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第2章「欠片の代償」

 朝、雨はまだ降っていた。

 庭の紫陽花は夜露をたっぷり含み、蒼く色づいた花弁がまるで、綾芽の胸の奥を覗き込んでくるようだった。

 工房の隅では、昨日受け取った器の破片が布の上に並べられている。

 ひとつ、またひとつ。指先で触れるたびに、そこに含まれた感情が指の腹に伝わってくる気がする。

 怒り。嫉妬。悲しみ。そして――未練。

「……昨日の、あの顔」

 蒼がこの器を渡したときの表情が、忘れられなかった。

 彼は「婚約者が割った」と言った。けれどそれ以上を語ろうとしなかった。その沈黙の中にあった何かが、綾芽をざわつかせる。

 そこへ、電話の呼び出し音が鳴った。

 画面に表示された名前に、一瞬、動悸が跳ねた。

 玲奈。

 蒼の婚約者。綾芽と初めて会ったのは、去年の法事だった。整った顔立ちと、朗らかな物腰。どこか“完璧な花嫁”を絵に描いたような女性。

 その彼女が、なぜ今、電話を――?

 指が、受話ボタンに触れた。

『綾芽さん、こんにちは。突然ごめんなさい。ちょっとだけ、お話したくて』

 やわらかい声。けれど、微かに緊張が混じっていた。

 綾芽は静かに応じる。

「どうかしたんですか」

『蒼から、器のこと聞きました。母の形見を、直してもらえるって』

「……ええ」

『ありがとうございます。……でも、私、少し気になってて。彼、あの器に、ちょっと執着しすぎてる気がするんです』

 綾芽の胸がざわりとした。

 器に執着? それはどういう――

『あれ、私が割ったんです。夜、口論になって、つい強く押しちゃって……』

 口論。

 蒼は、そんなこと一言も言っていなかった。

『最近、蒼が変なんです。よく昔のことを思い出してるような顔をしてて。……綾芽さん、彼と何かあった?』

 問いは、あまりにも鋭すぎた。

 綾芽は、一瞬言葉に詰まる。けれど嘘はつけない。だからといって、真実を語るわけにもいかない。

「……何も。私はただ、器を直すだけです」

『そう……ですよね、ごめんなさい。変なこと聞いて。でも、あの器は……もう綺麗にならなくてもいいんです。壊れてるままのほうが、ある意味で正しいのかもって』

 その言葉に、綾芽の胸が凍る。

 壊れたままでいい。継がなくていい。戻らなくていい。

 それはつまり、過去と決別しようとする意志。壊したまま、前に進む選択。

 だけど蒼は、継ごうとしている。壊れたその先を、求めている。

 ふたりの想いは、交差していない。

 通話を終え、綾芽は長い吐息をついた。

 自分は、何を直しているのだろう。器だけなのか。それとも。

 そのとき、玄関の引き戸が小さく開いた。

「お邪魔します……」

 低い声。

 姿を見せたのは蒼だった。傘も差さず、髪はしっとり濡れている。

 まっすぐ綾芽を見つめる目が、何かを決意しているように強かった。

「器のこと、もう少し詳しく話したい」

 綾芽は黙って、頷いた。

 工房の奥、作業机の前。

 割れた器と、ふたり。その距離は、昨日よりわずかに近かった。




「この器……壊したのは、やっぱり玲奈?」

 綾芽が問いを口にしたのは、沈黙の隙間だった。

 漆の準備を整える手元を止めて、彼女は蒼に向き直る。

 蒼はうなずきかけて、途中で目を伏せた。

「……口論になった。きっかけは些細なことだった。箸の置き方とか、使った皿をすぐ洗わなかったとか……」

「そんなことで?」

「玲奈は、俺が“心ここにあらず”なのが気に入らないんだと思う」

 その言葉に、綾芽の心が軋んだ。

 まるで自分のせいで、ふたりが壊れてしまったかのようで。

「ごめんね、私のせいで——」

「違うんだ」

 蒼が、鋭く遮った。

 その声に、熱があった。

「玲奈に指摘されて気づいた。……俺、ずっと、綾芽のことばかり考えてた」

 工房の空気が凍る。

 筆先から、漆が一滴、紙の上に落ちる音すら聞こえそうな静けさだった。

「器を直すって言い訳にして、君に会いたかった。……でも、もう言い訳はやめる」

 言葉を置くように、彼は続けた。

「好きなんだ、綾芽。七年前のあの夜から、ずっと変わってない」

 彼の告白は、まるで不意打ちのようだった。

 耳の奥で雨音が遠のいていく。胸の奥で何かが、ゆっくりとほどけていく。

 けれど、同時に鋭い棘が心に刺さる。

 ——あなたには、婚約者がいる。

 ——私は、義理でも姉で。

 ——そしてあの夜、私たちは“越えてしまった”。

 それらすべてが、喉元に重く詰まる。けれど。

「私……」

 綾芽の声が震える。

 嘘を吐くことも、正義を盾にすることも、できなかった。

「ずっと、自分に言い聞かせてたの。これは家族愛だって。大人になれば消えるって」

 でも、そうじゃなかった。

 彼の声を聞くたびに、目を見つめるたびに、胸の奥の罪が疼いた。

 それでも、離れたかった。忘れたかった。なのに。

「再会しただけで、こんなにも——」

 言葉の先が、涙に滲む。

 蒼がそっと手を伸ばした。

 けれど綾芽はその手を取らなかった。ただ、視線を伏せたまま、唇を噛んだ。

「蒼。……私は、あなたを直すことはできないよ」

「器と違って?」

「そう。私は職人だから、壊れたものの“形”は繕える。けど……人の心は、もっと複雑だから」

 蒼の目が伏せられた。

 その睫毛が濡れているのは、雨のせいか、それとも――

 けれど次の瞬間、彼は静かに言った。

「じゃあ、俺が君を直す。……器よりも君を」

 綾芽の胸が、熱くなった。

 それは許されない言葉だった。だけど、ずっと誰かに言ってほしかった一言でもあった。

「バカ」

 声が、掠れて震えた。

 でも、否定ではなかった。

 ——罪は、消えない。

 けれど、罪の形が変わっていくこともある。

 継いだ器のように、金の継ぎ目が“過去の証”として残っていくように。

 この恋もまた、綺麗なものじゃない。

 それでも。

「……まだ、終わってないのかな。私たち」

 ぽつりと綾芽が呟くと、蒼の目がわずかに揺れて、

 その頬が、かすかに緩んだ。

(第2章 完)


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