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背徳銀継ぎ
背徳銀継ぎ
乾為天女
恋愛現代恋愛
2025年06月05日
公開日
1.5万字
完結済
 京都・東山で陶片金継ぎ職人として静かに生きる綾芽のもとに、7年前に別れた義弟・蒼が器の修復を依頼してくる。  かつて交わされた禁忌の口づけ、忘れたはずの想いが再び継がれていく。  蒼は婚約者・玲奈と破綻寸前。壊された器を通じて二人の関係もまた修復と崩壊を繰り返す。  「これは贖罪じゃない。選んだんだ」――金ではなく銀、綺麗ではなく真実。  背徳を越えて、二人が最後に完成させた器の名は『背徳銀継ぎ』。   “綺麗じゃないけれど、確かに輝いている”愛のかたち。

第1章「雨裂の再会」

 雨が、瓦を叩いていた。

 京都・東山の町家にしとしとと降るその音は、誰かが遠い記憶をノックしているようで、綾芽にはどうしても耳を塞ぐことができなかった。小さな庭の楓が濡れ、雨筋を伝って軒先に落ちてゆく。ひとつ、またひとつ。時折、遠くの雷が空をかすめて、電灯の光が一瞬だけ滲む。

 梅雨らしい、しずかな夜だった。

 土間の奥にある作業机。そこには、ちいさな箱が置かれていた。薄紙に包まれた陶片が、慎重に広げられていく。緊張した指先で、ひとつひとつ、割れた器の断面を見つめる。

「……ひどく割れてる」

 呟いた声は、雨音に吸い込まれていった。

 白磁に藍の絵付けが残るその器は、四つの大きな欠片と、十数枚の細かい破片に砕けていた。無理に接着されていた形跡はない。綺麗に洗って乾かされていた。誰かが、大切に扱っていたことはわかる。けれども、割れた原因までは、陶片だけでは読み解けない。

 綾芽は、欠けた部分に指を当てた。

 少しだけ力を加えて、ふたつの破片を合わせてみる。ピタリと嵌った感触。微細なズレの有無。陶器は正直だった。――この器は、横に強く押されて割れた。落下ではない。誰かの“手”で壊された可能性がある。

 彼女の眉が、わずかに寄った。

 誰が、何のために、これを壊したのか。

 陶器が割れる理由はたくさんある。うっかり落とした、不注意でぶつけた、地震。あるいは——。

「人間関係」

 そう、綾芽は知っていた。

 金継ぎの依頼で持ち込まれる器には、必ず物語がある。人が器を壊すとき、そこには感情がある。怒り、後悔、失恋、喪失、そして、罪。

 と、扉がノックされた。

 こんな夜更けに。

 客の予定はない。知人も来ない。雨が降っている。誰が——?

 足音をたてず、彼女は玄関に向かった。

 古い木戸を開けた瞬間、夜の闇と雨が一緒に吹き込んだ。そして、その中に、ひとりの男が立っていた。

「……久しぶり、綾芽」

 懐かしい声が、耳を刺した。

 濡れた黒髪。真っ直ぐな瞳。

 どこか子どもっぽさを残した顔立ちは、しかし以前よりもずっと落ち着いていた。

 その名を、彼女はすぐに呼べなかった。

 けれど、知っている。知ってしまっている。忘れたくても、忘れられなかった顔。

「……蒼」

 彼は、静かに頷いた。

「お願いがあるんだ。器を、直してほしい」

 綾芽は目を見開いた。

 今、自分の工房にある器。粉々に割れたそれを、依頼したのは——

「あなた、だったの……?」

「そう」

 簡潔な返答。

 そのくせ、彼の声にはどこか後ろめたさが混じっていた。

 そして——

「君じゃないと、駄目なんだ」

 その一言が、綾芽の中の何かをぐらりと揺らした。

 夜の湿気と、雨の匂いと、彼の声。それらがないまぜになって、彼女の記憶を引き裂いた。

 ——七年前。

 彼女が二十一、彼が十七。

 親の再婚で、ふたりは義理の姉弟になった。

 最初は戸惑いばかりだった。家族というには他人で、他人というには近すぎて。けれど、気づけば一緒にいる時間が増えていた。互いに秘密を語り合い、どこかで自分たちは似ていると感じていた。

 そんなある日。

 彼女の誕生日、夜の公園のベンチで——

(まだ終わっていない)

