雨が、瓦を叩いていた。
京都・東山の町家にしとしとと降るその音は、誰かが遠い記憶をノックしているようで、綾芽にはどうしても耳を塞ぐことができなかった。小さな庭の楓が濡れ、雨筋を伝って軒先に落ちてゆく。ひとつ、またひとつ。時折、遠くの雷が空をかすめて、電灯の光が一瞬だけ滲む。
梅雨らしい、しずかな夜だった。
土間の奥にある作業机。そこには、ちいさな箱が置かれていた。薄紙に包まれた陶片が、慎重に広げられていく。緊張した指先で、ひとつひとつ、割れた器の断面を見つめる。
「……ひどく割れてる」
呟いた声は、雨音に吸い込まれていった。
白磁に藍の絵付けが残るその器は、四つの大きな欠片と、十数枚の細かい破片に砕けていた。無理に接着されていた形跡はない。綺麗に洗って乾かされていた。誰かが、大切に扱っていたことはわかる。けれども、割れた原因までは、陶片だけでは読み解けない。
綾芽は、欠けた部分に指を当てた。
少しだけ力を加えて、ふたつの破片を合わせてみる。ピタリと嵌った感触。微細なズレの有無。陶器は正直だった。――この器は、横に強く押されて割れた。落下ではない。誰かの“手”で壊された可能性がある。
彼女の眉が、わずかに寄った。
誰が、何のために、これを壊したのか。
陶器が割れる理由はたくさんある。うっかり落とした、不注意でぶつけた、地震。あるいは——。
「人間関係」
そう、綾芽は知っていた。
金継ぎの依頼で持ち込まれる器には、必ず物語がある。人が器を壊すとき、そこには感情がある。怒り、後悔、失恋、喪失、そして、罪。
と、扉がノックされた。
こんな夜更けに。
客の予定はない。知人も来ない。雨が降っている。誰が——?
足音をたてず、彼女は玄関に向かった。
古い木戸を開けた瞬間、夜の闇と雨が一緒に吹き込んだ。そして、その中に、ひとりの男が立っていた。
「……久しぶり、綾芽」
懐かしい声が、耳を刺した。
濡れた黒髪。真っ直ぐな瞳。
どこか子どもっぽさを残した顔立ちは、しかし以前よりもずっと落ち着いていた。
その名を、彼女はすぐに呼べなかった。
けれど、知っている。知ってしまっている。忘れたくても、忘れられなかった顔。
「……蒼」
彼は、静かに頷いた。
「お願いがあるんだ。器を、直してほしい」
綾芽は目を見開いた。
今、自分の工房にある器。粉々に割れたそれを、依頼したのは——
「あなた、だったの……?」
「そう」
簡潔な返答。
そのくせ、彼の声にはどこか後ろめたさが混じっていた。
そして——
「君じゃないと、駄目なんだ」
その一言が、綾芽の中の何かをぐらりと揺らした。
夜の湿気と、雨の匂いと、彼の声。それらがないまぜになって、彼女の記憶を引き裂いた。
——七年前。
彼女が二十一、彼が十七。
親の再婚で、ふたりは義理の姉弟になった。
最初は戸惑いばかりだった。家族というには他人で、他人というには近すぎて。けれど、気づけば一緒にいる時間が増えていた。互いに秘密を語り合い、どこかで自分たちは似ていると感じていた。
そんなある日。
彼女の誕生日、夜の公園のベンチで——
(まだ終わっていない)
唐突に、蒼の声が耳元で囁いた。
違う、これは記憶じゃない。目の前の彼が、今、言った言葉だ。
「え……?」
「俺たち、あの日からずっと止まってる。姉弟とか、家族とか、そういうラベルに納得したふりして、でも……」
綾芽は、喉が鳴らなかった。
言葉にならない何かが、雨粒より重く、胸を沈めていく。
——あの夜、彼女は彼にキスをした。
