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第4章「鴨川、夜の水鏡」

 鴨川の流れは、夜になると音を変える。

 さらさらと軽やかに弾む昼間とは違い、どこか深く、低く、囁くような音になる。

 石畳の遊歩道には夜風が抜け、川面には街灯がゆらゆらと滲んで映っていた。光は、まるで水に刺さった針のように歪んで揺れた。

 蒼と綾芽は、並んで歩いていた。

 左手には小さな懐中電灯。右手には空の和紙袋。

 どちらも“器の破片探し”という名目で持ってきたものだ。

 玲奈が器を再び叩き割ってから三日。綾芽は黙って破片を拾い集めたが、ほんのいくつか、どうしても見つからないかけらがあった。

「ここにはないと思うよ、本当は」

 蒼がそう言った。

 綾芽は、わかってる、と返さずにいた。

「わたしもそう思う。でも……こうしてると、少し楽だから」

 歩きながら拾うふりをする。灯りを照らすふりをする。

 本当は、ただ歩きたかっただけだった。蒼と、鴨川沿いを、夜風の中で。

「子どもの頃、ここで水切りしたの覚えてる?」

 蒼がふいに言った。

 綾芽は、少し笑った。

「うん。私、三回しか跳ねなかった。あなたは七回跳ねて、得意げだった」

「ちょっと見てて」

 蒼は河原の小石を拾い、片膝をついた。

 川へ向けて、低く、鋭く投げる。

 石は、水面を滑り、四回、五回、六回……そして七回目で沈んだ。

「変わってないじゃない」

「変わったよ。気持ちが、全然」

 綾芽は、黙った。

 風が、髪を揺らした。

「……玲奈とは、終わったよ」

 静かな声だった。

 でも、その静けさが逆に決意を帯びていた。

「俺、彼女といるとき、いつも比べてた。……綾芽と」

「それは、あなたが私のことを美化してるだけ」

「違う。君は、綺麗じゃなかった。優しさだけで出来てたわけじゃなかった。時々怒ったし、拗ねたし、言葉で傷つけてきた。けど——」

 蒼が一歩、近づいた。

 綾芽の肩に、風のように手が触れた。

「俺、その“綺麗じゃなさ”が忘れられなかった」

 胸の奥がぎゅっと縮まった。

 この言葉を、どれだけ待っていたか。どれだけ、否定しようとしてきたか。

 でも、これ以上は。

「ダメよ。ここは……」

 川の音が、急に遠くなる。

 次の言葉が出ない。

 蒼がそっと、彼女の頬に手を添えた。

 街灯の光が、水面に揺れる。綾芽の瞳に、それが映る。

「……綾芽」

 名前を呼ばれた瞬間、ふたりの距離が、あとわずかに縮まった。

 唇と唇の距離、あと数センチ。

 そのとき、遠くで犬の鳴き声がした。

 小さくても、確かな現実の音。

 綾芽がはっとして、一歩、後ろへ下がった。

「……だめ、ここじゃない。今じゃない」

 蒼は何も言わなかった。

 ただ静かに頷き、手を引っ込めた。

 ふたりの間には、濡れた夜の空気と、まだ拾えない器の欠片があった。

(第4章 完)


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