 唐突に、蒼の声が耳元で囁いた。

 違う、これは記憶じゃない。目の前の彼が、今、言った言葉だ。

「え……?」

「俺たち、あの日からずっと止まってる。姉弟とか、家族とか、そういうラベルに納得したふりして、でも……」

 綾芽は、喉が鳴らなかった。

 言葉にならない何かが、雨粒より重く、胸を沈めていく。

 ——あの夜、彼女は彼にキスをした。

 あるいは、彼が先だったかもしれない。けれど確かに、唇は触れた。柔らかく、震えるように。けれど、直後に玄関の開く音がして、ふたりは何もなかったように距離を取った。

 あれから七年。

 何もなかったことにしたはずだった。

 けれど——

「まだ、終わってない。俺には、そう思える」

 蒼の目が、真っ直ぐ綾芽を見ていた。

 雨音の奥、胸の奥で、過去の亀裂がゆっくりと再び開いてゆく。




 綾芽は、玄関の戸を閉めた。

 雨音がすぐ外で続いている。けれど、木戸の向こうにあるのは雨だけではない。七年越しに再び姿を現した、彼――蒼の気配もまだ、そこに残っている気がした。

 ぬれた髪の水滴をタオルで拭きながら、彼は作業机の横に腰を下ろす。

 あたりを見渡す視線がどこか懐かしげで、それがまた、綾芽の心をかき乱す。

「この器……」

 蒼は割れた陶器の破片を見つめた。

 表情に迷いはないが、その声にはやや緊張があった。指先が、もっとも大きく割れたひと片に触れる。

「……母さんの形見なんだ」

 綾芽の喉が鳴った。

 今にも落ちそうな破片をとっさに受け止めながら、彼女は息を呑む。

 義母、つまり蒼の実母——美砂子は、三年前に病で亡くなった。

 再婚後も気丈で明るく、綾芽にも分け隔てなく接してくれた女性だった。その彼女が、晩年に最も愛していた器だと記憶している。湯呑みにも似た、ぽってりと丸みを帯びた小鉢。どこか母性のような温かみがあった。

「形見……なら、なぜ壊れたの?」

 気づけば、問いが口を突いていた。

 蒼の表情が、わずかに翳る。何かを呑み込んでから、彼は答えた。

「婚約者が……割った」

 一瞬、空気が止まった気がした。

 雨音すら遠のいていく錯覚。

「玲奈が? わざと?」

「……酔ってて。手が滑ったって言ってた。でも俺には、そうは見えなかった」

 綾芽は返す言葉を失った。

 婚約者。その言葉が、胸に重く沈む。蒼が、もう他の誰かと人生を歩むつもりだという現実。わかっていた。七年の月日が、なかったことにしてくれるわけじゃない。

「君じゃなきゃ、直せないと思った」

 また、その言葉。

 罪を、掘り返すような響き。

「玲奈は、器が戻るならどんな形でもいいって言ってた。けど俺は……ただ綺麗に直してもらいたいんじゃない。……あの日みたいに、君の手で」

 その言葉に、綾芽の手が震えた。

 あの日――そう。七年前、彼女が金継ぎを教えた。はじめて人に教えた金継ぎ。細い筆で漆を塗るとき、蒼の手が自分の手に重なった。手が触れて、視線が交差して、心が乱れた。

「……私、まだ気持ちの整理ができてない」

「俺もだよ」

 蒼の声は、静かだった。けれど、真っ直ぐだった。

「でも、もう隠さない。器みたいに、割れて、繕って、それでも残る継ぎ目を、君と見たいんだ」

 ――ずるい。

 それを言われてしまえば、綾芽は、断れない。

 壊れたものを見るのが、自分の役目だと知っている。けれど、その“壊れた”のが彼自身だったとしたら。

 指先が、ひときわ鋭く欠けた破片に触れた。

 切っ先のように尖った陶器が、指を掠めて、微かに血が滲む。

「器に触れるときは、覚悟が要るのよ」

 その言葉は、彼にというより、自分に向けたものだった。

「綾芽……」

「……直すわ。けど、その代わり、誤魔化しは一切しないで。器も、気持ちも、継いだあとが必ず残るの。隠しても意味ない」

 蒼が、頷いた。

 その目に宿る光が、どこか安堵に似ていた。

 町家の奥で、時がひとつ流れた。

 器と、ふたりの関係が、もう一度“繕われる”ための夜が、いま始まったのだった。

(第1章 完)


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