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第3章「嘘と針金」

 雨は、止んでいた。

 けれど、玲奈の心には、まだざあざあと音を立てる何かが残っていた。

 スマートフォンの画面に映る通話履歴。

 「綾芽さん」との会話から、もう三時間以上が経っている。蒼は「夕方まで仕事」と言って出ていったが、今も帰ってこない。

 テーブルの上には、割れた器の一片が残っていた。

 小さな、白磁のかけら。それをふと見た瞬間、玲奈は、全身の血が冷たくなるのを感じた。

 蒼は、あの器を直してもらうと言っていた。

 けれど、そこには形見以上の何かがある気がしてならなかった。――それは、“記憶”だ。

 綾芽という名が出るたび、彼の口調が微かに変わる。柔らかく、どこか懐かしそうに。

「……信じたいだけじゃ、足りないのよ」

 玲奈は立ち上がり、バッグにスマホと折りたたみ傘を滑り込ませた。

 家を出て、雨上がりの街へ足を踏み出す。湿った石畳に、ヒールの音が吸い込まれる。

 向かう先は、京都・東山。

 蒼が預けた器を直してもらっているという“町家の工房”。

 恋人の過去が、自分の知らない場所でまだ息をしているなら――確かめなければ。

 工房の前に着いたとき、玲奈は一度だけ深く息を吸った。

 古びた木戸。格子の奥にはぼんやりと明かりが灯っている。そこに、確かに誰かがいる。

 彼女は躊躇わなかった。

 そして、戸を叩いた。

 中から現れたのは、蒼ではなかった。

 白い割烹着姿の女性——綾芽が、玄関先に静かに立っていた。目が合った瞬間、ふたりの間に濡れた空気が流れた。

「玲奈さん……」

 声は、驚きよりも冷静だった。

 そのことが、逆に玲奈の心を急速に冷やした。

「お邪魔してもいいかしら? 器の様子、どうしても気になってしまって」

 笑顔を装ったまま、玲奈は中に足を踏み入れた。

 土間の奥、机の上には、例の器が、割れたままの状態で並んでいた。

「……進んでないのね」

「はい。慎重にやらないと、逆にひびを広げてしまうから」

 綾芽の口調は、職人のそれだった。けれど、どこか言葉に棘がある。

 ふたりの会話が淡々と続くその間も、玲奈の目は周囲を探っていた。

 そして、見つけた。

 座布団の上、まだ乾いていない二組の湯呑み。湿った傘のしずく。――ついさっきまで誰かがいた証。

 玲奈は問いかけた。

「蒼、ここにいたの?」

 一瞬の沈黙。

 それが、答えだった。

「……少しだけ。器のこと、話したいって来て」

 玲奈は、乾いた笑みを浮かべた。

「ずいぶん、熱心なのね」

「それだけ、大切な器だから」

「……器だけじゃないでしょう?」

 言葉の端が鋭くなる。綾芽の目が動いた。

「玲奈さん。……何が言いたいの?」

「ねえ。蒼のこと、まだ想ってる?」

 直球だった。

 工房の空気が、釘を刺すように重くなった。

 綾芽は、視線を落としたまま、答えなかった。

 代わりに手元の金粉の瓶を、そっと布で包んだ。

「想ってないなら、言ってほしい。……私、安心できない」

 その声に、綾芽はかすかに笑った。

 どこか壊れかけた、音のしない笑みだった。

「想ってるよ。ずっと。でも、それを口にしたって、何も変わらないでしょ」

 玲奈の頬が引きつった。

 答えを求めて来たはずなのに、現実はもっと醜かった。

「じゃあ、なんで黙ってるの? あの夜、キスしたことも」

 綾芽の指が、ぴたりと止まった。

 時が、静止する。

 玲奈の声は震えていた。

「蒼、寝言で言ってた。“姉ちゃんの唇は、檸檬みたいだった”って」

 静かだった工房に、何かがひび割れるような音がした気がした。

 それが器だったのか、玲奈の声だったのか、それとも綾芽の心だったのか——




 玲奈の指先が、机の上の器の破片に触れた。

「形見なら、割れるはずないわ。……壊れたのよ、もう全部」

 その声は、悲しみというより怒りに近かった。

 綾芽は椅子から立ち上がり、慎重に言葉を探すように口を開いた。

「玲奈さん……それは、もう私が預かってます。触らないで」

「じゃあ、壊したってことよね。あの夜も、この器も、彼の気持ちも……あなたが」

 綾芽が一歩、近づく。

 玲奈の目が潤んでいた。けれど、涙は落ちない。代わりに震える手が、器のひとつの破片を持ち上げる。

「玲奈さん、それを置いて……!」

 その声とほとんど同時に、音が鳴った。

 ――カシャァアァァァン。

 高く、鋭く、そして一瞬遅れて低く響く破砕音。

 割れた器の断片が、机から跳ねて床に散った。破片が何枚にも飛び、金粉を吹き飛ばし、布地の上に飛沫のように散る。

 工房の空気が、凍った。

「……ごめんなさい、つい……」

 玲奈は呆然と立ち尽くしていた。

 その足元には、かつて丸みを帯びていた小鉢の、心臓にも似たかけらが落ちていた。

 綾芽は一歩、ゆっくりと前へ出る。

「あなたは、蒼の心が自分から離れるのが怖いのね。でもね、器に当たっても何も戻らない。……壊したのは、あなたじゃなくて、ふたりの時間よ」

 その言葉に、玲奈の頬が震えた。

 表情が崩れる寸前で、彼女は踵を返し、何も言わずに工房を出ていった。

 戸が閉まったあと、静寂が戻る。

 ただし、今度は“無傷の静寂”ではなかった。

 そこには、ふたり分の罪と、壊された器の残骸があった。

 綾芽は、心臓の形に似た破片を拾い上げた。

 そして、息を吐いた。

「……まだ、直せる。直さなきゃいけない。私が、やらなきゃ」

 けれどもう、金は使わない。

 それは、蒼と玲奈の関係の象徴だった。

 これから継ぐのは、自分と蒼の——“綺麗じゃない”過去と未来だ。

 それにふさわしい素材は、あの黒い漆。そして、銀。

(第3章 完)


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