あるいは、彼が先だったかもしれない。けれど確かに、唇は触れた。柔らかく、震えるように。けれど、直後に玄関の開く音がして、ふたりは何もなかったように距離を取った。
あれから七年。
何もなかったことにしたはずだった。
けれど——
「まだ、終わってない。俺には、そう思える」
蒼の目が、真っ直ぐ綾芽を見ていた。
雨音の奥、胸の奥で、過去の亀裂がゆっくりと再び開いてゆく。
綾芽は、玄関の戸を閉めた。
雨音がすぐ外で続いている。けれど、木戸の向こうにあるのは雨だけではない。七年越しに再び姿を現した、彼――蒼の気配もまだ、そこに残っている気がした。
ぬれた髪の水滴をタオルで拭きながら、彼は作業机の横に腰を下ろす。
あたりを見渡す視線がどこか懐かしげで、それがまた、綾芽の心をかき乱す。
「この器……」
蒼は割れた陶器の破片を見つめた。
表情に迷いはないが、その声にはやや緊張があった。指先が、もっとも大きく割れたひと片に触れる。
「……母さんの形見なんだ」
綾芽の喉が鳴った。
今にも落ちそうな破片をとっさに受け止めながら、彼女は息を呑む。
義母、つまり蒼の実母——美砂子は、三年前に病で亡くなった。
再婚後も気丈で明るく、綾芽にも分け隔てなく接してくれた女性だった。その彼女が、晩年に最も愛していた器だと記憶している。湯呑みにも似た、ぽってりと丸みを帯びた小鉢。どこか母性のような温かみがあった。
「形見……なら、なぜ壊れたの?」
気づけば、問いが口を突いていた。
蒼の表情が、わずかに翳る。何かを呑み込んでから、彼は答えた。
「婚約者が……割った」
一瞬、空気が止まった気がした。
雨音すら遠のいていく錯覚。
「玲奈が? わざと?」
「……酔ってて。手が滑ったって言ってた。でも俺には、そうは見えなかった」
綾芽は返す言葉を失った。
婚約者。その言葉が、胸に重く沈む。蒼が、もう他の誰かと人生を歩むつもりだという現実。わかっていた。七年の月日が、なかったことにしてくれるわけじゃない。
「君じゃなきゃ、直せないと思った」
また、その言葉。
罪を、掘り返すような響き。
「玲奈は、器が戻るならどんな形でもいいって言ってた。けど俺は……ただ綺麗に直してもらいたいんじゃない。……あの日みたいに、君の手で」
その言葉に、綾芽の手が震えた。
あの日――そう。七年前、彼女が金継ぎを教えた。はじめて人に教えた金継ぎ。細い筆で漆を塗るとき、蒼の手が自分の手に重なった。手が触れて、視線が交差して、心が乱れた。
「……私、まだ気持ちの整理ができてない」
「俺もだよ」
蒼の声は、静かだった。けれど、真っ直ぐだった。
「でも、もう隠さない。器みたいに、割れて、繕って、それでも残る継ぎ目を、君と見たいんだ」
――ずるい。
それを言われてしまえば、綾芽は、断れない。
壊れたものを見るのが、自分の役目だと知っている。けれど、その“壊れた”のが彼自身だったとしたら。
指先が、ひときわ鋭く欠けた破片に触れた。
切っ先のように尖った陶器が、指を掠めて、微かに血が滲む。
「器に触れるときは、覚悟が要るのよ」
その言葉は、彼にというより、自分に向けたものだった。
「綾芽……」
「……直すわ。けど、その代わり、誤魔化しは一切しないで。器も、気持ちも、継いだあとが必ず残るの。隠しても意味ない」
蒼が、頷いた。
その目に宿る光が、どこか安堵に似ていた。
町家の奥で、時がひとつ流れた。
器と、ふたりの関係が、もう一度“繕われる”ための夜が、いま始まったのだった。
(第1章 完)