六月の終わり。
東京は梅雨の終盤に入り、朝の雨と午後の陽射しが交互に日々を塗り替えていた。
雪乃坂高校の校舎には、季節の移ろいを告げる匂いが満ちていた。
濡れたアスファルト、雨に滲んだチョークの粉、誰かのシャツから漂う洗剤の香り。
高橋悠真は、窓際の席で頬杖をついたまま、ぼんやりと校庭を眺めていた。
教室では文化祭の話題が盛り上がっていて、前の席では女子たちが浴衣の色について議論していた。
「ねえ、やっぱり赤って目立ちすぎるかな?」
「でもさ、文化祭なんだし派手なくらいがよくない?」
その会話が耳に入るたび、悠真はわずかに目を細めた。
彼の視線の先には、隣の席で静かにノートを開く少女――篠崎美羽がいた。
彼女は今日も白いカーディガンを羽織って、うつむきながら小さな字を並べていた。
「……なあ、文化祭のこと、なんか興味ある?」
何気なく話しかけると、美羽は一瞬だけ顔を上げ、そしてゆっくり首を振った。
「そっか」
それ以上、言葉はなかった。
だが、彼の中には小さな棘のようなものが残った。
――彼女にとって、この“学校”という場所は、やっぱり少し遠いのかもしれない。
文化祭の準備は予想以上に忙しかった。
悠真のクラスは「昭和レトロ写真館」という出し物に決まり、浴衣や古い制服、小道具の準備に追われた。
「おーい、高橋、お前カメラマンな。お前の撮る写真、妙に雰囲気あるし」
担任の一言で、彼の役割はあっさりと決まった。
もともと写真部に籍を置いていた彼にとって、それは悪くない選択だった。
「じゃあ、美羽にも撮らせてみたら? 構図のセンスありそうだし」
クラスメイトが軽く提案したが、美羽はゆっくりと首を横に振った。
《わたしは見るほうが好き》
メモ帳に書かれたその言葉に、悠真は少しだけ胸がくすぐったくなるような気持ちになった。
放課後。
準備を終えて教室を出ると、夕方の廊下に微かな風が吹き抜けた。
旧音楽室の扉が、わずかに開いている。
彼が覗くと、そこには一人でピアノを弾く美羽の姿があった。
音は静かで、儚く、しかし芯の通った旋律だった。
それはまるで、言葉の届かない場所にいる誰かに向けて紡がれる祈りのようだった。
「……綺麗だった」
奏で終えた美羽にそう伝えると、彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。
《言葉のかわりに、音を使うの。君がわたしを見てる時の音が、こう聞こえる》
悠真は返す言葉を失い、ただ静かにその横顔を見つめた。
文化祭当日。
教室は人で溢れかえり、シャッター音が絶え間なく鳴り響いていた。
浴衣姿の女子たち、学ランに身を包んだ男子たち。
照明代わりのライトが浮かび上がらせるその顔には、皆、それぞれの“今”が刻まれていた。
だが、彼の視線は絶えず廊下へと向けられていた。
――彼女は、来ない。
文化祭への不参加は聞いていたはずなのに、それでもどこかで期待していた。
午後三時、教室の隅でカメラの充電を替えていたときだった。
扉の隙間から、白いワンピースの裾が一瞬だけ見えた。
(……まさか)
立ち上がって廊下へ飛び出したとき、そこには誰もいなかった。
だが、旧音楽室のほうから微かなピアノの音が聴こえた気がして、彼は迷わず階段を駆け下りた。
音楽室の扉は閉じられていた。
中を覗くと、誰もいなかった。
かわりに、ピアノの譜面台の上に、薄い封筒が置かれていた。
中には一枚の写真と、短い手紙が入っていた。
《あなたが撮ってくれた音は、わたしの中で、ちゃんと残ってる》
写真には、彼が以前撮った夕焼けと、そこに立つ彼自身の後ろ姿が写っていた。
どうやって撮られたのか分からないそれを見て、悠真はふっと笑った。
彼女は、確かに来ていた。
翌日、悠真は思い立って一通のメッセージを送った。
「明日、海に行かない?」
数分後、返事が届いた。
《いいよ。夏を、見に行こう》
その一言だけで、胸が跳ねた。
土曜日。
駅の改札には、麦わら帽子を被った美羽が立っていた。
白いワンピースにサンダル。手には小さな肩掛けバッグ。
まるで、どこかの画集から抜け出してきたかのような姿だった。
「……本当に、似合うね」
彼がそう言うと、美羽は微笑んで、何も書かずに帽子のつばを少しだけ下げた。
湘南の海。
午後の砂浜には、夏の始まりの気配が満ちていた。
波打ち際で靴を脱ぎ、二人は並んで歩いた。
「なあ……いつも音が聴こえるって、どんな感じ?」
美羽はしばらく考えたあと、メモ帳に書く。
《心の中に、音の海があるの。そこから波が届くみたいに、時々旋律が浮かぶ》
「それって、僕といるときも?」
彼女は、こくりと頷く。
《いまの君は、たぶん……四分音符で、やわらかい♭がついてる》
「それ、褒めてるの?」
《すごく、褒めてる》
彼女の字はいつもより少し大きくて、丸かった。
海の家で買ったラムネアイスを手に、ベンチに並んで座る。
「冷たっ……!」
アイスを一口かじった悠真が顔をしかめると、美羽が肩を震わせて笑った。
《君といると、音がすごく軽くなる。不思議》
悠真は、そっと彼女の横顔を見つめた。
胸の奥に、小さな旋律が生まれる気がした。
けれど、その旋律にはまだ、名前がつけられなかった。
帰りの電車。
車窓に映る夕焼けが、二人の間に伸びていた。
静かな時間。
誰も言葉を発さない。
でも、それは決して不安ではなく、むしろ心地よい。
「……また、来ような。夏が終わる前に」
彼がぽつりと呟くと、美羽は小さく頷いてから、メモ帳に一言だけ書いた。
《夏は、まだ始まったばかりだから》
その字の下に、彼女はそっと指で音符の絵を描いた。
悠真は、それをそっと見つめながら、微笑んだ。
彼の心の奥で、ようやくひとつの旋律が形になろうとしていた。