朝、雨はまだ降っていた。
庭の紫陽花は夜露をたっぷり含み、蒼く色づいた花弁がまるで、綾芽の胸の奥を覗き込んでくるようだった。
工房の隅では、昨日受け取った器の破片が布の上に並べられている。
ひとつ、またひとつ。指先で触れるたびに、そこに含まれた感情が指の腹に伝わってくる気がする。
怒り。嫉妬。悲しみ。そして――未練。
「……昨日の、あの顔」
蒼がこの器を渡したときの表情が、忘れられなかった。
彼は「婚約者が割った」と言った。けれどそれ以上を語ろうとしなかった。その沈黙の中にあった何かが、綾芽をざわつかせる。
そこへ、電話の呼び出し音が鳴った。
画面に表示された名前に、一瞬、動悸が跳ねた。
玲奈。
蒼の婚約者。綾芽と初めて会ったのは、去年の法事だった。整った顔立ちと、朗らかな物腰。どこか“完璧な花嫁”を絵に描いたような女性。
その彼女が、なぜ今、電話を――?
指が、受話ボタンに触れた。
『綾芽さん、こんにちは。突然ごめんなさい。ちょっとだけ、お話したくて』
やわらかい声。けれど、微かに緊張が混じっていた。
綾芽は静かに応じる。
「どうかしたんですか」
『蒼から、器のこと聞きました。母の形見を、直してもらえるって』
「……ええ」
『ありがとうございます。……でも、私、少し気になってて。彼、あの器に、ちょっと執着しすぎてる気がするんです』
綾芽の胸がざわりとした。
器に執着? それはどういう――
『あれ、私が割ったんです。夜、口論になって、つい強く押しちゃって……』
口論。
蒼は、そんなこと一言も言っていなかった。
『最近、蒼が変なんです。よく昔のことを思い出してるような顔をしてて。……綾芽さん、彼と何かあった?』
問いは、あまりにも鋭すぎた。
綾芽は、一瞬言葉に詰まる。けれど嘘はつけない。だからといって、真実を語るわけにもいかない。
「……何も。私はただ、器を直すだけです」
『そう……ですよね、ごめんなさい。変なこと聞いて。でも、あの器は……もう綺麗にならなくてもいいんです。壊れてるままのほうが、ある意味で正しいのかもって』
その言葉に、綾芽の胸が凍る。
壊れたままでいい。継がなくていい。戻らなくていい。
それはつまり、過去と決別しようとする意志。壊したまま、前に進む選択。
だけど蒼は、継ごうとしている。壊れたその先を、求めている。
ふたりの想いは、交差していない。
通話を終え、綾芽は長い吐息をついた。
自分は、何を直しているのだろう。器だけなのか。それとも。
そのとき、玄関の引き戸が小さく開いた。
「お邪魔します……」
低い声。
姿を見せたのは蒼だった。傘も差さず、髪はしっとり濡れている。
まっすぐ綾芽を見つめる目が、何かを決意しているように強かった。
「器のこと、もう少し詳しく話したい」
綾芽は黙って、頷いた。
工房の奥、作業机の前。
割れた器と、ふたり。その距離は、昨日よりわずかに近かった。
「この器……壊したのは、やっぱり玲奈?」
綾芽が問いを口にしたのは、沈黙の隙間だった。
漆の準備を整える手元を止めて、彼女は蒼に向き直る。
蒼はうなずきかけて、途中で目を伏せた。
「……口論になった。きっかけは些細なことだった。箸の置き方とか、使った皿をすぐ洗わなかったとか……」
「そんなことで?」
「玲奈は、俺が“心ここにあらず”なのが気に入らないんだと思う」
その言葉に、綾芽の心が軋んだ。
まるで自分のせいで、ふたりが壊れてしまったかのようで。
「ごめんね、私のせいで——」
「違うんだ」
蒼が、鋭く遮った。
その声に、熱があった。
「玲奈に指摘されて気づいた。……俺、ずっと、綾芽のことばかり考えてた」
工房の空気が凍る。
筆先から、漆が一滴、紙の上に落ちる音すら聞こえそうな静けさだった。
「器を直すって言い訳にして、君に会いたかった。……でも、もう言い訳はやめる」
言葉を置くように、彼は続けた。
「好きなんだ、綾芽。七年前のあの夜から、ずっと変わってない」
彼の告白は、まるで不意打ちのようだった。
耳の奥で雨音が遠のいていく。胸の奥で何かが、ゆっくりとほどけていく。
けれど、同時に鋭い棘が心に刺さる。
——あなたには、婚約者がいる。
——私は、義理でも姉で。
——そしてあの夜、私たちは“越えてしまった”。
それらすべてが、喉元に重く詰まる。けれど。
「私……」
綾芽の声が震える。
嘘を吐くことも、正義を盾にすることも、できなかった。
「ずっと、自分に言い聞かせてたの。これは家族愛だって。大人になれば消えるって」
でも、そうじゃなかった。
彼の声を聞くたびに、目を見つめるたびに、胸の奥の罪が疼いた。
それでも、離れたかった。忘れたかった。なのに。
「再会しただけで、こんなにも——」
言葉の先が、涙に滲む。
蒼がそっと手を伸ばした。
けれど綾芽はその手を取らなかった。ただ、視線を伏せたまま、唇を噛んだ。
「蒼。……私は、あなたを直すことはできないよ」
「器と違って?」
「そう。私は職人だから、壊れたものの“形”は繕える。けど……人の心は、もっと複雑だから」
蒼の目が伏せられた。
その睫毛が濡れているのは、雨のせいか、それとも――
けれど次の瞬間、彼は静かに言った。
「じゃあ、俺が君を直す。……器よりも君を」
綾芽の胸が、熱くなった。
それは許されない言葉だった。だけど、ずっと誰かに言ってほしかった一言でもあった。
「バカ」
声が、掠れて震えた。
でも、否定ではなかった。
——罪は、消えない。
けれど、罪の形が変わっていくこともある。
継いだ器のように、金の継ぎ目が“過去の証”として残っていくように。
この恋もまた、綺麗なものじゃない。
それでも。
「……まだ、終わってないのかな。私たち」
ぽつりと綾芽が呟くと、蒼の目がわずかに揺れて、
その頬が、かすかに緩んだ。
(第2章 完)