鴨川の流れは、夜になると音を変える。
さらさらと軽やかに弾む昼間とは違い、どこか深く、低く、囁くような音になる。
石畳の遊歩道には夜風が抜け、川面には街灯がゆらゆらと滲んで映っていた。光は、まるで水に刺さった針のように歪んで揺れた。
蒼と綾芽は、並んで歩いていた。
左手には小さな懐中電灯。右手には空の和紙袋。
どちらも“器の破片探し”という名目で持ってきたものだ。
玲奈が器を再び叩き割ってから三日。綾芽は黙って破片を拾い集めたが、ほんのいくつか、どうしても見つからないかけらがあった。
「ここにはないと思うよ、本当は」
蒼がそう言った。
綾芽は、わかってる、と返さずにいた。
「わたしもそう思う。でも……こうしてると、少し楽だから」
歩きながら拾うふりをする。灯りを照らすふりをする。
本当は、ただ歩きたかっただけだった。蒼と、鴨川沿いを、夜風の中で。
「子どもの頃、ここで水切りしたの覚えてる?」
蒼がふいに言った。
綾芽は、少し笑った。
「うん。私、三回しか跳ねなかった。あなたは七回跳ねて、得意げだった」
「ちょっと見てて」
蒼は河原の小石を拾い、片膝をついた。
川へ向けて、低く、鋭く投げる。
石は、水面を滑り、四回、五回、六回……そして七回目で沈んだ。
「変わってないじゃない」
「変わったよ。気持ちが、全然」
綾芽は、黙った。
風が、髪を揺らした。
「……玲奈とは、終わったよ」
静かな声だった。
でも、その静けさが逆に決意を帯びていた。
「俺、彼女といるとき、いつも比べてた。……綾芽と」
「それは、あなたが私のことを美化してるだけ」
「違う。君は、綺麗じゃなかった。優しさだけで出来てたわけじゃなかった。時々怒ったし、拗ねたし、言葉で傷つけてきた。けど——」
蒼が一歩、近づいた。
綾芽の肩に、風のように手が触れた。
「俺、その“綺麗じゃなさ”が忘れられなかった」
胸の奥がぎゅっと縮まった。
この言葉を、どれだけ待っていたか。どれだけ、否定しようとしてきたか。
でも、これ以上は。
「ダメよ。ここは……」
川の音が、急に遠くなる。
次の言葉が出ない。
蒼がそっと、彼女の頬に手を添えた。
街灯の光が、水面に揺れる。綾芽の瞳に、それが映る。
「……綾芽」
名前を呼ばれた瞬間、ふたりの距離が、あとわずかに縮まった。
唇と唇の距離、あと数センチ。
そのとき、遠くで犬の鳴き声がした。
小さくても、確かな現実の音。
綾芽がはっとして、一歩、後ろへ下がった。
「……だめ、ここじゃない。今じゃない」
蒼は何も言わなかった。
ただ静かに頷き、手を引っ込めた。
ふたりの間には、濡れた夜の空気と、まだ拾えない器の欠片があった。
(第4章 完)