雨は、止んでいた。
けれど、玲奈の心には、まだざあざあと音を立てる何かが残っていた。
スマートフォンの画面に映る通話履歴。
「綾芽さん」との会話から、もう三時間以上が経っている。蒼は「夕方まで仕事」と言って出ていったが、今も帰ってこない。
テーブルの上には、割れた器の一片が残っていた。
小さな、白磁のかけら。それをふと見た瞬間、玲奈は、全身の血が冷たくなるのを感じた。
蒼は、あの器を直してもらうと言っていた。
けれど、そこには形見以上の何かがある気がしてならなかった。――それは、“記憶”だ。
綾芽という名が出るたび、彼の口調が微かに変わる。柔らかく、どこか懐かしそうに。
「……信じたいだけじゃ、足りないのよ」
玲奈は立ち上がり、バッグにスマホと折りたたみ傘を滑り込ませた。
家を出て、雨上がりの街へ足を踏み出す。湿った石畳に、ヒールの音が吸い込まれる。
向かう先は、京都・東山。
蒼が預けた器を直してもらっているという“町家の工房”。
恋人の過去が、自分の知らない場所でまだ息をしているなら――確かめなければ。
工房の前に着いたとき、玲奈は一度だけ深く息を吸った。
古びた木戸。格子の奥にはぼんやりと明かりが灯っている。そこに、確かに誰かがいる。
彼女は躊躇わなかった。
そして、戸を叩いた。
中から現れたのは、蒼ではなかった。
白い割烹着姿の女性——綾芽が、玄関先に静かに立っていた。目が合った瞬間、ふたりの間に濡れた空気が流れた。
「玲奈さん……」
声は、驚きよりも冷静だった。
そのことが、逆に玲奈の心を急速に冷やした。
「お邪魔してもいいかしら? 器の様子、どうしても気になってしまって」
笑顔を装ったまま、玲奈は中に足を踏み入れた。
土間の奥、机の上には、例の器が、割れたままの状態で並んでいた。
「……進んでないのね」
「はい。慎重にやらないと、逆にひびを広げてしまうから」
綾芽の口調は、職人のそれだった。けれど、どこか言葉に棘がある。
ふたりの会話が淡々と続くその間も、玲奈の目は周囲を探っていた。
そして、見つけた。
座布団の上、まだ乾いていない二組の湯呑み。湿った傘のしずく。――ついさっきまで誰かがいた証。
玲奈は問いかけた。
「蒼、ここにいたの?」
一瞬の沈黙。
それが、答えだった。
「……少しだけ。器のこと、話したいって来て」
玲奈は、乾いた笑みを浮かべた。
「ずいぶん、熱心なのね」
「それだけ、大切な器だから」
「……器だけじゃないでしょう?」
言葉の端が鋭くなる。綾芽の目が動いた。
「玲奈さん。……何が言いたいの?」
「ねえ。蒼のこと、まだ想ってる?」
直球だった。
工房の空気が、釘を刺すように重くなった。
綾芽は、視線を落としたまま、答えなかった。
代わりに手元の金粉の瓶を、そっと布で包んだ。
「想ってないなら、言ってほしい。……私、安心できない」
その声に、綾芽はかすかに笑った。
どこか壊れかけた、音のしない笑みだった。
「想ってるよ。ずっと。でも、それを口にしたって、何も変わらないでしょ」
玲奈の頬が引きつった。
答えを求めて来たはずなのに、現実はもっと醜かった。
「じゃあ、なんで黙ってるの? あの夜、キスしたことも」
綾芽の指が、ぴたりと止まった。
時が、静止する。
玲奈の声は震えていた。
「蒼、寝言で言ってた。“姉ちゃんの唇は、檸檬みたいだった”って」
静かだった工房に、何かがひび割れるような音がした気がした。
それが器だったのか、玲奈の声だったのか、それとも綾芽の心だったのか——
玲奈の指先が、机の上の器の破片に触れた。
「形見なら、割れるはずないわ。……壊れたのよ、もう全部」
その声は、悲しみというより怒りに近かった。
綾芽は椅子から立ち上がり、慎重に言葉を探すように口を開いた。
「玲奈さん……それは、もう私が預かってます。触らないで」
「じゃあ、壊したってことよね。あの夜も、この器も、彼の気持ちも……あなたが」
綾芽が一歩、近づく。
玲奈の目が潤んでいた。けれど、涙は落ちない。代わりに震える手が、器のひとつの破片を持ち上げる。
「玲奈さん、それを置いて……!」
その声とほとんど同時に、音が鳴った。
――カシャァアァァァン。
高く、鋭く、そして一瞬遅れて低く響く破砕音。
割れた器の断片が、机から跳ねて床に散った。破片が何枚にも飛び、金粉を吹き飛ばし、布地の上に飛沫のように散る。
工房の空気が、凍った。
「……ごめんなさい、つい……」
玲奈は呆然と立ち尽くしていた。
その足元には、かつて丸みを帯びていた小鉢の、心臓にも似たかけらが落ちていた。
綾芽は一歩、ゆっくりと前へ出る。
「あなたは、蒼の心が自分から離れるのが怖いのね。でもね、器に当たっても何も戻らない。……壊したのは、あなたじゃなくて、ふたりの時間よ」
その言葉に、玲奈の頬が震えた。
表情が崩れる寸前で、彼女は踵を返し、何も言わずに工房を出ていった。
戸が閉まったあと、静寂が戻る。
ただし、今度は“無傷の静寂”ではなかった。
そこには、ふたり分の罪と、壊された器の残骸があった。
綾芽は、心臓の形に似た破片を拾い上げた。
そして、息を吐いた。
「……まだ、直せる。直さなきゃいけない。私が、やらなきゃ」
けれどもう、金は使わない。
それは、蒼と玲奈の関係の象徴だった。
これから継ぐのは、自分と蒼の——“綺麗じゃない”過去と未来だ。
それにふさわしい素材は、あの黒い漆。そして、銀。
(第3章 完)