドアが静かに開く音。
振り返ると、彼女が立っていた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、少し息を弾ませている。
それでも、手にはあのメモ帳をしっかりと握っていた。
《遅れてごめん。雨、嫌いじゃないけど、走るのは苦手。》
「……大丈夫。間に合った。」
彼女は、また笑った。
その笑顔を見たとき、悠真は気づいた。
この春、何かが始まろうとしている。
音のない彼女と、音に名前を与えられない僕。
その“間”に生まれるものが、たぶん、恋なのだと思った。